ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

コロナ後の新しい日常世界〜どうなってほしい〜回復ではなく再生と調和を〜No13「死神」からNo14「節制」の天使へ〜

元通りにならなくていいこともある。

戻るのをやめる、と言い切る識者も複数いる。

例えば全く元に戻って、また満員電車に乗るのかと思ったら具合の悪くなる人だっているのではないか?これまでとは全く違う生活を経験してそちらが快適だったら、元に戻りたくないという感情を抱くのは人間として当然だ。全く元通りにしなければならないなら、仕事を変えようかなと考える人も出てくるかもしれない(それもひとつのチャンスか)。

地獄から天国に行けた人は、「みなさ~ん、戻れることになりましたので地獄へ戻ってくださ〜い」と促されて「は〜い」と素直に喜んで戻るだろうか。「え?戻りたくないんですけど」と思う方がごく自然な感覚だ、と私は思う。

 

回復 元通りになること

再生 衰え、死にかかっていたものが生き返ること

   精神的に生まれ変わること

 

回復と再生は違う。

再生とは「ルネサンス」のことだ。

ルネサンスは「文芸復興」などと訳されている。古典古代の復興とそれに基づく文化の発展、さらに宗教改革も含まれている。中性的暗黒と腐敗からの脱却と再生、という意味でのちの歴史家があの時代をルネサンスと名付けた。

この再生にもうひとつ大事な視点がある。人文主義すなわちユマニスム、ヒューマニズムだ。人間の自由と個性を尊重する社会が求められた。その視座に立つ宗教家、芸術家、文学者、学者が多く出現し、さらに彼らを保護する王族もいた。 

今回のCOVID19パンデミックの様子を見ていると、世界、社会システムの変容が要求されているように私にも見えるし、多くの学者たち(経済学者、歴史学者、哲学者……)も、世界のあちらこちらでこぞってそう語っている。これは、ある種のルネサンス到来なのかもしれない。

500年前のヨーロッパで人々を束縛していたのは、社会の封建的システムだった。例えば庶民は聖書を読むことができなかった。神との対話は聖職者を通してのみ許されていた。人文主義者たちの活動には、聖書の母国語訳も含まれている。

 

21世紀の今、ここまでの社会はすばらしく良い社会だったとは言い難い、と考える人も多いことだろう。

2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士は次のように言っている(2020年5月9日毎日新聞)。

いままさに全世界に重要な問いが提起されている。この世界を、新型コロナに襲われる以前の世界に戻すのか、それとも新しく設計し直すのか、という問いだ。決定は完全に我々に任されている。

新型コロナウイルスが登場する前の世界は、言うまでもないが良い世界ではなかった。世界は悲鳴を上げていた。

私たちは気候変動が引き起こす大災害によって、全人類の存在が脅かされるまでの残りの時間を数えていた。人工知能(AI)によって膨大な雇用が失われ、富の集中は爆発寸前のレベルに達していた。

私たちも努力はしたけれど、不十分だった、と博士は言う。

新型コロナは突然、世界の文脈と計算式を変えた。それまでは存在しなかった新たな可能性の扉が開いた。

自由に未来を選択できる、と述べる博士。

経済を再開する前に、我々はどのような経済制度の中に暮らしたいのか、話し合い、合意を形成するべきである。

経済は、「ひとつの手段」であって「死の罠」のようなものであってはならない。

二酸化炭素排出ゼロの世界を作りたいなら、失業ゼロの世界を作りたいなら、富の過度な集中がない世界にしたいなら、そうするためのハードウエアとソフトウエアを作ればいい。(略)不可能なことはない。

さらに世界全体の方向性が一致すれば容易に進むと述べる。

それは「もといた場所には戻らない」という方向性だ。「回復」という名のもとに、再び同じフライパンの中には飛び込まない。あえて「回復」計画と呼ばず「再構築」計画と呼んでいるのは、私たちの目的を明確にするためだ。

 

産業革命からこちら、科学の発展によって人間の生活は便利になり、豊かになった。が、その一方で忘れ去ってしまったことや、犠牲にしてきたことが多々あり、それらが、COVID19の登場と、このウイルスへの対処方法によって、明らかになった。浮き彫りにされたのは、まさしく「良い世界とは言えない」生活様式だったり、価値観だったりした。

ラッキーなことに「良い世界とは言えない」部分が、行動自粛やロックダウンという対策によって改善された。例えば、空気や河がきれいになったり、満員電車のストレスから逃れることができたり、どれほど具合が悪くても会社は休むなとか、24時間働けますかなどと言われなくなった。

大気が汚染された混雑した世界は、ディストピア映画でよく見かける光景そのものだ。

ユートピアや天国、宇宙のどこかの平和な惑星は、自然が豊かで空間が広く混んでない。ご存知のように、地獄と言われる所は、絵画でも小説でも映像でも、人間がひしめき合って苦しそうだ。

 

また、COVID19は別のことも教えてくれている。すなわち「自分だけよければいい」という価値観を思い切り揺るがしてくれた。

ウイルス拡散のメカニズムも然り、社会の仕組みも然りである。みな、つながっており、自分さえうまくいけば勝ちだ、とはならないということがよく分かった。自分の成功のためにどこかで誰かが悲しんでも、誰かが苦しんでもいいのだ、誰かの失敗は自分の成功だ、は通じない。極端に言えば、誰かが死ねば自分も死ぬ。抜け駆けはできないし、それはむしろ危険行為となってしまう。

本当はこれまでもずっとそうだったのだが、見過ごされていたし、それが当たり前だという価値観もあった。日本では、勝ち組負け組などとも言われていた。

 

元に戻りたい一心は、個々人も社会も国も、おそらくは「経済」であろう。下世話な表現をすれば「金儲け」である。

生活には金がかかる。お金がなければ食物を摂取できずに死んでしまう。あるいは、私たちは金儲けをすることが人生最高の素晴らしいことだと、おそらく、教わっている。

COVID19のお陰様で、とにかく生きていくお金さえあれば、という気持ちに駆られた人は多いだろう。会社や店舗を維持していくための費用が、これほど明確に見えたこともないだろう。自粛やロックダウンで収入がぱったりととまってしまって、家賃や光熱費やローンを支払うことができなくなってしまった。翌月もどうなるか分からない。贅沢をするお金なぞは二の次だ。実は人間というのは、お金はなくても、衣食住に困らなければストレスはない。

資本主義社会、消費社会においては、預金額の多寡やどれほど高価な消費をするかといったことがステイタスや自己満足の指標となっている世間体、社会的価値観というものが世界中を席巻していた。

ムハマド・ユヌス博士は次のようにも言っている。

人間の本質は金銭欲ではない。

自分を守りたいという自己防衛本能だ。金銭欲は、自分の持つものを永遠に持っていたいという欲求がゆがんで膨らんだ末に噴出したもので、世界で主流を占める経済理論などの外部要因によって強化されている。

(同上)

 

私たちは、お金を使わされるために働かされている。フォーディズムは、果たして善だったのだろうか。フォードとしては、金持ちだけではなく、庶民みんなに自家用車を持ってほしいという善意ももちろんあったであろう。それで庶民の暮らしは確かに豊かになった。が、賃金を上げて、労働させて、買わせる、それで会社は大儲け、というシステムだ。移動は一段と便利になり社会も発展しただろうが、光化学スモッグも増えた。

労働者は消費者である、という観点は大事だ。ただし、21世紀の格差社会のなかで低賃金労働者を重宝がっていると、しまいには企業も労働者(=消費者)も共倒れになるだろうという観点で。企業が、どれほどたくさん生産しても、それを買う人がいなくなるからだ。

あなたがいくら稼いでも周りの人々が餓えや病気に苦しんでいたら無意味です。民主主義は、自分のことだけではなく、お互いを思いやることで機能します。

これは、COVID19禍でのある大学の卒業生へ向けたオバマ前大統領のスピーチ。

 

人は何のために生きているのか。

COVID19は哲学の根本を問い掛けている。

忘れてしまった、あるいは故意に見過ごされてきた大切なことを取り戻すように仕向けてくる。

 

「再開は選択だが、どのようにするのか、だ」

というようなことを、CNNキャスターのクリス・クオモが言っていた。

つまり社会生活を再開するのだけれど、じゃあ、どんな形で再開したらいいのか、それを考えないとね、ということなのだと思う。

全く今まで通り、2019年までのように、というわけにはいかない。

一挙に元に戻ろうとすれば、人の移動と密集が以前以上に起きて、今よりももっとひどい感染症パンデミックを引き起こすことになる、と科学者も人文学者も口を揃えて言う。

 

タロットカードNo13「死神」のメッセージは、「死と再生」である。すなわち、再生する前には死がある、ということだ。死にゆくものとは「古いもの」である。

COVID19禍においての古いものとは、実体験と学者たちの言説からすると、これまでの習慣、社会システム、価値観、生活様式、働き方などなどのようだ。そして、新しい生き方が求められている。

 

経済至上主義による弊害の最たるものが地球環境破壊、大気汚染、気候変動だと考えると、単純に考えて、強欲な金儲けをやめることが解決の第一歩になる。ロックダウンで経済活動が止まったら、空気も運河もきれいになったのだから。

  

「密」を避けることが予防策になるというCOVID19。元にどうやって戻そうかと画策しているなか、せっかくなので「死神の大鎌」で切り捨ててほしいことがある。

あらゆる混雑。例えば、満員電車、ギュウギュウ詰め状態の映画館、劇場、飲食店。

あらゆる無駄。例えば、長時間労働、長時間通勤。

あらゆる大気汚染の要因。

弱肉強食と富の集中。

不親切と下品。

……

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Tarot de kinirobotti「No13死神」 @kinirobotti

 

世界のどこにいてもリモートワークができることが分かった(以前から知ってはいたのだが)ので、出社日数を減らすことは可能だ。これこそが働き方改革ではないか。

すでに都内の高額家賃事務所を引き払う会社もでてきている。渋谷、青山という住所がステイタスだった時代も終わってほしい。私事だが、青山で占いをやっているとお知らせすると、そこに食いついてくるお客さんがたくさんいることに私は少々違和感を覚えていた。

家賃やなんやかやにお金がかかるので、金儲けをしなければならないというそうした地獄の循環がいわゆる成功の姿のように思い込まされてきた人類。例えば現在カリフォルニアでは、家賃の高騰でもともと住んでいた人たちがホームレスになるという奇妙な現象が起きている。日本もかつてそんな時があった。そういう姿が人類の文明文化的発展なのだろか。少なくとも文化的進歩には見えない。

 

冒頭にも書いたが、日本の場合、満員電車は最強のストレスだろう。緊急事態宣言期間が終わって、また満員電車に乗らなければならないのか、とがっくりしている人もいるのではないか?

在宅ワークだって、昔から希望する人は多かった(やはり満員電車が苦手で)。が、いわゆる内職を除いてまずほとんどなかった。が、この度、リモートワークで十分じゃん、という仕事があることも分かった。

再び卑近な例だが、昔々、友人が結婚して退職することになった。残りの仕事を頼まれて在宅で仕事を引き受けることとなった。当時はオンラインなどないので書類を郵送でやり取りしていた。最後の書類を送るとき「このような形で仕事をさせていただけませんか」と問い掛けたそうだ。心身ともに在宅での仕事がやり易く楽しかったのだろう。彼女はもともと教師だっだが色々あって引退したもったいない口だ。結局、在宅ワークは叶わなかった。今回の緊急事態宣言下で、ふと思い出した事のひとつだ。

 

テレビ番組の作り方もこのまま変わってほしい。そもそもアメリカのニュース番組は、コメンテーターをわざわざキャスターの横に呼んで並べたりしていない。複数名の意見を同時に聞くときだってリモート画面が並ぶ。

 

ジェット機に乗ってわざわざ時間とお金を使って大気を汚染させながら集まらなくても、十分に地球中の人と対話し会話し、インタビューし、会議することができるということをCOVID19は気づかせてくれた。

当たり前だと思い込まされていることは、変えようとしないから続いているだけだ。

 

劇場や映画館の密を避ける取り組み。一席おき、一列おき、列ごと互い違い着席などは、私としてはとても嬉しい。前列の人の大きな頭や無闇に張り出される隣席からの肘に嫌な思いをせず、気持ちよく鑑賞できる。そもそも私が映画館へ行かないのは、混雑が苦手だからだ。井筒監督も、余裕のある座席で鑑賞するのもいいのではないか、と発言していた。

状況が積み重なっていくことで、演劇も映画もコンサートもライブも、ギュウギュウ詰めじゃないと盛り上がらないよねという意識や固定観点が徐々に変容して、いつの間にかそれが普通になっていることだろう。いや、そうなってほしい。期限付きではなく。たぶんこちらの慣習のほうが快適だと思い始める人が一定の割合を越えれば元には戻らないだろう。

 

劇場や店舗をギュウギュウ詰めにして得ていた収入は、新しい生活様式にすると明らかに減る。お金の回し方も変わってこざるを得ない。おそらくは経済そのもののあり方が変容するべきなのだろう。経済学者の出番だ。

私はただの占い師なので詳しいことは分からないが、どこかで大儲けやいわゆる搾取をしている人たちがけっこうな数いるから、庶民が生活や税金の支払いのために金儲けをしなければならないという構図、巧みなシステムになっているのではないか、と想像する。もうひとつは、大儲けする人たちの広告宣伝に煽られてしまった消費欲を満たすための労働と金儲け。

 

効率優先、定量的価値観による人物評価と自然破壊をやめて、人間と人間、人間と自然、互いの尊厳を認め合ってゆったりと過ごせる社会は、科学の進歩となんら反比例するものでは本当はないのだろうと私は思っている。

それを表しているのがNo14「節制」のタロットカードだ。天使が、科学と人文を混合させて調和を生み出している。

「節制」というのはそういうことなのだろう。つまり、人類はあまりに強欲で傲慢になりすぎた。即物的拝金主義者たちは、そろそろ節度を見いださねばならない。

「今だけ金だけ自分だけ」という便利や強欲にまみれて、人類は節度を忘れてしまったのかもしれない。いや、そもそも「節制という徳」が身につけられた時代は、プラトンが「対話篇」で人間の徳の大切さについてソクラテスに語らせてからすでに二千数百年の年月と歴史が流れ去ったが、まだ一度もないのだろう。

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Tarot de kinirobotti「No14節制」 @kinirobotti

 

ニューヨーク州のクオモ知事が提唱したニューノーマル、日本でも言われている新しい日常が実践されて習慣化していけば、地獄絵図的暮らしからの脱却は一部叶うことになるという希望が存在している。

ニューノーマルなるものが、いっときのもので終わるのか、人類のシフトアップにつながるのか、それは、ひとりひとりの「気持ち」次第なのだろう。

 

距離を取りながらも人は繋がることができる。幸い21世紀は、オンラインというシステムがそれをより上手に助けてくれる時代だ。しかし、ヘンリー・ソローは200年ほど前に生きた人だ。

ヘンリー・ソロー著「ウォールデン 森の生活」

に次のようにある。 

私たちは生活を簡素にして家にとどまることにしました。となれば、鉄道に乗りたい人はもういないはずです。

そもそも私たちは、鉄道に乗りたかったわけではないのです。鉄道が私たちに乗って押さえ込み、支配したのです。

(上巻P230 小学館文庫)

社交の挨拶なら、ふたりで相対して立ち、息づかいを感じて話すのもいいでしょう。けれども、互いに考え抜いた意見を慎重に伝え合うには、少し離れ、互いの命の火の熱と吐息が散る空間がいります。

もし本当に自由で仲の良い社会なら(声にして話すまでもないか、言葉によらない会話がある社会です)、市民はあまり声を立てなくてよく、互いに声が聞こえない距離を取って暮らすことができます。

私たちが普通会話と呼ぶものは、考えない人のためにある、と言えます。声が大きすぎては表現しにくい多くの繊細な話題があります。

森の家で会話が深まると、私と友人は、互いに椅子を後ろにずらして距離を取り、部屋の相対する角にぶつかって、もう少し距離が欲しいな、と思うのでした。

(上巻P361)

古い習慣を捨て、新しい、良き習慣を作るのは簡単なことです。

(上巻P363)

 

詩人で書評家の若松英輔は、人間関係には「交わり」と「つながり」があると語る。

「交わり」⇒実際に会って言葉を交わすような物理的接触

「つながり」⇒場を共有しない目に見えない結びつき

ソーシャルディスタンシングによって、何十人もが出席する形式的な会議や、毎日出社し顔を合わせて「交わる」ことは、それほど必要ないことがわかってきました。

むしろ離れている方が相手の存在を強く感じられる場合も少なくない。あるいは、地球の裏側にいてもつながることはできる。今私たちは身体的な交わりを制限されていますが、仕事でも私生活でも、精神的なつながりを深める契機に立っているのだと思います。

(略)

自分たちがどう生きたいかを真剣に考え直す契機でもある。

(2020年5月24日「毎日新聞」)

 

政治学者、思想史家の白井聡が「コロナ危機が露にした構造とさらなる危機」と題したインタビューで次の項目を上げている。

資本主義の構造的問題

命の不平等顕著

搾取の連関構造

米中緊張激化を憂慮

(2020年5月11日「しんぶん赤旗」)

これらの問題が引き起こしている地球環境破壊。これらの呪縛を解こうとするとき、自ずと地球の自然は取り戻されていくのだろうと推測できる。環境破壊について真剣に取り組まないのは、経済活動、つまり金儲けを止めたくないからだ。

 

戻りたいのか、戻りたくないのか。

戻りたくはないけれど、取り戻したいことはある。

 

若松英輔は、さらにこう話しています。

これまで見過ごしてきたものを取り戻しに行く前向きな旅は、後ろに進むのです。

かつての「ノーマル」な世界がもう存在しないことは明らかです。方向も確かめずに安易に前進すると、同じ過ちを繰り返すことになりかねないと思います。

(2020年5月24日「毎日新聞」)

 

「どう生きたいのか」を決めるは人類自身の選択だ。

 

よく考えておくべきだ、いったい何に元どおりになってほしくないのかを。

イタリアの小説家パオロ・ジョルダーノは「コロナの時代の僕ら」で、そう訴えかける。

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