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〇〇にも才能は宿る〜生来なのか自我膨張なのか

 いつだったか、ある学者があるアーティストの発言を受けて「クズにも才能は宿る」という発信をして謝罪する、という出来事があった。

 

 思想的な発言については人それぞれなので、それこそ言論の自由だ。とはいえ、例えば自分が思っていたことと違うことを自分自身がファンである歌手なり俳優なり作家なりが発言したとき、おそらくは落胆したり批判したりすることはあるかもしれないし、ファンをやめてしまうこともあるだろう(私にもそういう経験はある)。

 そうした明確な発言ではなくても、態度だったり性質だったりがインタビューやトーク番組などであからさまになって、思ってたのと違う、あるいは、え、こんな人だったの?というある種の気づきや証明が思いがけずやってくることもある。私もつい最近経験したばかりで、こちらにすでに記事を書いた。とはいえ、それはファンや視聴者や読者が勝手に思い描いていた理想や妄想と違っていた、ということに過ぎないのではないか、ということを考えれば、こんな人だったの、と思われてしまった人物には迷惑な話ではあるのだろう。それでも、道徳や倫理観となると、理想や妄想というよりも「人間として」の部分も大きいだろうから、落胆や軽蔑的視線は致し方ないだろう。

 

 私自身の経験もあったゆえに今これを書いている、のではある。すなわち、ある学者が謝罪をすることになった「クズにも才能は宿る」という言葉を、私はあらためて感じ入ることになったからである。

 

 クズという言葉はあまりよろしくない表現だとは思うが、これ以外に適当な表現が見当たらないので、申し訳ないが使用させていただくことをお許し願いたい。

 

 さて、私が思ったのは「クズにも才能は宿る」は、「クズにこそ才能は宿る」なのか「才能を発揮したのちクズになる」のか、という疑問だった。

「にも」「こそ」「のち」問題。

 

「にも」というときはもちろん、才能のある人々のなかには立派な人格者もいる、という意味を含んでいる。私はしかし、これまでに世間を不愉快にさせた事件、出来事を振り返ってみたとき、「にも」というよりも「こそ」ではないか、と思ってしまったのである。

 例えばオリンピック関連のスキャンダルが記憶に新しいが、才能豊かな人々の過去から現在の不適切な言動が暴かれて次々退場していくということがあった。

 「クズではない才能ある人」はどこにいるのですか?と問い掛けたくなるほど、この手のニュースは暇がない。

 私たち人間は誰でもクズな面を持っているので、他人を批判し糾弾するのはどうなのかという意見もある。だが、有名人というのはちょっと話が違ってくる。公の人間だからだ。たとえ公務員ではなくても広く世間に知れ渡る仕事、公の仕事、公になる仕事をしているわけなので(オリンピックの場合はまさに公務だったわけだが)。内田樹(思想家・武道家)がよく言っているように、公の仕事をする人間は一般社会の名もなき人間たちよりも道徳的でなければならない、倫理観が高くなければならない、と私も思う。なぜなら社会への、人々への影響力が大きいので。

 その先頭にいるのが政治家なのだが、これがまたひどいことになっている。政治家としての資質もさることながら、人間としてどうなのかのレベルまで下がっている。政治も才能なので、確かに過去を振り返ればクズにも才能は宿る的な人物はいたように思うし、今もいる。というか、そもそも政治の世界は善人では務まらないのかもしれない。なにしろ善人は弱いので。

 

「クズにも才能は宿る」というある学者の発言を知ってからこうした人々を眺めてみると、「クズに“こそ”才能は宿る」なのではないかと、悲しいかな考えざるを得ない例が目の前にオンパレードだ。

 昔からよく言われているように「天才は変わり者」「天才と狂気は紙一重 There is a fine line between genius and insanity」に近いのかもしれない。天才だと許されることが、凡人だと許されない。無礼だったり、遅刻だったり、自分勝手だったり、ときに犯罪(まがい)まで。ちょっと常識がないではすまされないようなことも多々ある。自分だけの世界に籠もって創作している分にはまだいいが、組織のなかで権威的存在になっていたりすると厄介だ。多くの人を傷つける。

 でも、アーティストの場合、売れるものを創作してくれればいいわけで、本人の人格や性質には意識的無頓着の体で保護し創らせる、というホラー的なことも実はあるのかもしれない。その人物をクズにしてしまうのは取り巻きたち、ということも多々ある。

 

 人によっては、成功して良心を取り戻す人もいるかもしれないが、過去の自分と向き合うのが苦痛になるだろうと想像できる。そもそも反省的性質(これは良い性質なのだが)の強い人は自己否定観が強いので、すなわちネガティブなので、そういう人はあまり世間的に成功しないかもしれない。

 と考えると、心臓に毛の生えた良くも悪くも自己肯定感の強いポジティブな人間だからこそ成功する、と考えることもできる。ゆえに「こそ」が成り立つのである。

 ただひとつ怖いと思うのは、こうした天才(能力ある人)が、自身のパワーと自分とのバランスをとるために(本人は気づいていないが)、悪事を働いて精神を休めるというようなことがあるのではないか、ということだ(平易な表現で申し訳ない)。それが環境的トラウマなのか、成長を放棄した自我なのか、その区別は難しいかもしれない。

 

 繰り返すが、才能ある人々の悪質ぶりが明らかになるにつけ、「クズにこそ才能は宿る」なんだなぁ、と思わざるを得ない。

 

「才能を発揮したのちクズになる」はどうだろう。

「才能を発揮したのちクズになる」タイプは、理解に難くないと思う。すなわち、傲慢になってしまう人たちだ。ユング心理学でいうところの「自我膨張」※。このタイプはむしろ多いと言えるかもしれない。私たちの日常生活のなかにも一定の割合で存在している。ドラマや映画のなかだけではなく、あの人は全くの別人になってしまった、という実体験を持つ人は少なからずいることだろう。

 謙虚すぎるのもまた問題だが、それでも傲慢よりはいいのかもしれない。いや、謙虚すぎる人のなかには、傲慢の裏返しの人もいたりする。人間というのは複雑だ。純粋に謙虚であることなんてできなのかもしれない。けれども、そうしてあれこれ思考を重ねることは悪いことではない、と私は思っている。少なくとも自分自身の「クズ」「傲慢」「自我膨張」からは遠ざかることができるかもしれない。

 

 さて、とりあえずここでまとめると、「クズにも才能は宿る」と言われしまう人たちのなかには、「クズにこそ才能は宿る」と「才能を発揮したのちクズになる」が混在している、ということだ。元来のクズと自我膨張のクズ。そして、元来のクズのほうが強力だ(それは、なぜ悪は善よりも強いのか問題につながっていく)。

「こそ」とは思いたくないし言いたくないのだが、表に出てくる不祥事の数々を見聞きするにつけそう思わざるを得ない、というのが目の前の現実だ。

 

「自我膨張」は、学びや反省によって、回避したり、なくしたりすることができる。

「名もなき人々のなかにこそ善なる才能は宿っている」のだが、それはなにしろ「人知れず」なのである。

 

※自我膨張

自我すなわち個人の意識の中心が、人間の限界を超越した元型的な像と同一化した(自分がそれになってしまったと想像している)状態。

(サニー・ニコルズ「ユングとタロット 元型の旅」P240)

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