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三浦春馬さんの死に寄せて③〜人の死をどう悼むのか〜ルポルタージュ〜

誰かが死んだとき、あなたはどう反応しますか?

 

人の死にあたって「いい人だった」と、仏さま化することが多い日本。確かに死んだ人のことを「仏様」と僧侶たちは呼ぶが、決してブッダ(悟った人)ではない。
とくに政治家を悪く言う人はおそらく皆無に近い。

ところが海外では、首相や大統領でも、死んだからといって褒めたり、残念がったりする人ばかりではない。以前、サッチャー首相が亡くなったときに「あの人の政治はひどいものだった」と悼むのではなく、きっぱりと意見している高齢女性(イギリス人)が街角インタビューに応じているのをみたとき、日本人の私としてはなかなか新鮮な気分だったのを覚えている。

政治家の場合は死んだあとだって、100年後だって500年後だって、称賛もされれば否定もされる。政治というのは、そういう厳しい仕事だ。政治家だけではないが、Black Lives Matterによって、かつては英雄と言われていた人々の銅像が引き倒される事象があちらこちらで起きている。白人目線、ヨーロッパ目線で語られていた歴史が変わっていく瞬間に地球は今さしかかっているようだ。

ディケンズの「クリスマスキャロル」風に言えば、死んだあとあなたはこうなりますよ、と未来のクリスマスの霊がスクルージに見せて注意を促している映像のようだ。

 

自分の知らない人、さほど近い人ではない人の死の場合には、特に悲しい気持ちにはならないだろう。それが普通だ。あ、亡くなったんだ、と。いや、それすらも思わないかもしれない。

友人知人の親族や配偶者その他近しい人の場合には、その人物たちを知らなければ友人知人のほうを気遣うだろう。もちろん、知っている人ならともに悲しむ。

 

いくら凶悪犯でも、その死を大喜びするのはいただけない。以前、ビンラディンの暗殺に成功した映像を見ながら嬉しそうにしているオバマヒラリー・クリントンの姿を見て、それはちょっと……と感じたことがあった。もちろん、アメリカにとっては復讐を果たしたということなのだ、ということも分かるのだが……、やっぱり殺しているわけなので、いくら仇討ちでも殺人に正義はないはずなので、せめて淡々と静かに受け止めるのが人間としての礼節のような気がした。

 

俳優や歌手の死は報道されることが多い。有名な人ほどそうだ。メディア関係者のまさかの態度にショックを受けたことがある。当時は大変なスターだったが、彼について知っている人はすでに一定の年齢の人しかいないアメリカのスターだ。私もファンだったので、彼を通した様々な思い出がある。だが、さほど今は知られていないので、なかなか取り上げてくれる報道番組がなかった。そんななかでけっこう枠を取って報道してくれた報道番組があった。嬉しかった。だが、報道後のアナウンサーのコメントがあまりにひどく、がっかりした。もうこのくらいでいいでしょう、というようなことを言ったのだ。番組スタッフの女性が亡くなったこの大スターの大ファンで、どうしても放送してほしいと言われたから取り上げた、ということだった。

自分が知らないからといって、それはアナウンサーとしては失格だと私は思った。知らないのに知ったかぶりをするのもどうかと思うが、知らない人物なら知らないと言って、そして少しは調べて、そのスターのファンだった人たちは世間に、視聴者のなかに大勢いるのだから、その人たちの気持ちを慮った発言、発信をする、それがアナウンサーの仕事ではないのか、ととても落胆した。私はその日以来、そのアナウンサーをあまり見たくない。見ないようにしている。

 

芸能人の死については、その死を悼む声が芸能人のみならずファンからも多くの声があがる。

これは、SNS時代の特徴なのか……。人の死への冒涜とも言えるような表現があちらこらちで目立つようになった。

政治家をはじめとする、公人やそれに近い人々の場合は批判的発言があっても然るべきだと思うが、いわゆる芸能人には、よほどの悪人でなければ死後に罵倒するのは気持ちのいいものではない。

今回のCOVID19で亡くなった岡江久美子志村けん岡江久美子に関しては、批判とか罵倒ではないようだが、嘘をSNSで流す人がいたようで、岡江の娘が注意を促していた。

志村けんについては、女性の人権を訴える活動をしている人たちからの否定的な発信があった。これまでの志村の言動や芸風が女性蔑視につながってきたというような理由だった。あまりに偉大な芸人というように称賛されていたがゆえの反旗だったのであろうと想像はできる。正直、これは難しい。が、彼(女)らは彼の死を冒涜しているのではない。女性人権の立場から発信している。ゆえに、これは公人に対する反応と同質だと私は理解している。

 

誰かの死。その誰かをよく思っている人もいれば、そうでない人もいる。誰かにとっては恩人でも誰かにとっては仇敵かもしれない。野村沙知代が亡くなったとき、渡辺絵美が押しかけてきた取材者に対して、何も言うことはないとそっけない対応をしていた(聞きに行く方も行く方だが)のが印象的だった。

 

死者に対して、故意に悪態をつく人もいることだろう。

有名人の場合には、けっこうあるのかもしれないが、共演者や仲間たちがおかしな発信をするというのはあまり見たことがないと思う(私の拙い経験のなかでだが)。

今回、三浦春馬の死にたいして「なにこれ?」と思ってしまう発信をする俳優たちがいて、とても驚いている。

「ばかやろう、死ぬんじゃねぇ」という叫びなのだろうか?

それにしても……ちょっと……。

本人たちがどのような気持ちやノリのなかでやってしまったのか、どれほど言い訳しようとも、それを見たり読んだりした人が不快な気分になるのなら、それはやはりどこか不具合があるのだと考えるほうが自然だと思う。

 

本当のところは分からない。

理由として考えられるのは、

そんな風に言われるほど、そんな無礼なことをされるほど、彼は仲間たちから疎ましく思われていたのか?仇的?

嫉妬?

演劇論をたたかわせたときの恨みつらみ?

橋本じゅんのブログには、嫉妬や断罪的なにおいを感じたし、勝村政信の発信からは、揶揄や侮辱すら感じる。

三浦の死も不可思議だったが、こうした発信も不可思議だ。

すごく親しいから乱暴なことも言えるということか?いやいや、それは違う。死に対してはまずはおそらく言葉もなく、なんとか受け止めて、そして静かに発信する。城田優神木隆之介のように。だが逆に、城田や神木のような発信を偽善だとか振りだとか言う人もいるようだ。

私にはその真実は分からない。分からないがしかし、少なくとも、死者としての彼、生前の彼の人生、これまでの仕事への敬意というものを城田と神木は誠実に表明し、悼んでいる。出てこない言葉をなんとか絞り出してファンたちのためにも語ってくれているのではないだろうか。そしてそれは、ファンたちのグリーフケアの一部となる。

正直なところ、橋本と勝村の発信にはそんな誠実さは微塵もない。グリーフケアの最中のファンの心には有毒だ。私自身も大変に気分が悪くなった。

もし生前に何かあってそれについて何か言いたいことがあるのなら、正直に話せばいい。揶揄とかではなく、まっとうに語ったらいいのではないだろうか。渡辺絵美やロンドン市民のように。誰かにはいい人でも誰かにはいい人ではない、というのは当たり前のことなのだから。そして世間から批判されたからと発信を消したりしないことだ。

その言い分が正当かどうかは、舞台やドラマを観た人たち、周囲の俳優やスタッフたちが公平にジャッジしてくれる。

正々堂々としていない彼らの言動は、一生懸命学んでいる人、頑張っている人を冷笑する日本人の代表のようだ。学校でよくある、一生懸命勉強している人をからかったり、バカにしたりする「あれ」だ。

もし彼らに正当性があったとしても、その発信内容があまりにも品性に欠けており、死者への冒涜と言わざるを得ない、と私は感じている。死者だけではない。人間の尊厳を無視する人たちなのだろうと思わざるを得ない。こういう人に限って、自分が悪く言われると烈火のごとく怒ったりする。

志村けんに対する女性たちの反応のようなものなら、許容できるし、その背景も理解できる。が、この人たちの言動は、ただただ不愉快を広げる。

 

奇しくも、COVID19が世の中の真実を炙り出したように、三浦春馬の死は、残された人の本性をあからさましてくれるという試しを残してくれたようでもある。興味深い。

 

私は先の記事で、三浦春馬は神様が「もういいよ、帰っておいで」と連れて行っちゃのではないか、と書いた。映画「幸福なラザロ」になぞらえて。

上記の俳優たちの発信を見るとなおさらそう思わざるを得ない。こんなに下品で無礼でマウンティングでハラスメントな人たちといたら、どうしていいか分からない。

「泥中の蓮」とか「掃き溜めに鶴」と言って、昔は美しく語られていたが、これは実はありえないのではないか、と21世紀の今、そう思う。世間の荒波でもなんでもない、ハラスメントでありイジメだ。我慢してはいけない。「逃げるは恥だが役に立つ」である。

清流を好む人間は、泥中や掃き溜めでは萎えてしまう。

(詳しくは「三浦春馬さんの死に寄せて②」でご確認ください)

 

これ以後、少なくとも私は、この人たちが出演するドラマを忌み嫌うと思う。現在放送中の良いドラマがあって、とても残念だ。

 

附記

よき理解者に恵まれなかったのかもしれない。

城田優はどうだったのかな。高橋優の歌への感想をもうずっと以前に読んだことがあるが、深い思考力と感性のある人だと感じた。

高橋優と言えば、「ルポルタージュ」のミュージックビデオに三浦春馬が出演している。同じアミューズだった。これは、三浦主演のナイトドラマ「オトナ高校」のテーマ曲だった。

高橋優は2020年6月30日、アミューズを離れた。契約的なことなのか何なのかは分からないが、デビューから12年、かぁ。離れて良かったと私は思った。実は私は高橋優のファンで、かつてよく彼とその楽曲についての記事を書いていた。それを気に入って読んでくださっていた人から占いの予約を頂いたこともある。デビュー曲「素晴らしき日常」は素晴らしい。社会的メッセージの強い歌が彼の特徴だった。ところが、数年して様子がおかしくなった。なんか変だなぁ、と私としては不満足だった。ドラマのテーマソングとかが多くなって、その上、楽しみにしていたブログやツィートも、事務所の制限がかかったと本人が言っていた。ファンクラブの運営も含めて(細かい経験を話すと長くなるのでそれはまた別に機会があれば)、なんと言いますか、儲け主義に徹している?芸能に詳しい知人が言っていたのだが、こいつで儲けられる、これで儲けられるという法則で事務所は動いているのだろうと。本人も自分の周囲で自分のために仕事をしてくれている人たちのこともあるので、次第に言いなりになるしかならなくなるのではないか、と。あながち間違っていないコメントだなと思っていた。彼の魅力が半減していくように感じていた。ゆえに私は、ファンクラブもファンもやめた、という経緯があった。

「オトナ高校」はそういう事情もあって観ていなかった。

三浦春馬の死を受けて、そのあたりを辿ってみた。「ルポルタージュ」を聴いてみた。あれ?当時に戻ってる?と思った。高橋自身も同様の発言をしていた。MVもデビュー当時の撮り方だ、と話している。「素晴らしき日常」というタイトルも口にしていた。そのMVに三浦が出演していたのは、今となっては良かった。

 

アミューズを離れて、また「素晴らしき日常」のころの彼に戻ってくれるのなら、再び高橋優を応援しようと思っているところだ。しばらく注目。

三浦春馬にも、そのような道はなかったのか。過労死じゃないかと言う人がいるほど、けっこうな仕事をこなしていたようだ。敢えて言わせていただくと、歌手デビューのあの曲とダンスだが、彼らしく完璧にこなしているけれど、私としては、彼に合っていないように感じていた。それこそ儲けられるだけ儲けよう的なにおいがしないでもない。前の記事にも書いたが、彼がイギリスに短期留学したとき、そんな無駄なことしてないで早く帰ってきて仕事しろ、と事務所の誰かが言ったという中国人ルームメートの証言があるが、なんとなく通じるところがあるのかぁ、と。結局声をつぶされてしまった天地真理とか普通の女の子に戻ったキャンディーズとかを思い出す。

 

高橋優とも仲が良かったようだが、高橋は三浦について何も発信していない。いつか曲に密かに思いを込めてくれるかもしれない。してほしい。もしかしてこれ……と気づく興奮。もともと彼の楽曲はそういうものだった。

そういえば「パイオニア」のMVのに出演していた登山家の栗城史多もエベレストで命を落とした。

親しい人たちの死を通して、繊細な高橋の心のなかには様々な思いが過り、渦巻いているのではないかと勝手に想像してしまう。

 

「大切なことはすべて君が教えてくれた」ならぬ

「人間としていちばん大切なことを三浦春馬が教えてくれた」 なのかもしれない。

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三浦春馬オトナ高校」「高橋優ルポルタージュ」©2020kinirobotti

 

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