これは、私は、もう……
まったくもって何と言うか……
2020年9月27日
俳優の竹内結子さんがお亡くなりになった、という速報が朝の報道番組中に流れた。
なんてことだろうか。
あまりにびっくりして、そして、怖かった。
俳優の自死というニュースを、三浦春馬、芦名星、藤木孝、と短期間に連続して目にすることになったからだ。
自ら命を絶った芸能人は過去にもいる。
そして、自分自身の周囲にもいる。私自身も過去に2人の知り合いを自死で失っている。
だが、今年経験していることは、とてつもなく奇妙な感覚を伴っている(少なくとも私には)。
この連続性に触れることはタブーなのかもしれない。有名人の自殺報道には世界のルールがある。ウェルテル効果を避けるためだ(これについては、三浦春馬への記事で書いた)。
今回の報道に触れて、いくつか感じるところがあった。
人がなぜ?と問うとき、それは好奇心に満ちていることがある。報道やゴシップ記事では、相変わらずそこをえぐろうとしたり、どこかへ誘導しようとしたりする。
竹内結子が出演していたドラマのシーンを切り取って流すのは、彼女の功績を辿り、偲んだり、悼んだりするということでは良いことだ。ファンだって彼女の軌跡を辿りたい。
だがそのセリフが、まるで彼女が深く悩んでいたかのような錯覚を起こさせる、今回の出来事につなげようとしているかのようなシーンばかりを選択しているのに呆れた。他にもいくらでもあるだろうに。よくそんなシーンばかり探してきたものだな、さぞかし大変な作業だったろうに、とその仕事にあたったスタッフに同情した。
雑誌のインタビュー記事についても、最近のものから過去のものまで、悩みや不安などをちょこっと述べた部分を拾って焦点を当てているのが、何というか、悪意とまでは言わないが、一定の意図を感じざるを得ない。
誰でも様々な場所で様々な発言をする。不安ですよね、怖かったですよ、なんてことを言わない人はいないと言っても過言ではないでしょう。私だってこの記事ですでに、冒頭で「怖かった」と書いている。
死の理由を知りたい、という気持ちは誰にでもある。理由が分からないということほど人間を不安にさせるものはないので、認識して落ち着かせようとするごく自然な探究心だ。〇〇だから〇〇だったんだ、と決着をつけようとするのは健全なこと。
なのだが、コロナ、家族、仕事、産後うつ…と憶測、邪推は止まらない。コロナで生活が変わったからだとか、産後うつだったんじゃない?とか。
今年のCOVID19感染拡大のなかで、仕事ができなくなったり、お客さんが来なかったり、学校へ行けなかったり、内定を取り消されたり、感染の心配をしたり、ステイホームしたりするなかで、誰もが不安を感じたことでしょう、感じていることでしょう。世界は社会は自分は、これから先どうなってしまうのだろう、と。
出産、育児は誰にとっても大変だ。あんな大変なことはない、と私も実感している。確かに産後は、ホルモンバランスも崩れているし、子どもの世話も尋常ではない。だからといって、それが要因だったと決めつけたレポートもあって首を傾げてしまった。他に兆候らしいものがないのだからきっとこれだ的に注目したのだろうか。それとも一般化するにはちょうど良い要素だったのか。子育て中の悩みを抱えている市井の女性たちは大勢いるので。
この結果に至ってしまった理由として記者たちが望むような彼女の最近の様子を語ってくれる人や記事をなんとかして探し出そうとするテレビ局。
ある飲食店での竹内結子と夫の様子について、深刻に話していた、笑顔はなかった、と店の人に言わせていたが、そりゃあ真剣に喋ることもあるだろうし、いつもいつも笑いながら食事なんかしないだろう、と私は思ってしまった。なんか悩みがあったんじゃないかなぁ、と視聴者に想像させようとするための取材のように見えて私は不愉快だった。いや、実際に何かあったのかもしれないけれど。
同じ心を寄せるにしても、メディアの報道意欲はおそらくその起点のところですでにいささか歪んでいるのだろう。純粋に死者を思う気持ちとはちょっと違う。だからこそゴシップと言われるのだろうが。WHOが注意喚起しているのはそういう報道のことなのだろうと私は理解している。ゆえに、そうした愚かな報道のおかけで、今後もしいっさい芸能人の自死について報道されないなどということになったら、逆にグリーフケアができずに心の回復ができなかったり、痛みを引きずり続けたりするファンが増えると思う。心を落ち着かせようと報道を探したり、共演者たちの追悼コメントに癒やされようとしたりするのだから。
また、順風満帆で、羨ましいくらいの人生なのに、どうして?とレポーターも街角インタビューも言う。市民はそのように答えるような質問をされているのかもしれないが。
成功してるのに、たくさんのものを持っているのに、有名なのに、羨望に値いする人なのにそれなのにどうして?は愚問だ。どんな生き方であろうと、どのような立場であろうと、どのような容姿であろうと、人の思いに分け隔てはない。
あえて言えば、著名人の心やアイデンティティの戸惑いにはより大きなものがあるだろうということは想像できる。
私は、三浦春馬の死後、「サムライ・ハイスクール」を視聴するためにHuluに入った。そして、ぜひ続きを観たいと思っていた「ミス・シャーロック」も観ることができることになってとても喜んで視聴した。地上波のテレビで1話だけ放送していたので、どうしても観たかったのだが、わざわざHuluに入るのはどうもなぁ、と躊躇していたのだ。
そんなこともあって、竹内結子の死はより衝撃だったのだ。そのうえ「コンフィデンスマンJP」というシンクロまでこの二人には重なっている。
芦名星と藤木孝は、三浦春馬主演の「ブラッディ・マンディ」に出演していた。
三浦も竹内もこれだけ多くの出演作品があるのだから、共演者も大勢いるわけなのでこじつけになってしまうが「信じるか信じないかはあなた次第です」の世界をふと思わないでもない。
占い師として突拍子もないことを言わせていただければ、アセンションということに思いをいたすとき、春馬くんが連れて行っちゃったのかな、とか。
10年ほど前アセンションブームがあったとき、こんなことを言っている人がいた。
そのうち周囲でポツリポツリと人がいなくなる。その人たちは別の次元(地球)へ行ったのだ、と。
次のようなツィートがあった。
また芸能人の自殺があったのか。
世の中の最先端に接して生きていた人たちが、世の中の未来に失望して死んでいるのなら、それは次に一般のレベルまで下りてくると思った方が良いだろう。(エリックC)
好都合にこじつけていると思う方も多いことだろうと想像するが、自殺要因の社会的背景が見逃せない、というように私は特に最近思っていたりする。
要するに、政治。
ここでは詳しく述べることを控えるが、政治というのはすなわち社会であり市民生活だ。さらに言えば、上記ツィートから分かるように、未来への希望でなければいけないものだ。
世界戦争後、20世紀の人類が目指そうとしていた21世紀は、民主主義の時代であり、貧困や戦争がなくなり、人権意識の高い多様性あふれる世界、地球……だったはずだ。少なくとも戦争体験者たちは、世界平和の実現を望んでいたし、それは世界中の人々の願いに違いないと信じてきたと思う。
ところが、21世紀は、テロや地域紛争(戦争)がますます激しくなり、難民の数もどんどん増え、人種差別もなくならず格差社会が拡大するなか、物質的にも精神的にも貧困化がじわじわと進み、そして、自由も民主もどこへ行こうとしているのか政治の世界は独裁化を呈している。洋の東西を問わず。
2016年にドナルド・トランプが大統領に選ばれたとき、心のバランスを崩してカウンセリングを受ける人が多くいたという報道があったと記憶している。私としてもとてもよく理解できた。さもありなん、だ。「まさか」な人物、最低最悪の大統領誕生。
それでもアメリカではカウンター文化が根付いているので、例えばCNNなどではとても強くトランプ批判をするし、ニュースは日本のように権力の広報垂れ流しにはならず、論評を伴っているところがまだ救われる、と私は感じている。芸能の世界で言えばハリウッドは民主的世界で、俳優や歌手たちが例えば授賞式などで政権批判をしたり、人権主張をしたりする。スタンダップコメディアンたちの政治論評的お笑いが、お茶の間のテレビに流れる。
日本では、約8年の間に、メディアは政権の言いなりになった。論評、批評性のない報道はおそらく視聴者の精神衛生に良くないし、無自覚の人は洗脳され放題になる。
政治には興味ありませんと豪語する人であっても、社会に国に地球に生きている限り、精神的にも物理的にも必ず何らかの影響を受ける、受けている。
アベさんのとき、この人はしてほしくないことを必ずする、と言っていたあるコメンテーターがいた。この政権は国民を助けることをいちどたりともやったことがない、と言っていた学者がいた。
できるだけニュースは見ないようにしてきたが、アベさんにはそれでもつっこみどころはあった。
スガさんに変わったとき、あまりの空虚、空疎さに死にたくなった。おかしな表現だと思うかもしれないが「死にたくなってくる」と私は家で思わず言ってしまった。だからといって本当に死ぬわけではない。そのとき感じた空虚、虚無にふさわしい感想だったのだ。
三浦春馬にしても、竹内結子にしても、その死がとても不可思議だ。勝手ないち視聴者の感想に過ぎないのだが。自殺というのは、兆候もなく突然くるのではあろうし、その瞬間の行動がいかほどのものであるのかは想像し難い。
あえてそれでも思うのは、二人とも真面目な気遣いの人だということ。だったらどうして、途中で仕事を放棄してしまったのだろう。三浦はドラマ撮影の最中。竹内は生まれてまだ1年経たない子どもを育てている最中だった。ドラマを残して、子どもを残してというところが、報道で聞き知った二人の性格からは解せない。無責任という言葉からは程遠い人たちだ。もちろん人知れぬ何かがあったのではあろうが、私はそこにどうしても社会性を重ねてしまう。
なにはともあれ、市民ひとりひとりがケアされる、安心して暮らせる社会というものが、自殺を減らしていくための一番大きな要素ではないかと私は思う。そのような社会に変わっていくことを望んでいます。空疎は絶望と服従につながります。
さて、話を戻す。
竹内結子と言えば、私はまず「ランチの女王」。これは繰り返し再放送していたので、その度に観ていた記憶がある。
次に「薔薇のない花屋」。香取慎吾との共演だった。シビアで不思議な雰囲気のドラマ展開だった。竹内は視覚障害を装って香取演じる主人公に近づいていくミステリアスな女性を演じた。
中居正広と共演した「白い影」もよかった。ドラマ自体は全体的に暗い雰囲気だったが、竹内演じる看護師のそれこそキラキラとした笑顔がものすごく印象深い。
「ストロベリーナイト」は、「クリミナル・マインド」なドラマ。竹内は暗い過去のトラウマを抱えた姫川警部補を演じた。これも良かったけれど私は犯罪捜査ドラマとしては、
「ミス・シャーロック」のほうが気に入っている。
シャーロック・ホームズの女性版で、世界に配信されて賞も取ったと聞いている(アジアアカデミー賞)。
先にも書いた通り、「サムライ・ハイスクール」をHuluで観ようと思い立ったおかけで「ミス・シャーロック」を観ることができた。すごくワクワクして観た。最高だった。ドラマも竹内結子も。
絶対にシーズン2がある!と楽しみにしていた。
シーズン2が観たい。竹内結子で。