私の三浦春馬ドラマのお気に入りは
「わたしを離さないで」
「ガリレオ」
です。
「サムライ・ハイスクール」(2009年日本テレビ/脚本 井上由美子)は、リアルタイムで観たのか、再放送で観たのか、記憶が定かではありません。が、ちょっと視聴してみたところ、大変面白かったのです。
杏と城田優との共演でした。
弱々しい高校生が、何かのきっかけでサムライが乗り移って強くなって毎回問題を解決していく、というような内容でした。社会正義的な内容も含まれていたと記憶しています。
このころですか?いっぱいいっぱいになって俳優をやめたいと寺脇康文に相談した、と言われているのは。
この仕事が直接の原因かどうかは分かりませんが、確かにこの役どころはなかなか大変だったのではないでしょうか。全く正反対の人格を演じ分けるのですから。言ってみれば二重人格者みたいなものです。でも、とても上手だったという記憶があります。
「わたしを離さないで」(2016年TBS/脚本 森下圭子)は、ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロの小説。綾瀬はるか、水川あさみと共演。社会性のあるちょっとSFなドラマでした。このドラマの三浦春馬の演技力は素晴らしものでした。Awesome!ドラマ好きの私は当時、ほぼ毎週このドラマについて書いていました。そのドラマエッセイのなかで、三浦春馬の演技について驚きながら褒めていたはずです。
ここではたと立ち止まってみると、もしかしたら、重い役柄を演じることが多かったのかな、とも思います(私は基本、恋愛ドラマを観ないので、私が彼の軽いノリの役を観ていないだけかもしれませんが)。
「僕のいた時間」(2014年フジテレビ/脚本 橋部敦子/共演 多部未華子 斎藤工)もそうですよね。深刻な役。
役づくりのいらない役などというものはないでしょうが、それでも、です。さらに、生真面目でストイックすぎるとなると、深く深く入り込んでいくのでしょう。まるで憑依されるかのごとく。それでこそ、一流の役者なのでしょうが。ドラマや映画が終わると役抜きの時間が必要だったという報道もありました。
「大切なことはすべて君が教えてくれた」(2011年フジテレビ/脚本 安達奈緒子/共演 戸田恵梨香)も、決して軽い役ではなかったと思います。
2019年3月から4月にかけてWOWOWで放送された「ダイイング・アイ」は、申し訳ないのですが、あまり気持ちの良いドラマではありませんでした。東野圭吾原作なので名作なのかもしれませんが。役抜きけっこう大変だったのでは?ネットにあがっている番組発表会での映像で、共演の高橋メアリージュンと松本まりかとともににこやかに番宣しているのをみるとちょっとほっとします。三浦はバーテンダーの役だったのですが、その発表会では、カクテルをつくるパフォーマンスを披露していました。手さばき、シェイクの姿が本当に美しい。短期間でこれほどうまくなる人はいないとつぶやいている人もいます。どれほど練習したのでしょう。
余談ですが、脚本家の面々がすごい。
自分に戻れる役があると良かったのかな。
吉田羊がどこかで言っていました。「コールド・ケース」(WOWOW)は自分に戻れる役だから好きだ、と(「コールド・ケース」はアメリカの犯罪刑事ドラマのリメイク。吉田は刑事役。アメリカ版も面白い)。
それでも、ドラマではありませんがNHKの「世界はほしいモノにあふれている」は、自分に戻れる時間だったのではないかと想像できますが……。
「ガリレオ」は「エピソードゼロ」。福山雅治演ずる湯川学の学生時代を演じました。これ、すごく良かったと思います。もっともっと評価されても良かったと思います。静かに煌めく奥深い才能を感じたのを覚えています。
私は常日頃、三浦春馬、次は何に出るのかな、となんとなく気にしてはいました。そしてドラマ好きの私としては、彼は本当にぴったりの役にまだ出会っていないような、そんな感じがずっとしていました。役に恵まれないと言ってはなんですが。これぞ三浦春馬だ、三浦春馬といえばこれ的な。だからこそ彼の作品情報を追っていたのかもしれません。彼にとってのそれが、ニューヨークブロードウェイをも視野に入れたミュージカル、だったのかもしれません。
そんなふうにずっと思いを馳せていた私にとっての、これぞ三浦春馬!は、これです。
2010年から2011年にかけてだったと思います。
開業が2010年12月4日(CMによると)。
10年前なのでまだ20歳だったのですね。
で、もっと続けて見られると思っていたら、東日本大震災が起きて、なんだか私、とってもはっきり当時の自分の気持ちを覚えているのですが、大変な震災だったので、三浦春馬のCMもう見られないのかなと思ってがっかりしていました。せっかく新青森まで新幹線が通ったのに、と。
余談ですが、青森県立美術館にある奈良美智の「あおもり犬」の大きな彫像を訪れる三浦春馬も見られます(私、奈良美智ファン)。
テーマ曲は槇原敬之。
上司への気遣いを見せる「トーキョー」と呼ばれている若い駅員役は、三浦春馬本人と重なります。新井浩文とは「大切なことはすべて君が教えてくれた」で、兄弟役で共演しています。ちょうど同時期になるのでしょうか。
私は、この素朴で誠実で優しそうな駅員役がいちばん彼自身だったような気がしてなりません。なんだか、胸が痛い。
Youtubeに上がっているのでぜひ見てください。今では見られないとても質の高いCMだと思います。
最近は、このような良質のCMがなくなりましたよね。劣化していると思います。このあたりが最後だったのかなぁ。
震災からあとこちらは、欲望を掻き立てて消費を煽る騒がしくて下品なものがほとんど、のように見えます。
三浦春馬は上品な世界の住人だったのかもしれない、と勝手に想像しています。
以下は私の妄想的グリーフケア。
そう考えますと、ここ10年は、彼にとってけっこう辛い年月だったのかもしれません。自分自身のこと、仕事と人間関係も含めた環境、社会、世界情勢。
元来、繊細で清らかな魂の持ち主だった彼にとって、泥水ではなく清水を飲みたい彼にとって、俗世の濁ったがさつな空気は息苦しかったのかもしれません。そこからやってくる誰かの心無い言葉だったり、価値観の押し付けだったりは、皮膚や心に痛かったかもしれません。
そんななかにいると、自分が間違っているのかな、という思いを抱くようになってさらに苦しむことになったりします。
2017年にイギリスに短期留学していたのですね。知りませんでした。そのときの中国人ルームメイトの話では、ある日春馬が泣いているのでどうしたのかと尋ねると、役にも立たない留学なんてやめてはやく帰ってきて仕事をしろ、と電話で言われた、という出来事があったとか。この中国人ルームメイト、この人はどうしてこんなに自信がないのだろうと思ったという感想を持ったとのこと。
そんな乱暴で侮蔑的なことを言う人も言う人ですが、心のなかで抵抗もしたでしょうが、自分が間違っているのかなと思ってしまったりもしたのかな、とも想像します。
ちなみに三浦は、のちに英語で海外アーティストにインタビューしていましたが、とても上手でした。インタビュー内容も、ほんの一部しか見ていませんが、精神性の高いもののように見えました。
近頃は、反省できる(する)人が少なくなっていると言われています。彼は反省する力を持っている人のようです。反省しないと人は成長しません。ただ彼の場合、反省のしすぎで謙虚すぎてしまっていたのかもしれません。
報道によりますと、ものすごく感謝の心を持っている人だったようです。これも大事なことなのですが、やはりそれも謙虚すぎることにつながっていたのかもしれません。
更なる高みを目指していたのも、それはそれで良いことなのですが、今の自分を認めてあげず否定してしまったりすることもあったようなので(例えば役柄の出来に関して)、もう少しバランスが取れると良かったのかもしれません。
本当にもったいないです。
努力家で自分を追い込んで云々と言いますが、何かをしようとするとき努力しない人はいないでしょう。努力しなくてもほんとどのスポーツができてしまった、そのなかで一番難しかった野球を選んだというあの新庄剛志だって、人知れず努力していたはずです。ただちょとやればできてしまったみたいで、それ以上の練習をすれば超一流選手になれるのにと野村監督でしたか、嘆いていましたよね確か。
三浦春馬も天才だったのでしょう。そして多才。
演技はもちろん、歌、ダンス、料理、外国語……。演技にしても歌にしてもダンスにしても、そして料理も語学も、努力すれば、訓練すれば、練習すれば誰でも非常に上手になるわけではありません。三浦は非常に上手です。才能というものも見逃せません。インスタに上げられた料理の数々を見ても、器用、感性、創造性を持って生まれた人なのだな、ということが分かります。
容姿端麗でこれだけのことをこなすことができるとなると、嫉妬の目もあったことだろうと想像します。どちらか一方だけでも嫉妬されるでしょうから、両方となると……。
昔ある人がこんなことを言っていました。サラリーマンの世界で、見栄えが良くて仕事もできると必ず足を引っ張られる、と。だから容姿はそこそこがいいんだ、と。また、女性でもひどく美人だと社内で根も葉もない噂をたてられたり、複数の男性に言い寄られて困ることも多いようです。会社側からすると、超美人は採用しない、なぜなら入社してすぐ問題が起きるから、と。その人が言うには、容姿端麗の人は“そういう”世界に行くしかない、と。今でしたら差別発言ですね。自分への慰めと誰かへの応援だったのでしょう。
多才な天才美青年の悲劇、なのかもしれません。
彼の死はいったい何を伝えようとしているのだろう。木村花さんは、番組制作やネットの誹謗中傷について大きな問題意識を喚起させました。三浦春馬は、所属事務所からのコメントにもあったように茫然自失で、社会への怒りとか、何かを再検討することには結びつきません。
異口同音に「もったいない」の声。私もそう思いました。ニューヨークブロードウェイでは、渡辺謙の次は三浦春馬だと言われているという報道もありました。
「ウンチクくん」と言われていたことがあったとどこかで話している本人の映像を見ました。たくさん話す人、持論のある人、流されない人は、アジアも含めた海外へ行ったほうが暮らしやすい、生きやすい、ということがあるのではないかと私は自分の経験から、そして様々な人を見ているなかで、思っています。日本は同調圧力的陰湿性が高く、哲学と論理性が育っていない国なので、息苦しいと思います。
私のタロットの師匠はヨーロッパ人です。彼女があるときこう言いました。「日本人はどうして意見を言い合わないのか」と。そして「ヨーロッパでは、意見を言い合ってもそれで仲が悪くなるということはない。でも日本では……」と。
日本では、反対意見を言われると怒り出す人が、周囲にもテレビ番組のなかにもいます。そしてそういう人は、相手の話に耳を貸さなかったりします。
彼の死に関して、和田アキ子が「社会に問題があるなら考えなければならない」というような発言をしていました。おそらくSNSでの誹謗中傷のことが頭にあったのだと思います。がそれではなくても、上記の意味からも社会の問題かもしれない、ということはあるのではないか。例えば、引きこもってしまっている人や、仕事場に馴染めない人、コミュ障などと言われている人のなかには、同調圧力やハラスメントや暴言や強要や下品な環境が苦手なだけという人もいます。
イスラエルの哲学者アヴィシャイ・マルガリートは、その著書「品位ある社会」のなかで、「品位ある社会は、人びとに屈辱を与えない社会である」と書いています。正義を振りかざすのではなく互いに尊重し合う社会、ということなのだと私は理解しています。
情報を仕入れれば仕入れるほど分からなくなる三浦春馬さんの死。長年に渡って彼の写真を撮り続けてきたある写真家。誕生日が同じ4月5日なので、毎年メッセージを送り合っていたが、今年は返事が来ず、既読にもならず、その後LINEのアカウントが消えていた、と。あの、インスタライブの日かぁ、と思うと、いったい何があったのか、何を思ったのか、不思議でならない。身辺整理?
何かを考え続けていて、積もり積もってあの日、衝動に駆られてしまったのか。自分で命を断つというのはよほどのことですから。前日のドラマ撮影から約6時間かそこらの間に、いったいどんな思いが募ってしまったのか。
COVID19の影響もあるのでしょうか?
ストイックが自分を追い詰めた?
過労?
家族問題?
素晴らしい書物も出版したばかりで、それについて「世界一受けたい授業」で講義もしていたのに。
こんな風に思いを巡らせる行為は良くないかもしれませんが、あまりの脈略のなさに、腑に落ちない思いが続いてしまいます。
誰かが「魔が差した」のではないか、と言っていましたがそれが当たっているかもしれない。しかし魔が差すにしても、なんらかの誘惑、トリガーはあったはず。
でも彼、今ごろ「あれ?オレ死んじゃった?」なんておちゃめに叫んで笑っているかもしれません。
本当はこんなことを考え続けてはいけません。こんな風に囚われた状態を現すタロットカードはまさしくNo15「悪魔」ですから。「悪魔」カードは、人を閉じ込めて、執着させて、絶望感を与えます。
三浦春馬さんが大事にしていた愛と感謝と思いやりの気持ちに思いを致すことにします。No6「恋人」カードです。
私は占いで「悪魔」カードが出たとき、情況にもよりますが、「恋人」カードで「悪魔」カードを覆って相談者さんに見せることもあります。それです。
清水を好んだ三浦春馬。
がさつな世間に答えがないとき、古典や古典を愛する学者や作家や思想家の言葉のなかにヒントや自己肯定の確証を見出すことができます。
そのように話す学者や文筆家、思想家はたくさんいます。
数年前ですが、ある児童文学者で翻訳家の方から平和や人生についてお話をうかがったことがあります。彼は大学生のとき、自分は間違っているのだろうかとものすごく悩んだが、トルストイの思想を読んで自分は間違っていないと思えた、と話してくれました。
実は私にも同じような経験があります。私の場合は、プラトンとゲーテでした。心底、救われました。それからこんにちまで、たくさんの古典や現代の思想家、作家たちの言葉に励まされ続けています。特に今は、ツィッターなどでの出会いがありますので、こんな素晴らしい人がいるんだ、という感激も多いですね。
こんな記事がありました。
「濃厚接触」や「3密」を避けて旅をしなければならない現在の状況を嘆きつつ、数多くの「濃厚接触」旅での出会い、体験、自己との対話を重ねて著者は新聞記者という仕事を選んだ、という趣旨のコラムのなかの一節です。
あこがれの小説家に「君の最大の欠点はその向上心」と指摘されて、価値観をひっくりかえされたこと。その小説家を紹介してくれた出版社の編集者から「あなたは賢い人だけど、賢さゆえのダメなところを、あなたの身体感覚がちゃんと補ってる」と励まされたこと。
(2020年7月21日「あした元気になあれ『濃厚接触の旅を重ねて』小国綾子)
「向上心が最大の欠点」とか「賢さゆえのダメ」とか、こういうセリフ、時々聞きますが、いわゆる冷笑主義者のマウンティング、あるいは嫉妬に近いものなのではないか、と私は反応してしまいました。この体験談の詳細な背景は分かりませんが。
このコラムの掲載は7月21日なので、三浦春馬の死後に書かれたものではないと思いますが、シンクロニシティ「意味のある偶然の一致」、妙な符号を感じてしまった次第です。
三浦春馬が死生観について書き残しているという報道もありました。役づくりや演劇論的なものもあって、詩のようだった、とも。読んでみたい。
詩人の魂だったのかなぁ。
魔が差したという話もありましたが、私はふっとこんなことを思ってしまいました。すなわち、
神さまが連れて行っちゃったんだ、と。
そして、イタリア映画「幸福なラザロ」を思い出しました。
そんなふうに思った瞬間、私の心の整理がつきました。
どなたかが、「僕のいた時間」の撮影中の彼の真摯なドラマへの取り組み方を見て「聖人」だと思った、とツイートしていました。
神様が連れて行っちゃったのかなぁ。
もう帰っておいで、と。
上に私を救ってくれたプラトンとゲーテについて書きましたが、ゲーテは、ゲーテの作品よりもエッカーマン著「ゲーテとの対話」により多く救われました。エッカーマンは晩年のゲーテと交流してゲーテの言葉を丁寧に書き残した人物。
そして今も忘れない出来事があります。
当時私はこの詩を読んだとき、涙が止まりませんでした。
どこからともなく差し込む一筋の光とはこのことか、と。
もしもこの眼が太陽でなかったならば
なぜに光を見ることができようか
われらのなかに神の力がなかったならば
聖なるものが なぜ心を惹きつけようか
(前の2行はプロティノスの「エンネアデス」
後の2行はゲーテの大幅な意訳)
三浦春馬さんに送ります。