ねことんぼプロムナード

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「いまを生きる」④~死を思うときキミは何をするか~

タロットカードの「死神」を恐れる人は多い。たいていの相談者さんが、このカードが出てくると驚いて、「悪いんですか?」と尋ねる。

ここでは「死神」について詳しく語ることはできないが、「死神」は「悪いカード」ではありません、ということだけお伝えしておきます。

 

映画「いまを生きる」1989年アメリカ 第62回アカデミー賞脚本賞受賞

監督 /ピーター・ウィアー

脚本/ トム・シュルマン

出演/ロビン・ウィリアムズ ロバート・ショーン・レナード イーサン・ホーク

 

死を思うとき、人は何を考えるだろう。

キーティング先生も言っている。人はいつか必ず死ぬ。

 

だったら、何を我慢しているんだ?

好きなこと、楽しいことをやろうよ。

 

人生の何が無駄と言えば、好きでもないことを我慢してする時間だ。そして大概の市民がそれを大概の時間で強要されている。いかにも大事なことのように。それができない人は落ちこぼれか怠け者であるかのごとく。

 

明日死ぬと分かったら、今日何をする?

上司の理不尽なパワハラを受けるために会社へ行く?

いや、いかない。……そういうことだ。

いや、懲らしめるために行くかもしれない。一発殴って、荷物を引き取って、それから幸せなことをするかも。

 

明日やろう、卒業したらやろう、お金がたまったらやろう、定年退職したらやろう…先送りしたことをやる時は決して来ない。言い訳の人生を生きて、そして死んでいく。

 

キリスト教でも仏教でも、この世で徳を積めば天国、極楽浄土へ行ける、と説く。

徳を積むとは、善なることをすることなのだろうからたぶん良いことなのだろう。いや、きっと良いことなのだが、どうも忍耐的要素を帯びているような気がする。

そもそもキリスト教では、確か人間は罪人(つみびと)だ。エデンの園を追放されるときに課された罰が、労働と出産の痛み。

 

町山智浩は言う。だからキーティング先生は反キリスト教的なんだ、と。

好きなことをやりなさい、ただ従属するのではなく、諦めるのではなく、常識やルールにとらわれず、自分で考えて、本当の自分を生きるんだ、と。

ぐずぐずしている時間はない。

 

そういう生き方はともすると快楽主義と呼ばれたりするようだが、この「快楽」という日本語が誤解を与えていないか?好き勝手をしてだらだらと生きることではない。遊んで暮らすことではない。パーティー三昧のことではない。ドラッグで高揚することではない。勉強しないことではない。人生を苦行や修行のように捉えるのではなく、楽しいと思えることをやる、ということだ。少なくとも私はそのように、今は理解している。

どうせ死んじゃうんだから好き勝手しようぜ、でもない。それは快楽ではなく堕落だ。

そもそも人は堕落することを苦痛に感じるはずだ。 

自分が何をしたいかを確認するには、「死」を想定すると良い。自分の死が近づいていると仮定して、たとえば1週間後に死ぬというとき、今何をしたいか、何をするか、ということを考えてみる。「どうせ死んじゃうんだから」という投げやりな気持ちからではなく、やりたくてもできずにいたこと、様々な条件で諦めていたこと、できないと思い込んでいたこと、を。

 

若いとき人は、老いや死をはるか遠いことだと思って意識していない。ゆえに「いつかやる」「いつかできる」と、自分の人生を先送りにする。キーティング先生は、そうじゃないよ、と生徒たちに教えてくれた。

人間は、無意識に生活している。「死せる詩人の会」で朗読された「ウォールデン森の生活」は、ソローの実体験が綴られているわけだが、まさにあらゆることを「意識」して生活することを目的に森に入った。何もない原始的な生活。いちから全てを自分で作らなければならない。 

私は、最近読んだ書物「知ってるつもり 無知の科学」を思い出した。そこに同様のことが書かれていた。例えば、私たちはトイレの仕組みがどうなっているか説明できないだろう、と。今はとくにコンピューターの世界がそうだろう。何だか分からないけど、あるいは知ってるつもりで使用している。そうした多くの物によって生活は便利で豊かになっている。これをいちから作れと言われてもまったく無理だが、少なくとも意識的に使用することはできる。無自覚に使用していると、操縦、依存、洗脳のなかで、自分の人生を生きられなくなる。物を買うときだって、私たちは本当に欲しいのか分からず買っているものがたくさんある。そしてそれらはゴミになるという消費社会。

世の中そんなことだらけだ。物理的なことばかりではなく、社会的ルールも何の疑いもなく従っていることは多い。

 

死ぬときに後悔したくないと誰もが思うだろう。だったら今やりたいことをやろう。世間に依存して隷従して無自覚に生きていると、死ぬときになってはじめて自分の人生を振り返って、本当の自分の人生を生きていなかったことに気づく。

いや、気づくのかな。気づかないかもしれない。誤魔化されたまま死んだり、強欲や恨み辛み、不幸感覚を持ったまま死ぬかもしれないから。それに、本当の自分を生きていなかったなんて誰も認めたくないだろうから。ニールの父親がその典型になりそうだ。気づかないどころか、自分の信条は全て息子を思ってのことだったのだと、物質的優越欲と哀れなプライド的信条の正当化を愛情の押し売りに代えて。そういう親はどこにでもいる。そのことに我慢した息子と娘たちも、あのときのあの憎むべき親の仕打ちは、実は愛情であり、自分のことを思いやってことだったのだ、というすり替えをしていく。日本にはそういうドラマが多すぎる。極端なことを言えば、それはあり得ない。精神的にせよ物理的にせよ、虐待かそれに近いものが実は愛情なのだ、などということはあってはならない。 

 

この映画では、ニールの「死」がトッドを、そして「死せる詩人の会」のメンバーたちを強くした。それが最後のシーンだった。「オーキャプテン、マイキャプテン」と立ち去って行くキーティングの背中に呼びかけて、そして机の上に立った。 

「オーキャプテン、マイキャプテン」はホイットマンの詩だ。「草の葉」のなかの「リンカン大統領の追悼」のなかの詩のひとつ。

おお「船長」 私の「船長」よ われらが恐ろしき旅は終わった

船はあらゆる危難を乗り切り 念願の宝も手中に収めた

(略)

船はつつがなく錨をおろし もはや船旅も終わりを迎え

恐ろしき旅から目的を遂げてようやく港に凱旋した

(略)

(「草の葉」ホイットマン 酒本雅之訳 岩波文庫より)

この詩は、リンカンの人生が「ようやく終わる」ことをうたっている。映画冒頭で「オーキャプテン、マイキャプテン」と自分のことを呼べとキーティングが生徒たちに言ったことは象徴的だと、町山智浩は言う。

キーティングは自分が去って行くであろうことをすでに知っていた、いやそれを覚悟で伝えることがあったのだろう。

 

キーティングを演じたロビン・ウィリアムズは、躁鬱病だったそうだ。町山は言う。「普段の生活でもものすごく喋るコメディアンだ。笑いで自分を治療していた。リンカンもジョークづくりが趣味だった。ずっとジョークを言っている人だった。“リンカーンジョーク”という本もある。スピルバーグの“リンカーン”という映画にも出てくる」

なぜそれほどジョークを言うのか。「ジョークを言わないと死んでしまうからだ」と町山は言う。「自分を救うためのジョークだ」と。

「いまを生きる」のニールは演じることを断たれて死んだ。

私はこう思う。抑圧的社会、国、世界のなかでは人は誰だれも躁鬱質を持っていて、また多かれ少なかれトラウマを抱えている。それをセラピーするための行動がある。演じること、ジョーク、お喋り、絵を描くこと、詩を創ること、歌うこと……。

 

「いまを生きる」のなかのキーティングはロビン・ウィリアムズ素のままだった、と町山は解説。

授業でものまねをしたりして生徒たちを大笑いさせるシーンが断片的に映し出されるのだが、これって本当にロビン・ウィリアムズがものまねやお喋りをして若い俳優たちを笑わせていたのかな、と私は想像した。

以前「はなまるマーケット」という朝の番組だったと思うが、彼がトークコーナーのゲストだったのを観た記憶がある。確かにひっきりなしに喋って、ものまねをしていた。司会の薬丸裕英岡江久美子が、すっごく愉快な人なんですねと、びっくりしていた。そのときに、娘の名前をゼルダにした、と言っていた。ゲームが好きだから、と。

 

結局ロビン・ウィリアムズは自殺してしまいました、と町山は「映画塾」講義の最後で涙ぐんでいた。彼が自殺したとき、誰も責めなかった。彼がずっと苦しんでいるのを知っていたから。この映画とどこか重なる。

 

最後に、私が気になる登場人物について。

チャーリー・ダルトン(ゲイル・ハンセン)。仲間内では一番の不良のように描かれているが、たぶん非常に世話焼きタイプだ。突飛な行動で教師から目をつけられている。ニールの死のあと、校長の調査に自分たちのことを告げ口し、キーティングを悪者にして自分たちを守れと言った生徒を殴って、放校になった。机に上がるラストシーンにはいなかった。彼、弁護士になったかも、と私は空想した。世話焼きで正義の味方的性質を持っている。「スタンド・バイ・ミー」でも弁護士になった主人公の友人がいた。彼の死を報じる新聞記事からこの映画は始まる。彼の正義感が死を招いてしまったのだ。

 

「いまを生きる」は「ロックで反抗的で物悲しい映画だ」というのが町山評。同感。

 

この記事を書いているとき、CNNの「アマンプール」でアメリカの作家がロビン・ウィリアムズについて語っていた。素晴らしい天才だった、と。インタビュアー(アマンプールさんではない)が、あなたの周りにはアルコール依存の人や自殺した人などがたくさんいるけど、何かできなかったのかと生き残った者の罪悪感はありますか?と尋ねると(西洋人はすごい質問をする)、この老作家はこう言った。

私たちはみんな死ぬんです。