キーティング先生はソクラテスなんだな、と思った。
映画「いまを生きる」1989年アメリカ 第62回アカデミー賞脚本賞受賞
監督 /ピーター・ウィアー
脚本/ トム・シュルマン
出演/ロビン・ウィリアムズ ロバート・ショーン・レナード イーサン・ホーク
ソクラテスはプラトンの師匠。古代ギリシャの哲学者だ。ご存知の方も多いと思うが、ソクラテスは街で人々と対話をしながら、真理についていっしょに考えていくという活動をしていた。しかし、危険な思想で若者を惑わすとして裁判にかけられ、毒杯を与えらえれて死んでいく。
キーティング先生も、いわゆる常識やルールを疑うことを生徒たちに伝える。当たり前だと思っていることほど別の側面から眺めて見ることが大事だと教える。そして自分の頭と心で考えろと叫ぶ。弁護士、医者、銀行家…になることを期待されて入学させられた生徒たちにとって、いや、その親や教師たちにとって危険な存在だ。異分子。
生徒たちが「自身の本質」に目覚めたとき、彼らはどんな行動を起こすだろう。ひとりの生徒は、好きな女性に告白するというかわいらしい勇気だったが、ニールの場合は違った。ニールのなかの「詩人(彼の本質)」を抑えることができなくなった。
教科書のページを破る授業を目撃した同僚のマカリスター先生に、昼食のときにそれについてキーティング先生が咎められるシーンがある。
興味深い授業をしていたね、キーティング先生。
おどろかせてすみません。
かなり面白かった。指導ミスだが。
芸術家たれ、と教えるのは危険だ。自分たちがレンブラントやシェイクスピアやモーツァルトではないと分かったら君を憎むだろう。
芸術家?自由思想家たれ、だ。
17歳で自由思想家?
皮肉屋だね。
皮肉屋ではなく、現実主義者だ。
愚かな夢に縛られない心の持ち主こそ幸福なり。
真の自由は夢のなかにある。昔も今も、そしてこれからも。
テニスン?
いいや、キーティングだ。
同じようなシーンが、2018年秋ドラマ「僕らは奇跡でできている」(カンテレ/フジテレビ)の第9話にあった。動物行動学を研究するちょっと変わり者の大学講師・相河一輝(高橋一生)は、常識や固定観念にとらわれない人物。その言動に次第に魅力を感じていく学生たち。相河先生のようになりたいと言い始める学生も現れる。楽しそうだから、と。
同じ研究室の樫野木准教授(要 潤)が激しく反発しながら相河に放言するシーン。
樫野木は、家族のためにフィールドワークをやめたが離婚。その樫野木がフィールドワークをやっていたころのワイルドな写真を彼の娘から見せられた相河が、それに感動したと楽しそうに語っていると…
だまれ!そりゃぁさぁ、相河先生みたいになれたら幸せだよね。学力があって、できないことがあっても支えてくれる人がいて、好きなことだけやってられて。
子どもはさ、キラキラした大人に憧れるけど、キラキラした大人なんて、ほんの一握りしかなれない。なのに学生たちも、相河先生みたいになりたがってる。なれなかったらどうすんの?責任とれんの?
相河先生はさ、ここだからいられるんだよ。よそじゃやっていけない。それ分かってる?分ってるなら、人生の成功者みたいな顔して学生たちを勘違いさせないでほしい。迷惑なんだよ。悪影響なんだよ。ここから消えてほしいよ。
そして鮫島教授の個室。
樫野木先生も言うときは言うね。
正直僕は、鮫島教授の真意が分かりません。どうして、相河先生をこの大学に呼んだんですか?
言わなかったっけ?
おもしろいから。
そうそう。
学生たちは、自分のやりたいことや好きなことを仕事をにするのが正しい生き方だと勘違いしています。やりたいことなんて簡単に見つかりません。そんなもの、そもそもないのかもしれません。
足元見ないでふわふわして、見つかるかどうか分からないもの探して、自分の人生、ちゃんと考えてる気になるんですよ。なかには、やりたいことがない自分はだめだって無駄に自分を責める学生もいるかもしれません。相河先生の影響を受けてる学生はみんなそうです。
樫野木は、実は相河のように生きたかったのに諦めて今がある。ゆえに、この怒りにも似た感情の吐露は、実は自分自身に向けられたものでもあった。マカリスターの背景は映画のなかで描かれていないので全く分からないが、実はキーティングのよき理解者となり得る人物ではあったのかな、と空想する。マカリスターも樫野木もドリマーではなくリアリストだ。「なれなかったらどうすんの?責任とれんの?」と「自分たちがレンブラントやシェイクスピアやモーツァルトではないと分かったら君を憎むだろう」は符合している。そして「芸術家たれ、と教えるのは危険だ」になる。
「芸術家」というのはいわゆる「詩人」ということであり「自らの心の赴きに従って生きる」「創造的に生きる」ということだと私は理解している。名称的な意味だけではない。「芸術家」と言われる人たちは、「好きなこと」「趣味」を仕事にできる天賦の才に恵まれた人たちだというのが通念だ。ゆえに多くの人が生活費を稼ぐ労働と趣味を分けて考える。人が「趣味」を持つのは、そうしないと死んでしまうからだ。さもなくば、金儲けや地位、相対的幸福に意義を見出していくしかない。そして魂がしぼんでいく。つまり「趣味」が、ここで言うところの「芸術」。ユートピア小説に思いを馳せれば、キーティング先生の教えに従う人がどんどん増えていくと、生活費を稼ぐためだけ、社会的地位のためだけの「労働」は無くなってなっていくのだろう。
樫野木がリアリストになった理由とマカリスターがリアリストになった理由はともに「諦め」かもしれない。マカリスターも元々はドリマーだったのかもしれない。
「人は日々少しずつ諦めながら生きている」と、キーティングは生徒たちに言っていた。全くその通りだ、と分かるシーンだ。人は年々、日々諦めることを知り、強制され、そうすることを自分に許しながら、ドリマーからリアリストになっていく。
夢を語る、夢を与える人は、有害なのだろうか。たいていそうなる。
世の中で、社会のなかで、夢を語り、夢を応援する人は言ってみれば不服従的人間ということになるのだろう。ソローが言うところの「市民的不服従」に通ずる。
いわゆる常識とか世間体とか、この世的成功とか優越主義とかに囚われ、従おうとする人々。誰かが決めたことに従う、従わされる人々。
「自分で考えることを教える」のが学校の役目だというキーティング先生は、周囲に「無自覚に順応してしまう危険性」を、軍隊訓練の行進をさせて体感させる。
不服従とはすなわち、自律ということだろう。
余談になるが、私など変則的な人間からすれば、むしろ従順や、自身の本性を抑圧することを教える方が有害だと思う。ずっとそう思ってきたがゆえに、今思い返せば、どうやら周囲と話が合わないことが多かった。
ソクラテスもキーティングも排除された。
が、相河先生は排除されなかった。これは脚本家・橋部敦子の新しい感覚の提示だろう。ドラマの社会的影響力は意外と大きい、と私は思っている。橋部敦子の書くドラマのテーマのひとつに「生きる道」があるのは「僕の生きる道」など僕シリーズ3部作を手掛けているところからも分かる。
一方で「大胆と慎重」は対でなければいけないともキーティングは言っている。
はたして「夢」は、「愚か」なのか、「自由」をもたらしてくれるものなのか。
大胆は愚かであってはならない、ということだろう。
人間の心にある「詩」、これはつまり「本性」であり、もっと簡単な表現を使えば「やりたいこと」「好きなこと」「わくわくすること」「ありのままの自分」ということだと私は理解しているが、それを誰かに伝えるときの難しさ、というものが同時に世の中には明らかに存在している。ゆえに、ソクラテスもキーティングも相河も、危険な方へ人を誘導する者という特定をされてしまうのだ。
そしてその困難さは、「いまを生きる」という映画のなか、ニールの死によって静謐な衝撃とともに映し出され、不本意にも証明されてしまう。
つづく
ついでながら、
WOWOW「連続ドラマW」「宮沢賢治の食卓」(2017年 主演/鈴木亮平)のなかの宮沢賢治先生も、キーティング先生タイプだ。
ちなみに、
プラトンは自身の思想を、作品のなかで師匠ソクラテスに語らせるという手法を取りました。それによって身の安全が保たれたと私は考えています。