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ゴッホにトマトスープ〜絵画の値段

 2022年10月14日、イギリス・ロンドンのナショナル・ギャラリーで、環境活動団体「ジャスト・ストップ・オイル」に所属する2人の女性がゴッホの代表作「ひまわり」にトマトスープをかける、という事件があった。気候変動対策が進まないことへの抗議活動だった。

 ちなみに「ひまわり」は、120億円以上もする作品だ。

 

 私はこのニュースにいくつかの疑問を感じた。

 

 まずニュースを見た瞬間、私は非常に驚いた。だってゴッホの「ひまわり」がトマトスープで台無しじゃん。…ところが、ニュースは淡々とアクティビストたちの行為を伝えるだけで、「ひまわり」が破壊されたことを嘆いてもいない。

 そう、ニュースは言葉が足りなかったのだ。その「ひまわり」は、額縁とガラスに覆われていて、絵画、すなわち「ひまわり」そのものにトマトスープはかかっていないのである。そのことを私は後から知った「ああ、なんだ、良かった」と思うと同時に、そこのところも正確に伝えてくれないかな、とニュースへの不満を感じた。

 不満を感じながら、どうしてそこもちゃんと伝えないのだろう、と思った。他国ではどう伝えられているのか定かではないが、ここ日本ではより刺激的内容を伝えるのがメディアの仕事のようなので、衝撃の部分だけ流したのかな、と想像した。そして、こういった行為はテロであり、犯罪であり(犯罪なのだが)、すごくいけないことだから日本のみんなはやらないでね、というようなメッセージを行間に感じてしまった。

 一方で、額縁が破損した程度だったと伝えるニュースもあったので、この手の展示絵画がガラスで覆われていることを知らない人はいない、という常識的前提があったのかもしれない。それは私の無知だ。活動家たちもバカではないので、絵画自体に損傷が及ばないような手段を取っているのだろう。

 だとしたら尚更、詳細な内容を伝えるほうが良いように私は思った。「ゴッホのひまわりが破壊されてしまった!」というショックを受けた人は、私以外にもいたようなので。

 

 さらに、このニュースの、否、この抗議活動の背景を知るにつけ、 内容は省略せずに視聴者に伝えるべきなのではないか、と強く思った。興味を持って自ら調べようとしない人たちにも(私もこれだった)、ニュースを聞き流している人たちにも。

 すなわち、ナショナル・ギャラリーのスポンサーにシェルがいたこと、アクティビストたちが使用したトマトスープのメーカーはハインツで、ハインツは石油企業を買収した大富豪バフェットが所有していること、など。そして「ひまわり」はオイルペインティングだ。

 アクティビストたちの行動の背景は実は合理的なのだ。

 

 環境保護団体による芸術文化施設での抗議活動は、2010年頃のイギリスで注目されるようになったらしい。

テート(テート・ブリテン、テート・モダン、テート・リバプール、テート・セント・アイヴスの4つの美術館の連合体)このテートが石油会社から資金提供を受けていることに抗議する「リベレート・テート」という団体が設立されたのが、2010年だ。

同年にはメキシコ湾原油流出事故が起きている。イギリスの石油大手BP社の石油掘削施設「ディープウォーター・ホライズン」で天然ガスが爆発し、11人の死者が出ただけでなく、大量の原油がメキシコ湾へ流出したことで野生生物や自然環境に大きなダメージを与えた。流出した原油の収拾がついていないなか、BP社はテートへのスポンサーシップが20周年を迎えたことから、テート・ブリテンで盛大な記念パーティを開催。リベレート・テートのメンバーは、同じ目的を持った「グッド・クリュード・ブリタニア」のアクティビストたちとともに、会場入り口に石油を流し込み、鳥の羽根を振りまき会場を驚かせた。その様子は国内のメディアで取り上げられ、大きな注目の的に。アクティビストらは、環境破壊を引き起こす組織が芸術を利用してパブリックイメージの浄化を図っていることを訴え、その方法を「アート・ウォッシュ」と呼んだのだった。

美術手帖「なぜ美術館で抗議活動?石油会社と美術館の蜜月関係の歴史」より)

 

「グリーンウォッシュ」に私たちはしばしば騙される。そうした会社のものを購入して、いかにも環境に配慮した生活をしているかのような錯覚をさせられながら、今まで通りの、あるいは今まで以上の消費生活を続ける。そもそも大量消費はどのようなものでさえ、環境破壊を続けていることに変わりはないのだから、まずは「大量」をやめなければならない。思い出したいのは、コロナパンデミックによって世界中がロックダウンのなかで不要な経済活動が止まったとき、空気や海や川がきれいになった事実だ。

 

 なるほど「アートウォッシュ」か。「環境破壊を引き起こす組織が芸術を利用してパブリックイメージの浄化を図っている」。芸術を保護しているというのは、非常に聞こえが良い。でも芸術に保護は必要だ。ルネサンス時代のパトロンがいなかったら、ダビンチもミケランジェロラファエロも、彼らの作品を人類は21世紀の社会で堪能することはできていないだろう。

 だが、その時代とはちょっと違うのかな。お金に任せた金持ち自慢の無自覚な古典収集だったり、美術館を成り立たせるために大富豪の力を借りなければならなかったり。いやいや、そのときできることをできる人がすればいいのであって、決して悪いことではないのだろう。ルネサンス当時だって、パトロンたちのお金がどこから来たものか、その影で泣いている庶民だっていたのだろうし。

 だが、時代は進み、そして変わった。今や地球は破壊寸前のところまで来ている。気候変動は深刻だ。しかし、人々はまだまだ資本主義社会での消費生活を楽しもうとしている。富裕層は楽しみながらさらなる蓄積をしたい欲望に駆られ、搾取されていることに気づかずに衣食住と納税のためだけに労働させられている市民たちも我先に、私も私もと貪欲さを募らせ、競争に加わる。

 

 “たかが”絵にどれほどのお金を費やすのか。そのお金はどこから来たのか。絵と人間とどっちが大事なのか。そういう意味も抗議活動には含まれているし、私もそう受け取った。

 

 “たかが”と書いたが、芸術は人類にとって大切なものであることに間違いはない、と私も思っている。

 ヤマザキマリは次のように言う。

人間が他の生き物とちがうのは、お腹がいっぱいになるだけでは満たされない、という点です。

絵とは、(略)頭のための“ごはん”なのです。

(略)

絵のみならず、音楽や文学といったあらゆる表現は、人間が生み出した生きていくのに必要不可欠な栄養素なのです。(略)

表現は人間に感動や幸せという感覚を与え人生を豊かにしてくれます。

(略)

(「あおきいろ おしえて!せんせい」NHKEテレ

「なぜ人間は絵をかくの?(れい 9才)」という質問への答えから抜粋)

 おそらく、絵を描くことだけではない。絵を眺める、観る、鑑賞することも、人間の心を豊かにしてくれる。ゆえに、美術館というものは人間にとって必要不可欠な栄養源を人々に提供してくれる施設だ。そして、大切な絵画を慎重に保管、保護して公開してくれている。

 

 環境保護団体が取るこうした行動は、もちろん、世間、世界中の人々の注目を集め、気候危機への喚起を広く促す目的があるのだろう。

 だが、彼らの活動はこうした過激な行動だけではない。学者や海外メディアの取材によると、セミナーなどを開いたりして地道な啓発活動もしているが、そうした現状をメディアが取り上げることはほとんどない。それゆえに、こうした否定的な論調も出てきてしまうような行動を取らざるを得ない、ということもあるようだ。

 

 実は私がこの抗議行動から受けた第一印象は、行き過ぎた資本主義の成れの果て、だった。すなわち、絵画というものの値段についての問いかけである。オークションにかかって絵画は何百億円もの値段となるわけで。

 例えばゴッホは生前には絵も売れず、貧困のなかで死んでいったという。ところが21世紀の今では信じられない価値がつき、信じられない値段で取り引きされている。これを見たらゴッホは何と言うかな。どう思うかな。嬉しいだろうけれど…。奈良美智も言っていた、自分の知らないところで自分の絵が高値で取り引きされている、と。もちろん認めてもられて嬉しい気持ちがないわけではないのだろうが、複雑な気持ちもあるようだ。もちろん画家としての名声という視座からは、喜ばしいことなのだろう。

 とくに絵画の場合は、画家の死後に値が上がるのが常識らしいので、ある意味画家の宿命とでもいうのか…。なんとも言えない矛盾と皮肉を感じないでもない。

 お金のある人たちが買えばよいのであって、あれこれ言うのは大きなお世話にちがいない(ときに税金で買われている)。そして高額で買い取られた芸術作品は、所有者によって大切に扱われるのだから。

 だがそこも問題だ。これほど重大に保護されている「絵」がある一方で、保護もなく死んでいく人々がいる。餓死することなく生活できている(今のところ)人々だって想像できるはずだ。芸術作品の売買に使われるこれほどのお金があったらどれだけ生活が楽になって、社会が健全になるだろうか、と。貧困にあえぐ人たちを助けることができるだろうに、と。

 気候危機のほとんどは、富裕層の贅沢によってもたらされていると言っても過言ではないそうなので。

 

 芸術、絵画は人間にとって必要不可欠なものであることは間違いない。だが、行き過ぎた商業主義は、人を幸せにするのだろうか。金銭の多寡でしかはかれない芸術の価値とは、いったい何なんだろう(←答えを求めている疑問ではなく、単なる嘆き)。同じことは別の世界でも起きている。

 

 このあと、各地で別の環境保護団体による類似の抗議活動が起きた。

 オーストリアのウィーンでは、クリムトの「死と生」に油がかけられた。

 そのウィーンのレオポルド美術館は、

気候変動活動家の懸念は正当であるが、芸術作品を攻撃することは明らかに間違った方向に進んでいる。美術館は保存機関であり、持続性を示す真の例である。

 という声明を発表しているが、「持続性を示す真の例」という言い分に違和感を覚える。まさに「アートウォッシュ」の感覚なのではないか。上にも書いたように、確かに、美術館や博物館は人類の叡智を守り続ける重要な役目を持っている。けれども、美術館の声明は、アクティビストたちの問い掛けの答えにはなっていない。ずれている。

 

 斎藤幸平は次のように言っている。

若者たちの問いはこうだ。地球と「ひまわり」、どちらが美しいのか。(略)その地球を守るべきときになにもせず、資本主義社会はたった1枚の絵画に120億という何人もの命や環境改善をできるバカみたいな価格をつけて、崇めている。

 そして、こうした活動に否定的批判的な視線を単純に向ける日本人は、とくに学ぶ必要があると言う。

学びとは、自分が圧力や搾取に加担し、苦しみを生んでいる責任があるということを認め、そのことへの告発や抗議に真摯に耳を傾けることだ。そして、自分が変わらなければならない。

 日本のマジョリティーは学ぶことをやめて「沈黙する社会」を作り出している。それは、既得権益を手放したくないマジョリティーには都合がいい、と言う。

ひどい現実から目をそらすツケはあまりにも大きい。気候危機対策は進まない。格差や低賃金労働は放置される。人権や差別問題は蔑ろにされる。そうやってごく一部の既得権益が温存されるだけなので、イノベーションは起きにくい。

(略)

大変革の動きから取り残されれば、もはや日本は先進国とはいえなくなる。

(略)

民主主義がなく、人権がない世界で、気候正義などありえない。

(略)

必要なのは、学び続け、間違っていたら訂正すること。

(略)

学ばない社会の代償は、これからの気候危機の時代、日本でももっと大きなものになるに違いない。

 

 こうした活動、行動に批判的で否定的な、ときに冷笑的な視線を送りがちな日本人は、学ぶことを避けいる。行動の背景を知ることは、すなわち学ぶことだ。

 あるテレビ局のアナウンサーが、「子供には“見せたくない”」映像だ、と言っていた。人様の大切なものを傷つけてはいけないよ、という教育的観点からだそうだ。

 そうなのだろうか。子供の年齢にもよるだろうが、私はむしろしっかりと見せて、その背景について説明し、語り合うほうがよいと思う。「見せたくない」は、まさに齋藤幸平が言っている「学ばない」「目をそらす」姿勢だ。

 

 芸術作品はすばらしい。精神の栄養だ。

 だが、必要以上の金銭的価値は不要だ。「ゴッホトマトスープ」は、そのことを喚起させる抗議活動でもある。

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