ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「いまを生きる」③~強制的死という選択~

ニールは、キーティング先生の理想にいちばん反応した生徒だと言ってよいだろう。父親の支配の強さは、映画冒頭からしっかり伏線がはられている。

 

映画「いまを生きる」1989年アメリカ 第62回アカデミー賞脚本賞受賞

監督 /ピーター・ウィアー

脚本/ トム・シュルマン

出演/ロビン・ウィリアムズ ロバート・ショーン・レナード イーサン・ホーク

 

キーティングがする楽しい「詩」「芸術」「演劇」の話は、文字通り「演劇」に興味を持ち役者になりたいとずっと思っていたニールの心を強烈に揺り動かすことになる。

そこに立ちはだかる「父権的支配」。

 

キーティング先生が現われなければ、ニールはこの学校で勉強を続けて父親の言う通りに医者になっていた、のだろうか?

それは誰にも分からない。

キーティング先生が赴任して来なくてもニールには、どこかで演じる場を見つけ出すシンクロニシティが起きていたかもしれない。

 

町山智浩は自身の「映画塾」のなかで、キーティングは「死せる詩人の会」で、かつてやはりメンバーの死を体験しているのではないか、と解説していた。そのことははっきりとは映画のなかで語られてはいないが、「何かあったんだな」と察知できるシーンはある。そもそもロンドンから来たという設定も思わせぶりだ。でも教師を続けている。

 

自分の本性を発揮してくこと、やりたいことをやっていくこと。簡単に言うと、このキーテイングが教えていることはそれだ。

やりたくないことを我慢してやっている、世間体のためにやっている、親の支配のもとにやっている、そんな人間たちが世の中を殺伐とさせているのではないか。苦しいから人に優しくできない。当たり前な理由だ。

好きなことを仕事にできる人なんかほんの一握りの天才だけだ、夢みたいなこと言ってるんじゃない、これらは耳たこなセリフとなっているはずだ。子どものときには大人たちから言われ、大人になったら今度は自分が子どもたちに言ってはいないか。それは自分も「諦めた」から。 

キーティング先生は違う。町山智浩は言う。キーティング先生も心の傷があって諦めたのだろう、だから生徒たちに「がんばれ」と言うのだ、と。

悲しい出来事があったとしても「心の赴くまま」に生きることが間違っているとは思えないのだろう。だから伝え続ける。むしろ人間の視野を狭める世間のほうが間違っている、という思いは変わらない。

 

しかし、この真理を伝えるのは、本当に本当に難しいと思う。この映画でも結局ニールは死を選んでしまったし。

リアリストのマカリスター先生や樫野木先生が言うように、煽るだけ煽って、じゃぁできなかったときどうするの?という話だ。

堅実かどうかということで言えば、夢を追うことは堅実でないことのほうが多い。世間的には、その仕事では食べていけないし、その仕事ができる人はよほどの才能や運に恵まれた人だけなので。

 

本当に難しいところだと思います。私自身、占いの仕事をしていて、受ける相談の大半は、仕事や進路、そして恋愛です。仕事や進路は人生そのものですからね。同じお店で占いをしていたある男性占い師(このお店のリーダー)は、こう言っていました。芸術家になりたいという相談には諦めなさいと必ず助言する、と。そう言っておいて間違いはない、芸術家なんてなれるわけがないから、と。

芸術家に限らず、私は、できるだけ本人の本質、やりたいことを優先できる道を提案します。選択肢がある場合は本当にやりたいことなのかどうなのか、諦めようとしているのならその障壁は何なのかを、カードを通していっしょに考えるようにしています。ですが、やはりそこは難しいとも思います。いくら応援してもだめでした、ということはあるでしょうから。

だったらやりたいことは諦めて世間に従属してい生きていくほうが楽、嬉しくはないけどそれが人生じゃん、ということになるのかもしれません。相談者さんのなかには「諦めなさい」と言ってほしくて占い師のもとを訪れる人もいるでしょう。でもやめるのか続けるのかを決断するのは自分自身です。占い師は助言をするだけです。ときに神秘的な内容も含まれているかもしれませんが、それらは選択、決意のヒントです。

 

ニールの自殺。これはあまりにも悲劇。

トッドが取り乱して美しい雪景色のなかで叫んだ「自殺じゃない。父親が殺したんだ」は、私は正解だと思う。その通りだ。

「自殺」というのは「外からの強制」だとスピノザは言っている。

あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものではなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。(「エチカ」第四部定理二〇備考)

(略)

自分が原因になっているのではなくて、外部に原因が、しかも圧倒的な原因があるということです。

(略)

自分のコナトゥス(※)が外部の圧倒的な原因によって踏みにじられた状態において起こるとスピノザは考えているわけです。これは活動能力を低めるどころか、力そのものが踏みにじられる状態です。外部の力によって自分が完全に支配されてしまい、うまく自分のコナトゥスに従って生きることができない。

※コナトゥスとは、スピノザの有名な概念。「自分の存在を維持しようとする力」「ある傾向を持った力」。

(「100分de名著 エチカ スピノザ 國分功一郎」P52~53より)

ニールの場合、外部の圧倒的な原因(支配)とは、父親だ。父親にもその固定観念、頑固な信条を持つようになった生い立ち、背景があるのでありそれは同情すべきものであるかもしれないが、いずれにせよ「それ」が圧倒的外部要因となってしまった。

ニールのコナトゥス、すなわちニールの心が欲していたのは「演劇」だっだ。それを取り上げられて、陸軍学校への転校、そして医者になれという命令。もしどうしても父親が許してくれないのなら、学校を卒業してから役者になる道もあるとキーティング先生のアドバイスもあったが、この父の命令では10年かかる。10年も待てない……。

 

詩人の魂、とはよく言ったもので、例えば作家は書いていないと死んでしまう人種、歌手は歌っていないと死んでしまう人種、これは私の理解だが、一部に妥協できない人たちがいることも確かだ。そういう人種の場合、諦めると死んだように生きている人間になってしまう、ということもありうる。

ニールはこれだったのだろう。

町山はこの自殺をニールの崩壊と言っているが、私はむしろ、ニールは崩壊してしまう前に自死を選んだと感じている。

 

しかしニールの死は、トッドの心をはっきりと目覚めさせた。

トッドはきっと、服従的人生を生きないだろう。

 

 つづく