全寮制の学校での生徒の死という物語といえば、私は萩尾望都の漫画「トーマの心臓」を思い出す。
映画「いまを生きる」1989年アメリカ 第62回アカデミー賞脚本賞受賞
監督 /ピーター・ウィアー
脚本/ トム・シュルマン
出演/ロビン・ウィリアムズ ロバート・ショーン・レナード イーサン・ホーク
原題は「いまを生きる」ではない、Dead Poets Society「死せる詩人の会」。
「いまを生きる」は、キーティング先生(ロビン・ウイリアムズ)が初めての授業で生徒たちに放つ言葉Carpe Diem(古代ローマ詩人ホラティウス)、Seize The Day「その日(一日)を掴め」から来ている。
日本で公開されたのが1990年。30年も前の映画だ。この時代に、どれだけの人がこの映画の「迫力」に気づいただろう。バブルがはじける前。まだ日本中が浮かれていて、ある意味平和な時代だった。映画の舞台は1959年、公開当時から30年前。日本の映画で言えば「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代だ。
時代も固定観念も古めかしく見えるかもしれない。当時からすればSF世界のような今現在もしかし、同様の教育や家庭方針、信条や窮屈は健在であり、特にキーティング先生の「心の教え」は今こそ日本の学校には、現政権の要望で復活しなんとしている教育勅語よりも必要であるように思う。
私は、平成最後の冬にようやくこの映画と出会うことになった。映画評論家・町山智浩の発信によって知った。自分で考えることを教えている映画らしい、と。ロビン・ウィリアムズのこのような映画があったということはなんとなく記憶の隅にあったが、そんなにいい映画だったの?観たいなぁと思っていたら運良く鑑賞することができた。
そして更なるシンクロニシティ。映画の内容が、私が今注目しているいくつかの事々と重なった。
「僕らは奇跡でできている」(2018年秋ドラマ カンテレ)
「スピノザ エチカ」(NHK100分de名著2018年12月のテーマ)
タロット占い師として私が現在取り組んでいる「死神幸福論」
etc
1959年、アメリカ・バーモント。全寮制の進学校ウェルトン・アカデミー。生徒たちは「ヘルトン(地獄)」と呼んでいる。新学期の厳格な式典の様子。そしてロンドンから英語教師キーティングが赴任してくる。そこから物語は始まる。
初日の授業でキーティング先生は、自分のことを「ミスターキーティングか、オーキャプテン、マイキャプテン」と呼ぶように生徒たちに言う。「オーキャプテン、マイキャプテン」はホイットマンがリンカン暗殺のときに捧げた詩(これはラストシーンで回収される)。そして、Carpe Diemについて教え、さらにロバート・ヘリックの詩「時を惜しめ乙女たち」を生徒に朗読させる。
詩の教科書を読ませるキーティング。
「詩の理解」J・エバンズ・プリチャード博士。
韻律、リズム、修辞をまず把握すること。
問いは2つ。
①主題の表現は巧みか?①主題に重要性はあるか?
①は詩の完成度②は詩の重要性
この2点を見れば、詩の評価はごく簡単な問題となる。
詩の完成度をグラフの横位置に示し、重要性を縦に示す。
表が示す面積の大きさがその詩の評価である。
シェイクスピアのソネットは横にも縦にも高い得点を示す。その面積は広大で詩の偉大さが一目で分かる。
この本ではこの方法で詩を論ずる。それにより詩を評価する力が付き、詩を楽しみ、理解することにつながる。
そしてキーティングは言う。
くそったれ。プリチャードはアホだ。詩はパイプ工事と違う。ヒットチャートでもない。バイロン42位、大したことない。
そのページを破れ。破り捨てろ。プリチャードよ、さらば。
型にはまった数量的価値観。私たちも学校でこれを学習してしまっているし、何かを評価するときにこの方法を知らず知らずに習慣化して使っている。国語のテストはそれで満点が貰えるかもしれないが、自分にこの定規が当てられて無機質に測られたとき、初めて気づく。なんで?と。ときに理不尽じゃない?とすら思うこともあるだろう。でもしかたない、それが世の中だ、と諦める。
これは戦い。戦争だ。
君らの心や魂の危機。敵は学者ども。詩を数値で測るとは。お断りだ。自分の力で考えることを学ぶのだ。言葉や表現を味わうことを学ぶ。誰がなんと言おうと、言葉や理念は世の中を変えられる。
(君たちは)19世紀の文学など、経営学や医学とは無縁、そう思ってる。黙ってプリチャードを勉強して、その後、自分の野心を達成すればいい、とね。だが、秘密を教えよう。我々はなぜ詩を読み書くのか。それは我々が人間であるという証なのだ。そして人間は情熱に満ちあふれている。医学、法律、経営、工学は生きるために必要な尊い仕事だ。だが、詩や美しさ、ロマンス、愛こそは、我々の生きる糧だ。
ホイットマンの詩。
おお私よ 命よ 幾度も思い悩む疑問
信仰なき者の長い列 愚か者に満ちた都会
何の取り柄があろう 私よ 命よ
答え…それは 君がここにいること
命が存在し 自己があるということ
力強い劇は続き 君も詩を寄せることができる
キーティングのこのセリフに、キーティングが生徒たちに伝えたかったこと、この映画の全てが凝縮されている。
ホイットマンは学歴もなく、詩創作の型や法則も知らない詩人。象徴的だ。
この映画の原題である「死せる詩人の会」とは、キーティングがこの学校の生徒だったときの秘密の集会。先住民族の洞窟で、詩を朗読したり、自分の作品を発表したりして、魂を感じ合う。
それについてニール(ロバート・ショーン・レナード)が図書館から資料を発見し、仲間を誘ってその洞窟へいくことを提案。同室の内気な転校生トッド(イーサン・ホーク)は躊躇するが、詩を朗読しなくてもいいことを条件にしぶしぶ承諾。「死せる詩人の会」を復活させた。
生徒たちが夜闇のなかを学校から抜け出すシーンはまさに、プリチャードの詩論のページを破り捨てて型を破る行為そのものだ。
ある日の授業。教壇の机の上に立つキーティング先生。どうして立っている?
物事を常に異なる側面から見つめるためだ。
ここから見ると世の中はえらく違う。
分かってることも別の面から見直せ。
そう言って、生徒たちも立たせる。
本を読むときには、作者の意図よりも自分の考えを大切にしろ。
君ら自身の声を見つけなくては、ぐずぐずしてると何も見つからないぞ。
人は静かな絶望に生きる、という。甘んじるな、前進するんだ。もっと周りを見渡せ。新しい大地を見い出せ。自分の言葉で詩を書いてこい。
街の劇場で「真夏の夜の夢」の出演者を募集していた。ニールが自分のやりたいことは演劇だと言い出す。役者になる、と。ずっと前からやりたかったが、厳格な父親のせいで諦めていた、と。ニールは主役である森の妖精パックに選ばれる。
父親の反対に逆らってニールは出演。友人たちもキーティングも拍手喝采を送る。が、公演後、ニールは父親によって家に連れ戻され、陸軍学校へ転校しその後ハーバードへ行って医者になれと恫喝される。
そして、ニールはその夜、自宅で死を選ぶ。
ショックを受けるトッド。「自殺じゃない、彼の父親が殺したんだ」と、降り積もる美しい雪景色のなかで叫ぶ。悲しみに沈む仲間たち。
教室のニールの机のなかから「死せる詩人の会」の本を見つけ、泣き崩れるキーティング先生。
死せる詩人の会冒頭の言葉
私は静かに生きるため 森に入った 人生の真髄を吸収するため
命ならざるものは拒んだ 死ぬときに悔いのないよう 生きるため
これはソロー「森の生活」の一節。
ニールの父親から調査依頼を受ける学校。「死せる詩人の会」について校長から問い質され、全てキーティングの指導だったという書面にサインをさせられる生徒たち。
キーティングは学校を離れて行くことに。
校長の英語の授業。プリチャードの詩論を読まされる生徒たち。そこへ忘れ物を取りに来たキーティング。
無理に署名をさせられた、と叫ぶトッド。信じてる、と応じるキーティング。
トッドが机の上に立って「オーキャプテン、マイキャプテン」とキーティングを呼び止めると、他の生徒たち数名もそれに従う。
「Thank you,boys.Thank you.」と言って立ち去って行くキーティング。
いちばん弱虫だったトッドが、最後の最後に勇気の行動を取って、それに仲間たちが従った。町山智浩は言う。主役はニールだと思って観ていたかもしれないが、ここで本当の主役がトッドだったことが分かる、と。トッドのセリフはとても少ないのだ。トッドはイーサン・ホークなので、今となっては有名俳優となっている彼が主役だと分かるが、と冗談も。
つづく