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映画「1999年の夏休み」〜これは「トーマの心臓」だ〜深津絵里らが演ずる少年たち独特のファンタジー世界

 久々に幻想的なファンタジーに閉じ込められてしまった。

 

1999年の夏休み」1988年日本

監督 金子修介/脚本 岸田理生/原作 萩尾望都トーマの心臓

出演/宮島依里 大寶智子 中野みゆき 水原里絵(現・深津絵里

 

 こんな映画があったのか。知らなかった。不覚である。

 こちらのサイトでもすでに書いているように、私は萩尾望都のファンである。

 そして「トーマの心臓」は萩尾作品のなかでいちばん好きだ。これは私のバイブルだった。すなわち、毎晩かならず読めるように枕元に「トーマの心臓」が置いてある、という意味で。そして本当に毎晩読んでいた。

 ゆえに、この映画のなかのセリフには聞き覚えのあるものが散りばめられていた。

 ちなみに上で「原作 萩尾望都」と私は書かせてもらっているが、映画のエンドロールには「トーマの心臓」」「萩尾望都」の文字は出てこない(金子監督は、萩尾望都から「翻案」の製作許可をもらっているとのこと)。

 

 公開30周年となる2018年夏に、デジタルリマスター版として再上映され、イベントなどもあったようだ。

 

 物語はコミックそのままではない。これは夏休みの数日を描いている。

 ちょっと思ったのは「トーマの心臓」の前身作(短編)「11月のギムナジウム」的な感じなのかな…。

 

 登場人物は4人。場所は日本。森のなかにひっそりと佇む全寮制の学校。夏休みなので生徒たちは全員自宅へ帰ってしまっている。事情があって残っている3人を除いて。そこにもうひとり転校生が現れて、4人がこの学校の寄宿舎で夏休みを過ごすことになる。

 なんとも言えない世界観に見始めはいささか戸惑ったが次第に、これは誰、これは誰、とコミックの登場人物に当たりをつけることができた。

 

<映画→コミック/演者⇢声優>(日本名のカタカナ表記は筆者個人の判断です)

ユウ→トーマ/宮島依里

カオル→エーリク/宮島依里高山みなみ

カズヒコ→ユリスモール(ユーリ)/大寶智子佐々木望

ナオト→オスカー/中野みゆき⇢村田博美

ノリオ→アンテ/水原里恵(現・深津絵里

 

 アンテについては、誰であるのか実はすぐにはピンとこなかった。こんな人いたかな、と。次第に、ああ、これはアンテなんだな、と理解した。けれどもなんとなくモヤモヤしたものが残っていた。

1999年の夏休み」小説版(岸田理生著/角川ルビー文庫がかつて出版されていたと知って、図書館で探した。私が通っている図書館にはなかったのでリクエストすると、別の図書館から取り寄せてくれた。30年ほど前のすでに古い本である。映画のいくつかのシーンがカラー写真で挿入されていて、映画の世界観を壊さない編集になっている。 

 内容は映画とは違っている部分もあり、とくに物語の終わり方はかなり違っていた。

 松村栄子による解説(P144〜148)では、「これらの少年たちに羨望を持ったりあるいはその欺瞞を見抜いたりする少年たち」として、ノリオをアンテ、レドヴィ、ヘルベルトに当てている。なるほど、しっくりきた。エーリク(トーマ)、ユーリ、オスカーの3人(4人)を取り巻くその他の、しかし重要な役割を担っている複数の少年たちを、ノリオに集約させているのだ。

 

 ユウ(トーマ)が死んで(簡単に言うとユウ(トーマ)がカズヒコ(ユーリ)に振られて自殺)いなくなったあとの学校に、ユウ(トーマ)と瓜二つのカオル(エーリク)が転校してくる、というところからドラマが展開していく。

 ということで、上には5人の名前があるが、実質的な登場人物は4人。ユウ(トーマ)とカオル(エーリク)は宮島依里が演じている。

 お気づきかと思うが、演じている俳優の他に「声優」とある。私もはじめはその意味が良く分からなかった。カオル(エーリク)、カズヒコ(ユーリ)、ナオト(オスカー)は、吹き替えとなっているのだ。なので、大寶智子と中野みゆきの実際の声をこの映画のなかで聞くことはできない。カズヒコとナオトは上級生なのでちょっと大人びた声にしたということだろうと想像する。宮島依里の声はユウの役ですこし聞くことができる。深津絵里(水原里恵)は全編、本人の声で演じている。

 

 その深津絵里がとてもいい。演じ方も声も少年らしさが良く出ている。というと語弊があるかもしれない。萩尾望都トーマの心臓」のなかの少年、と言ったほうが正確かもしれない。実は私のアンテ(ノリオ)たちのイメージとはすこし違うのだが。それでも「トーマの心臓」のなかの少年たちは、こんな喋り口調だ。

 そもそも最初、深津が演じているノリオなる少年がいったい誰なのか分からなかった。こんな子いたっけ?と。次第に、ナオト(オスカー)のことが好きで甘えん坊的な様子から、あ、アンテか、と分かった。のだが、上に書いたようにノリオ=アンテではないので、これ誰?と私が疑問に思ったのもある意味正しい感覚だったのだろう。

 

 哲学的な対話、手紙の文章。ヘッセからの引用。そのあたりは原作の世界観をしっかりと味わうことができる。

 

 近未来的なコンピューターのようなものを使って夏休みの課題に取りんだり、そこかしこに無機質なデザインの道具がある。その反面、学校と寄宿舎は外装は古代ギリシャ、内装はヨーロッパ風だ。その異質感がファンタジーの魅力を増している。

 近未来的な部分は、かつてNHKで放送していた「なぞの転校生(1975年/少年ドラマシリーズ)」をなんとなく思い出した。何がどう似ているというわけではないのだが、静かな学校の様子と不可思議さが、私にそう感じさせたのかもしれない。あるいは、背景に流れる音楽、この切ない感じのピアノのメロディーのせいかもしれない。

 

 これはね、妙にはまってしまう映画だ。一方でもちろん、絶対無理という人も多いだろうと思う。「トーマの心臓」ファンなら入り込めるかな。いや、ファンだからこそ嫌悪を感じてしまう人もいるかもしれない。

 私にとっては、この独特のファンタジー感がなんとも言えない魅力がある。学校での人間関係や友情や、そんな話はどこにでもあって、ドラマでも映画でもよく描かれはするが、そういった俗っぽさはなく、むしろ神聖なひとつの閉じられた世界がそこにある。とはいえ、禁断の世界ではない。決してない。

 彼らは、生と死、そして自分自身について深く真剣に考えている。彼らの居るそこはそういう空間だ。

 

 すこしオカルトチックというか、SFっぽくしているのはどうしてなんだろう。

 映画冒頭のシーンと結末を考え合わせると、タイムスリップな側面もあるのか?もしかして、全て夢だった?いや、どこからどこまで?それとも……。

 もうひとつ不可解なのが、カオルが列車で到着した駅に、原子力のマークの立て札が立っていること。そして、カズヒコの両親が発電所の事故で亡くなったという話。

 もしかしたらここ(学校と寄宿舎)は、単なる夏休みの空間なのではなく、原子力発電所の事故のあと誰も住めなくなった場所、なのかな。そこで最後の時を繰り返し生きながら、少しずつ成長していく彼ら?

 そこまでホラーじゃないか。

 

 宮島依里大寶智子深津絵里は、この映画がデビュー作だそうだ。

 深津がシンデレラ・エクスプレスで一躍有名になったのはこの直後あたり、かな。出演者4人とも、このあとそれぞれに活躍している。

 宮島は声優として(海外ドラマ映画の吹き替えが多い)活躍。

 大寶は「相棒」など刑事ドラマやサスペンスドラマでよく見かける俳優だ。

 深津は、言わずと知れた「踊る大捜査線(1997年フジテレビ)」のすみれ刑事。私にとっての深津絵里は「恋のチカラ(2002年フジテレビ)」(大好きなドラマです)の籐子さん。それから「THE世界遺産」のナレーション(2010〜2014)。最近では、NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ(2021~2022)」で「るい」の役を、10代から80代まで見事に演じていた。

 中野みゆきは、ドラマなどで活躍したのち1997年に元バレーボール日本代表選手の川合俊一と結婚、その後は俳優の仕事はしていないようだ。

 この映画にパワーがあったのか、それとも監督の先見の明か。

 話は飛ぶが、「六番目の小夜子(2000年NHK)」という少年少女向けのドラマも、生徒役の出演者は当時13歳〜16,7歳くらいで、今大活躍している人が名を連ねている。鈴木杏栗山千明山田孝之松本まりか勝地涼、山崎育三郎など。なかなか驚きのメンバーだ。

 

 エンディング近く、カオル(ユウ)が湖に沈んで消えてしまったと、3人が湖を眺めているシーンがある。それは私には、映画「今を生きる」のワンシーンと重なった。

「いまを生きる」1998年アメリ

監督/ピーター・ウィアー 

出演/ロビン・ウィリアムズ イーサン・ホーク ロバート・ショー・レナード他

 厳しい校風の全寮制アカデミーにやってきたキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)が、規則や慣習に縛られないで自由に生きることを生徒たちに教える。トッド(イーサン・ホーク)のルームメイトであるニール(ロバート・ショー・レナード)は、俳優になりたかった。しかし父親に猛反対される。そして、ついにニールは拳銃自殺をしてしまう。そのことを知らされたトッドは同級生たちと表へ走り出し、湖の前で大声をあげて悲しむ。

 というそのシーンと重なった。

 

 湖に身を投げたユウの死体はあがらなかった。ゆえに、ユウは今どこにいるのか分からない。ユウは実は生きていた。そしてカオルを名乗って学校に姿を現し、カズヒコの心を開こうとする。小説では、私にはそう読み取れた。

 その物語が終りに近づいたころ、今度はカズヒコとカオルが湖で溺れてしまう。ナオトはカズヒコしか助けることができなかった。

 小説ではユウの死体が湖からあがる。そのあと、再びカオルが現れる。

 映画では、ユウ(カオル)の死体はあがらない。そして再びユウに瓜二つの少年が現れる。カオルでもユウでもないが、君のことは良く知っている、と言う。

 いささか設定は違うが、どちらもループしている。

 このループは延々と続きそうにみえる。やっぱり原子力事故のあとの尋常ではない世界なのかもしれない。

 松村栄子は解説のなかで『ファンタジーを持ち込んだことでこの映画が「トーマの心臓」とはまったく別の世界をつくりあげた』と述べたあと、次のように書いている。

1999年の夏休みは>は、俗説にいう世界の終わり、1999年7月を思い出させる。映画は終末の暗示に満ちており、四人の<少年>だけが止まった時間の中で生きている。厳密に言えば、ここで時間は止まっているのではなく螺旋を描いている。ひたすらリニアに伸びてきた時間軸が、世界の終りに遭遇してくるくると渦巻き始めてしまったようだ。それを望んだのは悠という少年なのだろう。癒しがたい傷を癒やすために、悠はまず無限の時間をつくり、何度でもやり直す。

(P145〜146)

 映画のなかで、ユウは都度列車に乗っており、そこで目覚めるというシーンが描きだされている。

 それが「螺旋」を象徴しているのだろう。

 全く同じ時間をループしているのではなく、ユウが行く世界はその都度少しずつ変化している。いや、ユウが変化させている。

 カズヒコとナオトとノリオは、そのユウの世界に巻き込まれている。ユウのつくりだした世界のなかで、永遠にループし続ける。

 そういう世界って、霊界ではありそうな気がするな。あるいは夢のなかで、ループを経験したことのある人も多いのではないだろうか。その深層心理にある傷が治癒したときにループは止まり、夢の質も変わるのだろう。確かユングもそう言っていた。

 

 小説では終盤、カオル(ユウ)は、カズヒコに一緒に死のうと誘いかけたとき、こう言った。

子供の時間は一番すばらしい。だから子供のままで死のうよ。死んで生まれ変わって、また、子供になろうよ。そうして子供のまま、また死んで、また生まれ変わろうよ。何度でも、何度でも、子供のまま死んで、何度でも、何度でも子供に生まれ変わろうよ。

(P128)

 いつも死ぬのはユウだけだが、その世界に他の3人の少年たちが確実に引き込まれている。それが、ユウが自ら命を絶つことによって残した、友人たちへのプレゼントだったのだろうか。彼らの心に閉じ込められているそれぞれのトラウマに気づいて、次のステップへと昇華していくための。それとも復讐?

 

 私にとって、興味深い映画のひとつとなった。

 あまりハマりすぎると抜け出せなくなるからご用心。

1999年の夏休み」湖面をみつめるツトム ©2023kinirobotti