ねことんぼプロムナード

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「君は永遠にそいつらより若い」〜シンクロニシティのなかで

 こういうことって意外とある。

 つまり、シンクロニシティ

 

 映画「君は永遠にそいつらより若い」を観た。WOWOWのプログラムガイドを眺めていて、もしかしてこれ面白いかな、と思って録画しておいたのだった。

 そして、その原作小説があることを知った。さらに、その小説の作者が津村記久子ということも知った。

 それもシンクロニシティだった。

 少し前に「やりなおし世界文学」という書物をネットで誰かが推薦していた。面白そうなので買おうかどうしようか迷っていた。迷っていたのは、その前にけっこう値段の張る本を買ってしまっていたのと〜なんでもかんでも片っ端から購入できたらいいのに〜本当に面白いかどうか判断しかねていたからだ。

 そういうときは図書館でまず借りてちょっと読んでみて、手元に置いてじっくり読みたいなと思ったら買う、を決めている私は図書館のホームページで資料検索をしたが、なかった。

 まだ発売されてから2ヶ月ほどなので、もしかしたら誰かがすでにリクエストしているけれどもまだページに反映されていないだけ、あるいはこれから誰かがリクエストして図書館が購入してくれるかもしれない、それとも自分でリクエストするかな、などと考えている最中だったのだ、録画しておいたこの映画を観たのは。

 そして私はこの映画の原作者が津村記久子だということを知ったとき、え?「やりなおし世界文学」の作者だ、とこの思し召しのような「意味のある偶然の一致」に魅入られたのだった。これは「やりなおし世界文学」を買え、ってことだな。

 

 ところが私は、すぐにその書物を購入しなかった。

 なぜか小説が気になったのである。私は小説はあまり、というか20代後半くらいからまず読まなくなった。なぜかとてもニガテ意識を持ってしまったのだ。その私が、小説を読もうというのだから、この映画の印象が私の深いところに届いているのは間違いない。

 映画が気に入ったので、おそらくこの作者と私は思考回路が似ているのだろうと勝手に思い込んだりもした。だったら「やりなおし世界文学」もきっと面白く読めるはずだ。いやいや分からないぞ。映画には映画の脚本があって、監督の意向が色濃く反映されているだろうから、もしかしたら小説とはだいぶ違っているかもしれない。

 そこで小説「君は永遠にそいつらより若い」を図書館で借りた。本のレビューをネットでいくつか読むと、何が言いたいのか分からないとか、最初のほうはまったく意味が分からなかったなどの感想もあった。ゆえに、ちょっと恐る恐る読んだ。

 確かにこれは作者独特の表現(文体)なのか、普通の(普通のって何だ?)小説を想定していると、読みにくかったり、理解が追いつかなかったりするかもしれない。

 けれども私は映画を観ていたので、内容がつかみにくいということはなかった。映画を観ていなかったらどうだろう。なんだこれ?と読むのをやめていたかな。

 主人公(と言っていいのかな)ホリガイ(堀貝佐世)の独白で物語られる。独白は、彼女の心の揺れ動きを事細かく繊細に語ってくれる。

 うまい!と私は思った。人の意識というのは、こんな風にせわしなくあちらへこちらへと動いているものだ。それを巧みに表現してくれている。天才だな、津村記久子という作家は(あとで他の小説やエッセイを読んで分かったが、この文体は作者の個性あふれる―と私は思っている―文体。ゆえにやっぱり天才だと思う。作者の頭と心には、本人の経験、見聞と感想、学習や読書から得た膨大な知識が詰まっているようだ)。

 私は一気に読んでしまった。ちょうど一年前、めまいに襲われて、その症状が最近ようやく落ち着いてきたところだったので、まためまいが起きたらどうしようと心配だったが、読むのをやめられなかった。一年前も読書にのめり込んで、かなりハードなものを立て続けて読んだあとのめまいだった。めまいの確かな原因は分からない。読書との因果関係も証明できないのだが、集中して本を読んだあとにくらくらすることがあるので、注意を払ってはいた。それでもやめられなかった。時間を忘れて読みふけった。今のところ体調に問題はないようだ。あくまでも今のところ、である。

 

 こんなに夢中になって読めるということは、やはりこの作者と私は思考回路が似ているのだろうと結論づけた。

 直感は信じるべきだし、しかもシンクロシニティが起きているのだから、即座に「やりなおし世界文学」を購入すればいいものの、まだ躊躇している私がいた。今月はあの高額の本を買ったからこれは来月にしようかなというケチくさい考えに加えて、その前にもっと他の作品も読んでみたいという欲望が湧いてきたのだった。

 そこで早速5冊ほど、エッセイと小説を図書館で借りることにした。それらをパラパラと読んだのち、お目当ての本を購入しよう。

 

「君は永遠にそいつらより若い」

津村記久子著 筑摩書房 ちくま文庫

2005年第21回太宰治賞受賞

映画

監督・脚本/吉野竜平

出演/佐久間由衣 奈緒 他

 

 なぜ私は今この文章を書いているのだろう。

 書かないと、私のなかの何かが収集つかない感じがしている。

 

 当たり前のことながら、小説と映画では登場人物やエピソードにいくらかの違いがある。小説ファンの人たちには、配役も含めて、もしかしたら不満足だったりするところもあるのかもしれないが、私は、小説も映画もどちらも好きだ。とういうより、映画は、小説の世界を、その風景を損なうことなく表現してくれていると思った。

 

 ホリガイ(佐久間由衣)は、長身でいささかガサツにみえる社会学科の4年生。変わってるねと言われてしまうタイプだが、私が思うに純粋で真面目で不器用なのだろう。

 ホリガイは、就職も決まり、単位もすべてクリアしている。残すは卒論のみ。

 ひょんなことから知り合った哲学科3年のイノギさん(奈緒)。彼女のことがとても気になっていくホリガイ。2人のなかで、不思議な関係が育っていく。

 

 小説でも映画でも冒頭の辺りで、「人がいいってのはその人自身にはあんまりよくないことだよね」とホリガイが言う。ホミネくんという文学科の学生に向かって言うセリフだ。ホリガイがホミネくんと初めて話したこの日、彼は警察に捕まっていた。下の階のネグレクトされている少年を自分の部屋に連れてきて食事を与えたりしていたので、誘拐を疑われたのだった。

 ホリガイの就職先は実家のある地元の県の児童福祉課。ホリガイは児童福祉司という仕事を選んだのだ。特別な理由があるからなのだが、それを人に言うと理解してもらえないだろう、笑われるだろうと自覚している。

 

 人は誰でもその背後にさまざまな過去を抱えている。

 ネグレクトの少年を放っておけない優しいホミネくんは自殺してしまった。が、その心の奥底あったであろう深い影に全く気づかなかった友人たち。

 イノギさんの影にもホリガイは気づけず、自分を責める。イノギは言う。分からないようにしてるんだから分からなくてあたりまえだ、と。イノギは、左耳に深い縫い跡があり、それを長い髪で隠していた。中学生のとき男に暴行され、そのとき石で殴られた跡だった。

 小説では、イノギさんが男に襲われた現場で、イノギさんが落としたであろう自転車の鍵をホリガイが探すシーンがあり、加えて、その男が乗っていたというシルバーの車を事あるごとに探し続けている様子が書かれている。映画ではそれらのシーンはないのだが、まるで映画のなかで観たかのように、小説を読みながら私の心の映像はありありと動いていた。小説を読んだあとに映画を再視聴したとき、あれ?あのシーンなかったなんだ、と気づいたほどだ。

 

 ホリガイが児童福祉司になったきっかけは、13年前に行方不明になった当時4歳の少年の事件だった。ホリガイは彼のことをずっと気に掛けている。助けてあげたい、と。どこかで生きているにちがいない、と。

「君は永遠にそいつらより若い」の「君」はその少年で「そいつら」は犯人のことだ。だからがんばって生き続けてほしい、と。

 そしてホリガイは、児童福祉の仕事をしながらどこかで彼を見つけ出すことができるのではないか、という妄想のような途方も無い期待さえ、ある種本気で真面目に、持ち続けているのだった。

 実際には、ホミネくんが気にかけていた例のネグレクトの少年は、無謀な、いや勇気あるホリガイの行動によって救出することができた。

 

 ホリガイが取り憑かれてしまった行方不明少年のニュース。そういう経験のある人は意外といるのではないか。まるで自分事のように、自分がどうにかしなきゃと思ってしまうような。私の友人知人にもそういう人はいた。アフリカの飢餓の状況を知って、食事ができなくなり痩せてしまった大学時代の友人。大きな事故から奇跡的に生還した少女のニュースを見て、自分はいつかこの人に会う、と断言していた男の子。

 ふとした瞬間に深く深く入り込んでくる人物や出来事。それを研究に発展させて探求していくのが学者なのだろう、と私は思っている。

 ホリガイは、実地に捜索するという行動に移す。それは学者の取材とは違って、犯人と被害者を実際に見つけ出そうとする刑事のような振る舞いだ。これは、とても純粋で繊細すぎる心を持つ人間の、なんとも言えないほどもしかしたら馬鹿げた衝動なのかもしれない。

 ゆえに私は、「人がいいってのはその人自身にはあんまりよくないことだよね」という冒頭のホリガイのセリフに、この物語が集約されていると受けとめた。

 

 ホリガイを演じた佐久間由衣とイノギ役の奈緒は、適役だったと思う。と言うよりも佐久間と奈緒が、微妙に揺れ動く二人の女子大生を好演していた。

 

 映画と小説ではっきりと違っていたのは、ホリガイの卒論テーマだった。

 小説では「中国系映画監督と日本の女子の結婚観」。

 チャン・イーモウっていう監督とアン・リーっていう人を比較して、百人以上の女の子に二人の監督したものの中で好きな作品をひとつと、結婚するならどっちかっていうのをきいて、それぞれの結果がかみ合わないことについて、それはなんでかっていうことを書くんだ。(P95)

 映画では「育った環境と将来の成功ビジョンの関係」

人生の成功のビジョンって、人それぞれ違うわけじゃん。お金持ちになりたい、とか、南の島で暮らしたい、とかある一方で、それとは全然ちがって、平凡な家庭があればいいっていう人もいるわけで。そういう違いって、家族構成とか兄弟姉妹(きょうだい)構成とか友だちとか、子どものころに習ってた習い事とか、そういうのに影響されてるんじゃないかな、と思って。(24分ごろ)

 私はどちらかというと、映画のほうの卒論テーマのほうがこの物語に合っているように思ったし、このテーマに興味がある。

 映画ではひとつ大きなエピソードを抜かしているので、それを考えると小説のなかの卒論テーマのほうが正解なのかもしれない。

 

 小説発表当時は「マンイーター」というタイトルだった。本にするにあたって、編集者からのアドバイスで「君は永遠にそいつらより若い」(ホリガイの行方不明少年へ向けてのセリフ)とした。私は「人がいいってのはその人自身にはあんまりよくないことだよね」でもいいのではないかと思ったりしたが、やっぱり編集者のセンスのほうが輝いているな。

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