ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

「昔話」の呪縛〜正直者とずるい人

 精神科医香山リカのコラムを読んで、なるほど、と考えてしまった。

 

 数年前のこと。不幸な出来事が続いてうつ状態になった男性が香山の診察室にやって来た。「どうしてこんなことになったのでしょう。何も悪いことはしていないのに」とその患者は問いかけてきた。

 香山は、あなたには何も問題はない、誰にでも起きること、あなたの行いとは何も関係ない、というようなアドバイスを、医師というよりも個人として伝えた、という。

 

 このコラムのタイトルは「人生は昔話とは違う」。はじめ私はこのタイトルから内容を推測することができなかった。患者さんが昔話を永遠にはじめた、とか?コラムの3分の1を読んでもまだ分からなかった。

 そしてようやく理解した。

多くの昔話の結末は、正直者には良いことが起き、ずるい人には不幸なできごとが起きる。それを読んだ子どもの一部は「私も正直に生きよう」と前向きに考えるのではなく、「不幸なできごとが起きる人は、悪いことをしてきたんだ」と思ってしまうのではないか。それを「因果応報」と呼ぶ人もいる。

香山リカココロの万華鏡「人生は昔話とは違う」2023年6月20日毎日新聞

 人は誠実に生きていても、病気にもなるし、災害や事故にもあう。

 そう思っている香山自身も、不運なできごとにあえば、「バチが当たったんだ」「私が悪いんだ」と思ってしまう、という。

 

 確かにその通りだな、とあらためて私も頷いてしまった。

「昔話」では、良い人と悪い人が出てきて、最後には悪い人に良くないことが起きて天罰が下って懲らしめられる、というパターンが多いのかもしれない。昔話に限らない。ヒーロー映画やパニック映画も、特にハリウッド映画では、いわゆる「正義」が勝つわけで。

 

「昔話」とか「童話」など、子どもの心が成長するときに触れる物語は、教育効果を狙っている。加えて、子どものいたずら的なことを防ぐために、怖がらせて大人しくさせる、言うことを聞かせる、という意味合いもあるのだろう。大人の都合ということも多かれ少なかれ見え隠れする。

 いわゆる「良い人」「善人」であることが人間として重要であることを教えることは大事なのだと思う。そして実は子どもたちは、「善悪」というものを生来知っているようではある。だって、例えば人形劇とか演劇などを観ているとき、幼児は必死になって正義の味方や善人のほうを応援するではないか(100%ではないだろうが)。

 

 物語談義は別の機会を待つとして、ここで問題なのは、香山が言うように、何か悪いことが起きたときに「自分を責める」という心の構造になってしまっていることだ。

 悪い奴に不幸が降り掛かったりする物語を幼少期に聞かされていたら、それは刷り込みになる。もちろん善人であろうとするだろうが、一方で良くないこと(事故でも病気でも失敗でも)が自分に起きたとき、自分は何か悪いことをしたんだな(したんだろうか)と因果応報、自業自得的に考えてしまう。加えて言えば、それは他人に対してもそういう目で見てしまうということにつながっている。

 もしかしたら(日本では)大多数の人がそんな風に思いながら生きている、のかもしれない。

 けれどもたいていは誰にでも、良いこともあれば悪いこともある。良いことしか経験したことがないという人がいれば、ぜひ会ってみたいし、本気でそう思っているのならあまりにおめでたい身勝手な人なのだろう、と想像できる。

 さまざま循環しているのだからと思えば深く悩むことはないのかもしれないが、不幸な出来事が立て続けに起きたりすれば、それはどうしたってあれこれ考える。ゆえに、お祓いとか霊能者とかが高額を請求してきたりできるわけである。

 

 そう考えると難しいな、と私は思った。良い人間に育てるための物語が、ときにネガティブな感情を植え付けることになっているので。

 だとすると、悪い人とそれに降りかかる罰を描かずに、良い人と良いことだけを描けばいいのかもしれない。それはそれでまた難しい面もあるかもしれないが。

 児童文学翻訳家のKさんからさまざまお話をうかがったときに話してくれたことが、今でも印象深く残っている。平和を教えようとするときに、子どもには戦争について、戦争の悲惨さについて教える必要はない。平和だけを、文学などで示してあげればいい」と。つまりそれは、善悪を教えるのではなく善のみを教えるということ、だよね。

 悪を教えるから、悪を学んで悪を犯す人がでてくるのかもしれない。

 独裁や全体主義権威主義から逃れるために注意しなければいけないことが書いてある本を、独裁を目指し、一般社会でも支配者になろうとする人が、その注意事項を目的達成の手段として使うことができるという皮肉な話がある。

 

 さらにまた別の問題もあると、私はこのコラムから波及して思った。

 最近とくに、私たちの暮らす社会では、悪いことやずるいことをしても罰せられない人たち、というのを多く目にするようになった。それは権力者(政治)に集中しているわけだが。さらに困ったことに、悪事や狡さを堂々と指南している人もいる。それがまた批判されることもなく、むしろ自己啓発や成功方法として取り上げられたりしているから驚く。

 狡猾に生きなきゃ損する、悪いことをしても認めなければなかったことになる、そんな風潮が蔓延している。人助けなんてもってのか。現在の日本は金銭的、社会システム的に幸福度が高いとはお世辞にも言えない国になっている。みんな自分のことで精一杯。その問題も見逃せないが、それ以前に、心の構造が貧しく、卑しく、そして悪徳主義になっているようである。

 明らかに「正直者が馬鹿をみる」社会になってしまった。これは誠実で優しい心持ちの人間には極めて生きづらい。でも、生来の善人は、世の中がどれほど乱れようとも、きっとそれでも狡猾にはならない、なれない。自分のなかで起きる葛藤のほうがよほど苦しいので。

 

 それこそスピリチュアル的に言わせていただければ、善人がちょっとしたズルをしようとすると、不幸が降り掛かってきてそれは良くないことだよ、と教えてくれるはずだ。その場合、それは本当の不幸ではない。悪事を犯さないように助けてくれたのだ、と考えるほうが自然だ。

 でも、この善人は悪人に負けてしまうかもしれないのだ。悪って強いんだよね。

 ここを乗り越えないと、地球にとって良くないことが起きるのではないか。

 

 でもね、善も負けてはいられない。

何も悪いことをしていなくても、生きていればいろいろなことが起きる。その中には、うれしくないこと、悲しいことだってあるだろう。そんなときは「人生は昔話とは違う。私のせいじゃないんだ」とつぶやいてみてはどうだろう。もちろん、良いことが起きたときは「私が頑張ったおかげ」と思ってもいい。そのあたり、ちょっと自分勝手でもいいのではないだろうか。

(同上)

 と、香山リカはコラムを締めくくている。

「私が頑張ったおかげ」は、新自由主義富裕層の専売特許ではない。

 善人たちだって頑張っている。そしてこの人たちは、自分の頑張りを独り占めしない。そのがんばった分、誰かを助けたいと思うのである。その気持が、良い地球へとシフトしていくパワーとなるはずだ。だからこそ、悪いことを自分のせい、と引き受けないようにしたほうがいい。ただでさえ、悪人は善人にネガティブな出来事を巧みに押し付けてくるのだから、自発的にそれをそうすることほどバカバカしいことはない。

 

 私は占い師なので、スピリチュアル的なことを無視することはできない。タロットカードのなかにも「因果応報」を示すカードはある。原因があるから結果がある、と。

 なので、自分が行動した何かが次のタイミングを生み出したり、出来事が起きたりすることは自明の理だ。占いじゃなくても、それは人生の神秘としてさまざまなところで言われているだろう。世界は、網の目のようにめぐらされている関係性、シンクロシティで成り立っている。いわゆる「偶然」「必然」を研究している学者もいる。特別に取り組まなくても、そこを考えざるを得ない論の展開になることもある。

 そう考えると、悪いこと、そう感じることが起きる前には、確かにそれがやってくる行動、行為があったのは事実だろう。もしかしたら、ずっと昔かもしれないし、過去生のことかもしれない。

 しかし、それを踏まえたうえで、人はポジティブであることを学ぶ必要がある。どんなに悪いことに見える事も、ポジティブに受けとめることで、ポジティブな展開を起こしていくことができる(はずだ)からだ。

 病気だって事故だって失敗だって「休みなさい」「もっといいことあるよ」の合図の場合も多い。自己処罰的感覚はタブー、禁忌、忌避だ。

 この話題は長くなるので、また別の機会にゆっくり。

新聞を読むツトム ©2023kinirobotti