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「だからって……」〜だからって殺しますか?〜invert 城塚翡翠 倒叙集」から考えてみた。

「invert 城塚翡翠 倒叙集」第2話「泡沫の審判」(日本テレビ2022年12月2日放送)。

 小学校教師の末崎絵里(星野真里)が元校務員の田草明夫をコンクリートブロックで殺害し、校舎のベランダから落として自殺に見せかける。小学校に潜り込んで未崎を執拗に追い詰めていく霊媒探偵・城塚翡翠(清原果耶)。田草は極悪非道な男。生徒たちを守ろうとしての殺人行為だった。

 翡翠のパートナーである千和崎真(小芝風花)との対話。

(真)そんなに疲れるなら、もう諦めたら?その先生の動機にだって同情できる部分があるんでしょう?

翡翠まことちゃんだったら殺しますか?

(真)いや、殺しはしないけど…

翡翠)そうです。それだけはだめです。

 すなわち、加害者に目をつぶってあげたらどうか、被害者は極悪人だったのだから、と真が翡翠に言っている。確かに分からなくもない。私も同情する。しかし翡翠は問いかける、だからって殺しますか?あなたが同じ立場だったら殺すのか、と。……殺さない。

 

 物事には二面性がある。

 毎日新聞2022年12月13日「香山リカ ココロの万華鏡」を読んでいて、私の心にふと浮びあがったことのひとつが上記ドラマのワンシーンだった。

 この香山(精神科医)のコラム「甘いものって不思議」では、診察室では甘いものはたいてい悪役だ、という。血液検査でよくない数値が出る要因となるからだ。けれども友人との会合などでは、甘いものは一転して主役になる。

 そこから香山は人間の話に展開する。苦手な人、避けたい人、迷惑な人と自分が感じている人も、誰かにとっては良い人なのだ、と。

「私にとっては気が合わない人だけど、家に帰れば子どもにとっては大好きなお父さんなのかも」と想像すると、少しだけ気持ちがほぐれる。

 人というのは、誰かにとってはひどい人になったり、別の誰かにとってはいい人になったりする。そしてそういった側面はおそらく万人にとってそうである。それはそのときの場の状況にもよるし、人の状態にもよる。相性の問題は大きく絡んでくる(こればかりはどうしようもない)。

 けれどもこの「家に帰れば子どもにとっては大好きなお父さんなのかも」にはすこし引っかかりを覚えてしまった。

 政治家が不適切発言をしたりしたとき、あの人には娘さんがいてとか、家ではいいお父さんなんですよとか、会って話すといい人なんですとかいう現況や印象が免罪符的に使われることがある。これを思い出してしまったからだ。

 香山にとっては苦手な人も、確かに別の人は苦手と感じていないかもしれない。苦手な状況になってしまうのも、相手も香山を苦手に感じているからかもしれないし、単に相性の問題かもしれない。

 でももし、パワハラ・セクハラ・モラハラ的な人とか、意地悪な人とか、無礼な人など悪質性がある場合(自覚無自覚問わず)は、じゃあ、家ではいいお父さんならいいのですか、それで許されるのですか、という疑問が湧く(ひねくれた疑問だろうか)。

「だからって……」なのである。

 

 今月(2022年12月)、静岡県裾野市にある私立「さくら保育園」の保育士3人が逮捕された。園児への暴行容疑である。虐待でもなく、もちろん不適切な保育でもない。この保育士たちがやっていたことは、保育ではなく犯罪だ。

 報道によると、保育士たちは「コロナ禍でストレスがたまっていた」などと話しているらしい。

 それを受けてなのか、メディアは一斉に保育園や幼稚園の労働環境について詳しく報じた。日本の労働環境は他国にくらべて(くらべなくても)良い環境とは言えない。人が足りないし、給与も低い。これは、日本(人)がいわゆるエッセンシャルワークを見下す性質を持っていることが大きな要因だと私は思っている。すなわち、家事労働や介護と同列で、そんなことは無償でやるべき的な風潮、特質がある。今でこそ男性の保育士も介護士もいるが、男尊女卑感覚の人たちがそういう仕事は女のやること、家でやること、という括りで見ているのだろう。しかも、それらを美談に仕立て上げようとしたりもする。

 そういった過酷な現場だったとしても、人手が足りなくてとか、ハードワークでとかは、この事件の場合には言い訳にならない、言い訳にしてはいけない。コロナストレスも同様だ。「だからって」許されることではないし、同情も得られないし、罪が軽くなるわけではない(法廷では情状酌量される可能性はあるのかもしれないが)。仕事環境が悪いからって、コロナでストレスが溜まっているからって、あなたは幼児(人)に暴行しますか?

 この保育士たちがやっていたことは、疲労とか寝不足とか人手不足とかストレスとかで犯してしまったいわゆる「うっかりミス」とは全く違う。ケアレスミスでこんな派手な行為はしないだろう。

 人間は間違ってしまう生き物だ。地球に生きている人間で間違ったことのない人は100%いないだろう。そんななかでも、看護師や保育士、医師、介護士…などは、うっかりミスすら許されざる職業にちがいない。うっかりミスとは、何らかの理由で不注意になり、あるいはぼんやりしてやってしまう失敗のことだ。あえて言えば、無自覚にと言えよう。

 どうひっくり返して見てみても、この保育士たちのやったことはそれらとは違う。なんらかのストレスや環境不全が要因のうっかりミスではない。明らかな意志がそこには働いている。でなければあれほどのことはできない。ゆえに、保育現場の環境整備とこの事件の性質とは切り離して考える必要がある。

 これも「だからって……そんなことしますか?」なのである。

 

 介護現場や障害者施設などでのいわゆる虐待行為もときおり報道されるが、一定の割合でそういった行為を平気ですることができる人間がこの世には存在している、というのは本当は恐ろしいことなのだが、事実だ。

 誰にでもその素質はある、とはよく言われることだが、私はそうは思わない。戦場ですら人を殺せない人もいるのだから。もし自分や仲間を守るために致し方なく殺してしまったとしても、そこには恐るべき葛藤が存在し、運よく帰還できたとしてものちのちPTSDを発症するか、心に深い傷を負ったまま生きていくことになるだろう。加えて、平気で殺せる人のなかには、元来サイコパスな人と、巧みに洗脳されてしまった人が混在しているように思う。

 

 2008年に秋葉原で起きた無差別殺傷事件(7人死亡10人負傷)。犯人の加藤智大の死刑は、今年2022年に執行された。加藤の仕事環境や生活環境のあれこれを考え合わせると、やはり社会の問題が浮き彫りになった事件だった。

 しかし「だからって」こんなことしますか?私はしません、なのではあるのだがこの事件の場合、社会的な問題や人間の問題が少なからず関係、影響していると私は感じている。すなわち、良い社会、世の中だったら起きなかった事件かもしれない。社会や人間の殺伐としたなかで、傷つきやすい人間がより卑屈になってしまった結果のような気がしてならない。そこにはまるで犯罪へと導くかのような偶然も悲劇的に重なってしまったわけだが。だからってもちろん許されることではなく、加藤は極悪非道の殺人犯だ。ただ、かわいそうな人、という感想は私のなかに今でも残っている。

 法的罪の重さからすれば、保育士たちの罪は加藤の罪よりもずっと軽い。くらべる所以はないのだが、保育士たちの言い訳が通るのなら、加藤の環境不全もそれなりの重量を持ってしかるべきだ。これは、加藤の起こした事件を肯定したり、殺害された人々への無礼から言っているのではない。逆である。すなわち、保育士たちの犯行、その罪が、無差別殺傷事件の罪に匹敵するほど重たい、ということを言いたいのである。

 

「invert 城塚翡翠 倒叙集」第2話クライマックスのシーン。

翡翠)先生は胸を張って子どもたちに言えますか?自分が正しいと思えば、人を殺してよいのだと、胸を張って子どもたちに教えられますか?

(未崎)でも私は教師として、あの男を殺さずにはいられなかった。

翡翠)先生、本当にそうなのでしょうか?他に方法はなかったのでしょうか?

 翡翠は、未崎に自首を促した。

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