ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

あきらめない力?あきらめる力?〜ダメならダメとおしえてくれ

 カタールでのサッカーワールドカップ。日本はドイツとスペインに勝利してベスト16に入った。が、決勝トーナメントの一戦目でおしくもクロアチアに破れた。

 グループEは、日本、ドイツ、スペイン、コスタリカという組み合わせだった。このグループに入った、いや、入ってしまったときには、おそらく日本国中「ああ、だめかも」と思ったに違いない。もちろん容易く勝ち上がれる組み合わせのグループなどないのだが、スペイン、ドイツの強さを考えたとき日本はそれらのチームに匹敵する強豪国ではない、というのが日本国内だけでなく、どうやら世界中の常識だったようである。

 けれども、やってくれた。ドイツ、スペインに勝った。しかも逆転勝ち。世界中が驚愕した。とくにスペイン戦での三苫選手の左足は、ラインすれっすれのところでボールを捉え、それがゴールにつながった。

「あきらめない」力、ということを可視化してくれたかのようだった。

 

 2022年12月4日の毎日新聞心療内科医の海原純子のコラムのタイトルが「あきらめない力」だった。

 ベランダで育てていたイタリアンパセリが鳥に食べられて枯れてしまった(ように見えた)。しばらくしたある朝、ふとプランターを覗くとイタリアンパセリが緑鮮やかに蘇っていた。根を抜いてしまわなくてよかったと思った、という体験談。

 そこから研修医の頃に、どうみても助からないと思われる男性の心臓マッサージを、先輩の医師が何分も続けていたことを海原は思い出す。無理だろうなと思いながらもその熱心さにつられて海原たちは交代で手伝った。数時間後にその男性は回復した。障害は残ったがリハビリ後に退院。男性の母親のうれしそうな表情が心に残った、という。

あきらめない、ということの意味を私はその時はっきり知ったと思う。

しかし、あきらめないことを潔くないと思う人もいる。

 と、海原のコラムは続く。

 どちらが良い悪いということではないだろう。「諦める力」という本を書いた元オリンピック陸上選手もいた。

 

 私は占い師である。諦めたほうがいいのか諦めない方がいいのか、そんな問い掛けを心に秘めて占いに来る人も多い。仕事でも恋愛でも、それはある。転職したほうがいいのか、別れたほうがいいのか…。私自身も自分のためにカードに尋ねることもある。

 おそらく人生のなかで最大に悩むところは、いわゆる夢を諦めるのか諦めないのか、ではないだろうか。

 歌手や俳優、画家や作家など芸術系の仕事はとくにそうだろう。医者や弁護士も試験に受かるか受からないかという問題はあるが、例えば看護師になるか歌手になるかと考えたとき、看護師ならがんばって勉強すればその夢はほとんどの場合叶うだろう。が、歌手はそういうわけにはいかない。運や能力に大きく左右される。がんばりや本気だけではどうにもならないところがある、と言わざるを得ない。

 

 占い師や霊能者に、私は歌手になれますか?弁護士になれますか?と尋ねてYesならがんばる、Noなら「あきらめて」別の道を探す、という人もいる。確かに、未来の姿を見通すとか、向いている職業をお知らせするとか、それらは占いの仕事のひとつであるかもしれない。とくにいわゆる霊能者は、そうした予言ができてこその存在価値とも言えるのかもしれない。

 占いや霊能を頼る人のなかには、「そこのところをこそ教えてほしい」という人もいる。すなわち「できもしないことを諦めずに続けていても時間の無駄になるから」と。それも分からないではない。けれども、占いや霊能がどこまで確実なのかという疑問も残る(占い師が言うことではないかもしれないが)。

 そもそも占いは、よほど危険な様子が窺えれば引き止めるが、そうでなければ、なぜ今そう思っているのか、本当はどう思っているのか、というところを相談者さんに気づいてもらう手助けをするものだ(私の占術はタロットカード)。そして、このままだとこうなりますよ、こうなりたくないのであればこうしましょう、それをやりたいなら続けたいならこうしましょう、という予言ならぬ助言をする。

 

 諦めることでうまくいくことも多々あるだろう。それは執着を捨てる、ということなのだと思う。「執着」というのはネガティブな感情だ。ネガティブはネガティブを引き寄せる。良くも悪くも、固執した思考は人の能力および創造性を減退させるだろう(ここでは執着とは何かということにも言及する必要があると思うが、長くなってしまうので別の機会に譲る)。「希望と強い意志」を胸に抱きつつ「気楽な心の状態」を保つことが、あえて言うなら私の考える「諦める力」だ。

 

 さて、もうひとつここで私は疑問を投げかけておきたい。

 占い師や霊能者に、あなたは医者にはなれないから諦めなさいと言われたとして、あなたは、そうなんですねと簡単に諦めらめられるのでしょうか。私はさらに問いたい。そこまできっぱりと言うのであれば、では何をすればいいのですか?私は何になれるのですか?そこまで教えてくれなければ、医学部に入るための受験勉強とお金は無駄にしなくてすんだかもしれないが、じゃあ、次に何をしようかと考える時間は無駄になるかもしれない。もともと選択肢が別にあれば問題ないのでしょうが。

 具体的にきっぱりと教えてくれる占い師や霊能者もいるだろうが、上にも書いたようにその確実性は定かではないし、正答確率はおそらく調査しようもないだろう。

 

 ここで海原純子のコラムに戻る。

人の常識や統計だけでは計り知れない力というものが人には潜んでいるように思える。この人には向いていないな、そんな能力はないなと思える人が、あきらめずに常識的に見て絶対ムリと思えることや自分の追求したい勉強やスポーツを続けているとき、突然何かが変わることもある。

 この「突然何かが変わる」というのは、運命論やシンクロニシティ的にみても確かにあり得ることだ。これを語りだすと長くなるのでここでは控える。

 こういった場合には、本人が「自分自身であること」を強く求めているので、おそらく誰も止めることはできない。むりやり止めると、あまりよくない事が起きる。

 また、「常識的に見て」という「常識」とは、その人の環境や背景に由来することなのだろうが、例えば金銭的余裕とか家族の問題とか、これまで何をしていたのかとか、それは本人の情熱次第でどうにかなる。「そんな能力はない」というのは、実は大きなお世話だ。もちろん傍から見て合ってないと思われることもあるだろうが、そもそも親でも先生でも、ましてや同級生や先輩などには、誰かを判断することはできない。彼らにできるのは「応援すること」だ。

 ゆえに「人の常識や統計だけでは計り知れない力というものが人には潜んでいる」のである。「計り知れない力」とは「人が自分自身であろうとする力」のことである、と私は考えている。

 

といっても、あきらめずに続けることが素晴らしい結果になるとは限らない。結果ということだけではなくあきらめずに続けるそのプロセスがその人や周りの意識を変える。

 あきらめなければ何でもかんでもうまくいくわけではもちろんない、ということは誰でも知っている。

「そのプロセスがその人や周りの意識を変える」というのは、あきらめずに続けている本人がさまざま成長し、また、その姿を見ている周りの人々の気持ちが感化されたり、肯定的になる、などの変化のことだろう。

 

あきらめないことは周りの人に元気と勇気を与える力になるのかもしれない。

だからあきらめずに自分の道を進む人を「いい加減にやめたら」「常識的に見て無理なことをして時間の無駄」などと揶揄するのはやめてほしいと思う。

潔くあきらめる美学もあるが、あきらめずに続けることにも意味がある。

 海原はこうコラムを閉じている。

 

 私も以前、そういうことは3年やってもだめならあきらめたほうがいいよ、と言われたことがある。本人は素晴らしいアドバイスをしていると思っているのだろうが、どうして他人のことをそんな風に邪険にすることができるのだろうと訝った。もちろん時と場合と事にもよるだろう。けれども応援してくれている人だと思っていたので、悲しかった、という記憶がある。

 人間は生活していかなければならない。そのためにはお金が必要だ。資産家でもない限り、収入を得られないこと、いつ収入になるかわからないことを諦めずに続けることは難しい。ゆえに、人は期限を設ける、否、設けなければならないのだろう。30歳までに、とはよく聞くセリフだ。

 

 私などは、なかなか軌道に乗れなくてもあきらめずにがんばっているという人を見たりすると、なんだか心が嬉しくなって、自分にも力が湧いてきたりする。社会の窮屈さから逃れている自由、のようなものを感じる。

 

 カトリック宇部教会の片柳弘史神父は、一日のおやすみ前のメッセージで次のように言っていた。

頑張るために必要なのは、何度失敗しても、見捨てずに寄り添ってくれる人がいること。自分の頑張りを、温かく見守っていてくれる人がいること。「頑張れ」と励ますだけではなく、相手にとって、そんな存在になってあげられますように。

 見守ってくれる人の存在は大切だ。期限や条件という盾や、心無い冷笑的言葉や独断的評価で人の心を萎えさせる、そんな状況が誰かのやりたい気持ちを削いでしまうことがある。ときに、おまえは好きなことをやっているという嫉妬から諦めさせようとする人もいるので、友人知人に相談するときは注意が必要だ。

 

「諦めない力」は、言い換えれば「諦められない力」でもある。

 人には、本当の自分に戻ろうとする、本当の自分になろうとする力が備わっている(スピノザが言うところのコナトゥス)。どうしてもやらずにいられないことは「あなたがあなたである」ために必要なことなのだ(そうではない場合は、誰に言われるまでもなく、どこかの時点で消えていく)。

 それがどう結果に結びつくかは千差万別だ。生きていかなければならない、ご飯を食べなければ死んでしまう、そんな世界に生きている地球人だけれど、どんなにダメ、無理、才能ない、諦めたほうがいいよ、と言われても、諦められないのであれば、それはあなにとって必要なことなのだ。必要なのは自分自身のなかの成長と満足。必要ないのは世間体。

 あきらめることはいつでもできる。だったらあきらめずに続ける方法をさがそう。

 

 海原純子のコラムにあるように、イタリアンパセリは枯れてしまったんだと処分していたら、緑鮮やかに蘇ったイタリアンパセリを見ることはできなかっただろう。

 世の中には、早急にあきらめてしまうせっかちが多いのかもしれない。社会がスピードを求めているがゆえの弊害かもしれない。

 ただし、やりたくないことをやりつづけることほど馬鹿げたことはない、ということも付け加えておく。

 

Where these is a will, there is a way.(意志のあるところに道はある)

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