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映画「神は見返りを求める」〜善意の罠

 あまり気持ちの良い映画ではなかった。

 

「神は見返りを求める」2022年日本

監督・脚本/𠮷田恵輔

出演/ムロツヨシ 岸井ゆきの 他

 

 私は岸井ゆきのという俳優のファンである。ムロツヨシも好きな役者だ。この映画を観た一番の大きな理由はそれ。

 この二人の俳優の印象からすると、ハートフルな、あるいはヒューマンドラマ的内容になるのではないか、いろいろ考えさせられるエピソードがあっても温かいところに落ち着くのではないか、と想像した人も多かったのではないか。いや、それは私のまことに勉強不足で身勝手な思い込みだろうか。

 

 この監督の他の作品を観たことがないので、明確には分からないが、ファンの方々のレビューからすると、どうやらこのようななんとも言えない胸に詰まってしまうような後味の悪さが、作風としてあるらしい。

 だとすると、たぶんよくできた映画なのだろう。

「怖い」という感想を書いている人もいたけど、頷ける。

 とくにラストシーンはなんだか救われない。いや、救われないどころか、不気味だ。犯罪というのはこんな風になされてしまうのだろう。この加害者のただひたすらな自己保身(それはおそらく恐怖心)からの無謀で利己的な暴力性が、もしかしたら社会に蔓延しているのではないかと想像すると、現代社会はSF世界の到来を待つまでもなく既にディストピアだ。

 物語の中心人物である田母神(ムロツヨシ)も優里(岸井ゆきの)も、このあとどうなるんだろう。本人たちが招いた結末でもあるのだが、それを煽った他の人々は無関係、無関心を装い無責任を決め込みながら、ネット配信で視聴数を稼ぐのだろう。一抹の理不尽さを感じないでもない。

 そう、Youtuberを描いた作品なのである。

 

お人よしな主人公の男性が合コンで知り合った底辺YouTuberの女性の手助けをし、良きパートナーとなっていくが、あることをきっかけに2人の関係が「見返りを求める男」と「 恩を仇で返す女」へと豹変していく様を描く。

 とWikipediaにあるが、まあ、概ねそういうことだ。

 

 私はどこに焦点を当てればこの作品を飲み込むことができるかな、と少し考えた。

「善意」ということに思いがいたった。

「善であること」「善をなすこと」「善人であること」

「善」ってなんだろう。

 

 イベント会社に務める田母神は、そもそも「善人」だった。いわゆる「いい人」。でも、別の側面から見れば「気弱な人」とも言えるのかもしれない。頼まれたらNoと言えないタイプ。

 お金を貸してほしいと言ってくるかつての同僚男性に、いつもついついお金を貸してしまう。いや、あげてしまう(お金は返ってこないのだから)。

 優里の配信も、善意から手伝うことになる。それでもなかなか視聴回数が増えないなか、人気Youtuberとコラボし、新進気鋭のデザイナーの力を借りることで、優里はYoutuberとして独立できるようになった。

 少し人気が出はじめたとき、優里に1500円のCM料が入ってきた。そのとき優里は田母神に報酬の分配について相談したが、田母神は「いらない」と断言した。自分は見返りを期待してやっているのではないから、と。

 どんどん人気があがって高収入を得ていく優里のチャンネル。優里は田母神の感覚は古いしダサいと切り離す。

 そんなとき、元同僚の男がいつものように田母神に金の無心に来るのだが、これまでとはちがって田母神はそっけなく男を突き放す。もうお金は貸せない、と。その後、この男はビルから飛び降り、借金の保証人になっていた田母神はそれを背負うことになる。職場の後輩から、優里はかなり儲けているから彼女に助けてもらったらどうかと言われ、田母神はこれまでの報酬として優里に「見返りを求める」。だが、優里は田母神の要求を断る。「いらない」と言ったじゃないか、と。

 そこから二人の対決、修羅場がはじまることになる。

 

 田母神は2つの致命的な判断ミスをした。

 ひとつは、優里から収入の配分について相談されたとき「いらない」と言ってしまったこと。

 もうひとつは、元同僚男性の要求に常々従ってお金を渡していたこと。保証人にまでなるとは「いい人」にもほどがある。

 いずれにしてもおそらく田母神自身は、本当に「善意」「利他」のつもりだったのだろう。自分では良いことをしていると信じていたに違いない。もしかしたらそこに、無意識的な満足感や優越感めいたものがあったかもしれない。

 けれどもその善意(だったかもしれないもの)は、優里にも元同僚にも仇となってしまった。思いもかけない結果を招くこととなってしまった。そしてそれは自分自身にも降りかかり、あれほど穏やかだった人格は破壊されてしまった(田母神が協力していた分の報酬を渡さない優里を告発する動画を流しはじめる)。

 

「善意」を完結させるには、貫き通さなければならない。

 とはいえ、元同僚への行為は親切でもなければ善意でもないと言わざるを得ない。あれを貫き通していたら、元同僚は田母神のヒモかタカリになってしまう。自立させる何か良い方法をみつけるべきだった。

 一方で優里への行為は、確かに善意だったのだろう。加えて、田母神自身も楽しかったのだろうと想像できる。外部的要因による二人の関係性への亀裂がなければ、その善意は貫き通すことが可能だったかもしれない。善意の人の完成だ。

 けれどもそういった善意が許されるのも、その期間は限定されるのだろうと思う。人は変化していく。例えば、優里がそのままYoutuberをやめてしまえば、そこで終わる。この映画の優里のように売れっ子になれば、自ずと関係性は変わっていく。相棒関係が続いていれば、田母神がスタッフとして報酬を得るのは当然の権利だ。けれどもこの映画で描かれているように優里のスタッフが入れ替わってしまった場合は、継続性がないのでやや複雑になる。

 そのようなことはどの世界にもあるだろう。例えば芸人とか俳優が、まだ売れない時代に彼(彼女)らを善意で無報酬で助けてくれた人は大勢いるだろう。なんだったら金銭的援助までしてくれた他人(家族以外という意味)だっているだろう。だからといって、その援助者たちが売れっ子になった芸人や俳優のもとを訪れて、当時の報酬を要求したり、助けてやった金を返せと言ってきたりはしない(絶対ないとは言わない。そのときその人物が金に困っていたら、そんな気分になるかもしれない)。

 その芸人も俳優も、かつての援助者たちに感謝しているに違いない。感謝していないのであれば、その芸人も俳優もどんなに有名になろうとも下衆な人間だ。ある芸人や俳優は、感謝を直接伝えるという行動を取るだろう。事あるごとにそういった過去の思い出話を仕事仲間やファンたちに語るだろう。

 そしてさらに、その芸人や俳優たちは、今度はまだ売れていない芸人や俳優を助けるだろう。「ペイ・フォワード(Pay It Foward)」である。誰かから善意を受け取ったら、別の誰かにそれを渡す。世界はそうやって回っていく(べきだ)。そうやって(純粋に)回っていけば、世界は平和になる。

 ところが、現代社会はその歯車がうまく回っていない(今に限ったことではないかもしれないが)。善意や愛は、せき止められていく。

 

 この映画のなかの田母神の成してきた優柔不断的にだらだらと続く「善意」のようなものは、ちょっとしたトリガーによって崩れ落ちるという経緯を辿ってしまった。

 

「ラストマン(TBS2023年4〜6月 主演/福山雅治)」というTVドラマがある。アメリカから派遣されてきた全盲のFBI捜査官皆実(みなみ/福山雅治)が日本で様々な事件を解決していく、という刑事ものだ。

 このなかで、皆実がアメリカで体験したというあるエピソードを語るシーンがあった。皆実が電車のホームから落ちてしまったとき、ひとりの韓国人男性が咄嗟に危険を顧みず皆実を助けてくれた。そのとき「あなたはどうして危険をおかしてまで私を助けてくれたのですか?」と尋ねると、その青年は「わかりません」と答えたという。

 実は「善」あるいは「利他」というものはこういうものなのだ。

 

 政治学者の中島岳志は「ボランティアの本質」について次のように書いている。

彼ら・彼女らは、災害などが起こると、何かを考える前に身体が反応すると言います。(略)これは「ボランティアに行く」という表現よりも、「ボランティアに行っちゃう」という表現のほうが近いかもしれません。

中島岳志「思いがけず利他」ミシマ社P94〜95)

「利他」についても次のように述べている。

利他とは、「とっさに」「ふいに」「つい」「思いがけず」行ったことが他者に受け取られ、利他と認識されたときに起動するものです。その行為が利他的であるか否かは、行為者本人の決めるところではありません。

(同P160)

 この映画のなかの田母神も、当初はこんな感じだったのだろう。何らかの利益を想定た利己的な行動、行為ではなかったはずだ。

 

 ドイツの政治思想家(本人は自分は哲学者ではないと言い張っていた。私には哲学者にしか見えない)ハンナ・アーレントは「善」について次のように書いている。

善は明らかに、見られ聞かれることから隠れようとする傾向を秘めている。(略)なぜなら善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためにのみなされるという善の特殊な性格を失うからである。

ハンナ・アーレント「人間の条件」ちくま学芸文庫P105〜107)

 さらにこう書かれている。

「善が公に現われるとき、それは、もはや善ではない」

「善が存在しうるのは、ただ、その行為者でさえそれに気づかないときだけである」

「善行は、行われた途端に忘れられなければならない」

 

 ときどき名乗らずに寄付をする人がニュースに取り上げられることがある。

 映画のなかのヒーローが覆面をしていたり、あるいは正体を明かさないのは、エンターテインメント性だけではなく、「善行」の本質そのものだったようだ。

「善」は人知れず行われるものであり、なおかつ行為者すら気づいていてはいけない。そして、それはいつまでも覚えていてはいけない。

 そして善とは、利他とは、思わず知らずしてしまう行為であって、困っている人や助けを求めている人がそばにいるとき、とっさの行動に出てしまうというDNAをたいていの人は持っているのだろう(ところが、後天的にせよ先天的にせよ、そうでない人間もいて、ゆえにとっさの言動がその人物を表すことにもなる)。

 

 田母神は、見返りを期待してやったわけではない、と優里に言ってしまった。あの時点でもう、田母神の善意は純粋な善ではなくなってしまったのだろう。

 元同僚にもう金は貸せないと言い放ったとき、田母神のなかの善はなくなった。

 だから「善」って、むずかしい。いや、ややこしく考えているだけか?

 

 隠れようとする傾向を持っているのは善だけではない。悪もそうだ。アーレントに言われるまでもなく、悪はこそこそするものだし、逃走するものだ。

 人が善行を隠したがるのは、偽善とか売名行為だとか批判されるのが面倒だから、というのも大きいと思う。

 悪はそもそも、バレれば叱られたり、批判されたり、逮捕されたりする。それに、人間は「悪」というものを本能的に知っているのだろう。それが全ての人にとって良くないことだと実は分かっているから隠す。

 

 田母神も、優里を攻撃する動画では覆面を被っていた(バレバレだが)。

 それでも田母神は、映画のクライマックスで優里を助ける(それは冒頭に書いたシーンですが、詳しくは映画を見てください)。

 せっかく正義なことをした田母神だったが、そのことによって反撃を受けることになってしまった。それは、正体がバレているからなのだが、そういう意味でも、善の匿名・隠蔽性は求められるのかもしれない。しかも田母神は、自分が助けてあげたことを優里に伝えてしまった。もちろんそれは、優里を安心させるためなのだが、アーレントに従えば、公にした時点で、相手に知られた時点で、それは正義ではなくなっていると言える。なんだか意地悪な分析ではあるが。 

 

 善行と悪行の境目は微妙なのかもしれない。

 田母神の善意は、結局、優里にしても元同僚にしても、裏目に出てしまった。厳しい見方をすれば、田母神の善意が、むしろこの二人を不幸に導いたとも言えるのである。

 

「ルカ伝」に「神を除いて善なるものはない」という記述があるそうだ。そしてイエスは、「だれも善ではありえない」と言ったという。

 ナンセンスなつぶやきになってしまうが、ゆえに「神が見返りを求める」ことは「絶対にない」のである。

 

 田母神と優里はどうすればよかったのか。

 観客という神の視点から言わせてもらえれば、田母神は元同僚にお金を貸すべきではなかったし、優里との関係ではその時が来たら報酬を受け取るべきだった。

 優里は、田母神が拒否しても報酬を渡すべきだったし、最初の拒否を受け入れたとしても、後に援助を求めてきたときにはしっかりと謝礼を渡すべきだった。

 だが優里の場合、前者だと、田母神の善意のバランスが崩れてしまうかもしれない、というデリケートな問題に対処しなければならないかもしれない。

 でも、こんな内容では映画にはならないだろう。ゆえに、映画はいつでも反面教師を描いて、人々の心を刺激して別の思いを湧き立たせるという役目を持っているのではないか。

 

 田母神がつくったあのダサいゆるキャラの被り物とその絵柄のパーカー、に対する優里の本心が垣間見えるシーンが2回あった。優里が正気を取り戻して原点に帰るチャンスは確実にあったのに…。チャンネル登録者数と高評価獲得への限りない欲望は、過激性を求めて進むしかなくなっていった。

 映画の前半で、優里の部屋で動画編集をしていた田母神に、こんなことでしかお礼できないと優里が服を脱いだとき田母神が本気で怒るというシーンがあった。田母神が誠実な人間であることはここで証明されていたのだ。

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