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高齢者集団自決?〜映画の効用〜心のレベルアップを試されている

 高齢化社会の問題解決のために、高齢者の集団自決を提案する成田某にも驚いたが、それを受けて、おそらく中学生と思われる生徒が「成田さんは老人は自害しろとか言ってる。(ぼくも)老人は退散したほうがいいと思う。老人が自動的にいなくなるシステムをつくるとしたらどうやってつくるか」という質問を、小中高生を集めた会合の会場でしていたのにはぞっとした。成田なる人は、その質問に、どうやってつくるかと言うと…と淡々と回答していた。

 当然のように答えてさまざまな例をあげる成田なる人も恐ろしいが、この中学生くらいの少年が、すっかり洗脳されて(?)質問している姿が非常に気味が悪い。この動画を見てしまったのが朝だったので、今日一日どう過ごせるかな…となんとも言えない気分に襲われた。これが自分の子どもだったら、まずは何言ってんのあんた、とびっくりして、学校の先生がそんなこと言ってんの?とか尋ねて、それから本気で丁寧に話し合うだろう。

 

 余談になるが、私の息子が小学生のときのことだ。「今日学校で戦争の映画を見た」と言うので、え?どんな映画?と聞いてもなんとなくはっきりわからない。戦争って…と思って担任に電話した。どんな映画なんでしょう、と。すると「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画で云々と親切に教えてくれた。とてもいい映画なのでぜひおかあさんも観てみてください、と。早速観た。素晴らしい映画だった。主人公の俳優はコメディアン。こんな風にナチスのことを描けるんだ、と驚いた。ユーモア、コメディータッチで描いているがゆえに、なおのこと戦争の残酷さが身にしみる。ものすごく泣いてしまった。この映画を観て、そうだ戦争しようと感じた生徒たちはいないだろう。

 

 確かに、昔から高齢者を排除する話はたくさんある。姥捨て山は良い例だ。「スター・トレック」でも、ある年齢になったら死を選ぶという惑星があった。

 古市憲寿が、かつて言っていた。自民党の年寄りたちが死なない限り日本は変わらない、と。私も同様のことを思ったりする。森喜朗などは、差別発言その他で老害だとずいぶん言われている。これも、自動システムがあれば解決できるのだろう。

 政治の世界に限らず、高齢者が頑固一徹ではびこっているのは、私もよろしくないと思う。

 しかし、それとこれとは別の話だ。

 

 成田某が「サマーなんとかって言うんだけど」と、ある映画の例をあげていた。

 それを言うなら「ミッドサマー」だろう。日本では2021年に公開されたサイコホラー映画だ。スウェーデンのとあるカルト村の夏至祭に参加した大学生たちの好奇心と恐怖体験を描いている。

 高齢者が崖から飛び降りて自殺するというシーンがあった。これは、村人が72歳になると行うこの村の儀式だった。

 自動システムの例として、これを成田某は取り上げた(もちろんAI的な手法もあげている)。このアナログな儀式について彼が話したのは、そういった世界観、人生観が良いことだ、という印象づけ、ネガティブな啓蒙のために無意識に語ったのではないか、と私は感じた。すなわち、この人は本気で心底「このこと」について考えている、ということに他ならない。戦慄はいや増す。

 私は「ミッドサマー」を観ている。この自殺する老村人の役をビョルン・アンドレセンが演じている。「世界で一番美しい少年」という彼のドキュメンタリー映画を観たあとで観た。なぜ彼が「世界で一番美しい」のかというと、「ベニスに死す(1971)」という映画で美少年タッジオを演じた人物なので。(それについては後日こちらに書きます)。

 なんか全然無関係なのだけれど、ビョルン・アンドレセンのこともあって、成田某がこんな感じでこの映画のことを、しかもビョルン・アンドレセンが演じた人物の役目のことを取り上げたことがいささか腹立たしかった。映画自体は、私としてはたいして面白くなかった(これも後日の記事で)。

「ミッドサマー」を観て、これは素晴らしいシステムだ、と感銘を受ける観客はどれだけいるのだろう。上品な感覚の人間であれば(あくまでも私個人の感覚だが)、不気味さと異様さを感じるように思う。そもそもホラー映画なわけで。

 

 映画ということでもうひとつ気になったことがある。すなわち「ミッドサマー」をプロパガンダのように使うことになっていやしなか、いや、奇しくもそうなってしまっている、という点だ。

ベルリン映画祭開幕。審査員会見のジョニー・トーの言葉が重い。「映画は常に社会の最前線に立っています。全体主義の台頭で人々の自由が失われる時、まず槍玉に挙がるのが映画です。映画という文化が観客の心に直接訴えかけるから、独裁者は映画を排除しようとするのです」(junko Tokyo twitter2023年2月17日)

 映画でもテレビドラマでも、人々に与える影響は大きい。社会のシステムや慣習、習慣、通念を変えることができる。社会が先かドラマが先かという視点はあるかもしれないが、例えば「主人」という言い方をやめる、職場に女性がたくさんいるなど、ドラマを視聴する人の意識が変化する、慣れる、という効果は大きい。悪人や不測の事態に対峙する映画は、対処の仕方や心構えを学ぶという教育効果もある。これは、良い影響の例。上で言っているのは、こちら。

 全体主義、独裁者は、自由な表現あるいは民主主義やそれを勝ち取るストーリーなどはもちろん嫌うだろう。戦時中の日本もそうだった。検閲が入ってかなり窮屈だった、あるいは逆に、全体主義、独裁者に協力せざるを得なくなるといったこともある、というのは、映画やテレビドラマなどでときどき描かれている。

 そして、ヒトラーは映画を積極的に制作してナチスプロパガンダとして利用した。「ミッドサマー」がそうならないことを願う。

 

 スウェーデンと言えば、コロナ禍でロックダウンもせず、普通に生活していた。死にたいする考え方が日本とは全く違う、と言われていた。日本では高齢者を真っ先に守る政策が取られた。ワクチンも高齢層から打ちはじめた。なぜなら、重症化して死に至る確率が若年層よりも高いから。ところがスウェーデンでは、未来のある若い世代を守ることを高齢者が考えるという。たとえば具合が悪くで若者と老人のどちらかひとりしか助けられないとしたら老人は若者に譲る、と簡単に言えばそういうことだろう。

 でもそれだって、社会保証が逼迫しているから老人は自決しろ、自動的に排除するシステムをつくろう、というような残酷な発想とは違うだろう。スウェーデン福祉国家だ。そこには深い哲学があるのだろう。実際のところスウェーデン人がどう考えているのか、知り合いがいないので分からないが。

 

 上に書いた成田某と少年の質疑応答の場合、そこにはひとかけらの哲学も愛もない。

 愛なんて綺麗事のように聞こえるかもしれないが、根源的にはそう表現するのがいちばん適していると思う。

 会社には定年という制度がある。それは、身体もしんどくなったでしょうからゆっくり休んで余生を過ごしてください、という人生の意味なのだと私は思っている。邪魔だからどいてくれ、ではない。

 上の成田某と少年の質疑応答から見えてくるのは、ナチス的な排除の論理だ。

 そもそもこの少年と成田某は自分の祖父母、2〜30後には自分の両親にも、同じことが言えるのだろうか。あるいはこの手の思想の場合、たいていは本人たちだけは別格だと位置づける節もあるが、戦争中の監視体制、思想統制のなかで、親を売ってしまう子もいたと聞く。

 

 成田某と少年の目指す方向からの考え方だと、高齢者だけではなく他人を思いやる、尊重するという気持ちが生まれる余地がない。

 私も考えてみた。確かに社会保障、福祉には十分なお金が必要だ、今の日本だと、お金がないというよりも社会保障にお金を回さない。いずれにしても、大変そうだ。だったら成田某が言うように、ドライな世界を構築すればいいのだろうか。もしかしたらそうしたほうが、手っ取り早く解決できるのかもしれない。

 けれども、私はそこでふと思った。どうしてこんなに大変なことを考えなければならないのか。

 医療技術が進歩して、環境も整備されて、人間の寿命が延びた。100年前なら50歳で人生を終える人は大勢いた。じゃあ、医療も環境も古いほうが良かったのか。そんなことはないはずだ。高齢化社会について思案しているのは日本だけではない。

 私たちは試されているではないか、という思考が私の心に飛び込んできた。何を?

 人の心のレベルアップを。

 近頃の未来社会予想の話をあちらこちらで聞いていると、でもそれって人間の心がレベルアップしないと、結局今と同じことが起きるだけじゃない?と思わざるを得ないのだ。

 高齢者をいたわる気持ちは、人間の心を親切にし、優しくし、寛容にし、上品にしてくれるだろう。

 成田某と少年の思考では、人は意地悪になり、不親切になり、不寛容になり、利己的になるだけだ。それはレベルアップとは違う。彼らは、極めて先端的で合理的な対話をしていると思っているかもしれないが、前時代的で危険で、人類を劣化させるものにすぎない。

 話はぶっとぶが、それでは異星人に遭うことはかなわないだろう。

 そいういう意味でも、私たちはこのような社会状況に直面してどう考えて対処していくかを試されている、と私は思った次第である。

 排除したり切り捨てたりするこは、実は簡単なのだ。そうではない険しい道が、確実に人類を、地球をレベルアップしてくれるのだろう。

ツトムと老人 ©2023kinirobotti

 

追記①

 内田樹が次のように書いている。

 人間は引き際が重要だということは間違っていないが、

(略)でも、この人が「解決」と呼んでいるものは、やってもたぶん「解決」にはならないと思う。

 似たようなロジックでホロコーストをはじめたが、ドイツの国運は向上せず、ユダヤ人の概念を拡大解釈することで問題解決しない理由を説明しようとした。最後は政権の中枢にユダヤのエージェントがいて政策を失敗に導いている、と言い出す者さえ出てきて体制が滅びた。

この経済学者やそれに賛同する人たちもいずれ同じことを言い出すような気がする。(略)「高齢者」というのは生物的概念ではなくて、社会的概念である。つまりは私たち日本人をダメにしている人たちのことを年齢とは無関係に比喩的に「高齢者」と呼んだのだ、と「高齢者」の概念の拡大を図るのである。

 でも、仮にそうやって「無能な人間」たちを社会から組織的に排除し、発言権を認めず、行政コストもかけない仕組みを作ったとしても、やはり日本の衰退は止まらないだろう。そうなると次には「無能者の排除」を声高に主張している人たち自身のうちに「隠れ無能者」がいて、社会の停滞を引き起こしているのだと言い出す人が出てくるからだ。

「社会的に有害無益なメンバー」の摘発と排除にどれほど資源を投じてもそれは価値を創り出すことにはならない。

 排除の論理というのは、いつもこうなる。次第に提案者自身が追い詰められていく。

 例は悪いかもしれないが、いわゆるイジメと同じ構造だ。ターゲットだったAがいなくなると次にBがイジメられる、そして次に…という連鎖。

「この経済学者やそれに賛同する人たち」という集団も、いずれは外部から賛同者へとターゲットは移っていき、そしていつしかみな老人になる。この経済学者は、自分は無能者ではないから高齢者ではない、と言い張って生き永らえるのだろうか。

 

追記②

 なお、成田某については、海外のメディアでも否定的に取り上げられ、またこの人の所属しているイェール大学も、彼の発言は大学とは無関係である旨を発信している。当の日本も、明確に態度を表明したほうがいいと思う。小中高生が次々と洗脳されないように。メディアの影響も大きい。

 それとも、似たようなことを言っている老政治家もいたので、現政権はそちらの方向なのだろうか。いい議論の機会が広まってくれた、ということかもしれない。日本ではそのような報道すらしかねない。なにしろ、死刑制度をいまだに廃止していない国なので。

 そして権力者たちは、自分たちだけは特別として位置づける。なぜなら優秀な貴族?だから。