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「勇気論」内田樹著〜いまの日本に一番足りないもの

 どうして生きづらいのかよく分かる。

 

「勇気論」

内田樹 光文社

 

 内田樹と編集者との書簡(Email)形式なので、すらすら読める。

「週刊金曜日」という週刊誌への連載エッセイで、内田が「勇気」について書いた。

「いまの日本人に一番足りないものは何ですか?」と訊かれて、とっさに「勇気じゃないかな」と答えたということがあったので、そのことを書きました。

(P3)

 これに光文社の編集者が反応して、実現した企画、往復書簡。

 

 実は図書館で借りて読んだのだが、手元に置いておきたくなったのと、家族にも読ませたかったので、購入した。初読からけっこう時間が過ぎてしまったので、購入したものを再読した。

 

 内田は「勇気」と「正直」と「親切」は同質だと言う。

 加えて、「勇気」は「孤立を恐れないこと」「孤立に耐えるための資質」であると。

 スティーブ・ジョブズは、「最も重要なのはあなたの心と直感に従うことです」ではなく、「心と直感に従う勇気です」と言ったそうだ。

「心と直感に従う」には「勇気」が必要なのだ。

 

自分が「正しい」と思ったことは、周りが「違う」と言っても譲らない。自分が「やるべき」だと思ったことは、周りが「やめろ」と言っても止めない。

(P21〜22)

ですから、「まず周りの人の共感と理解が必要だ」という考え方に対して、僕は「まず周りの人の共感も理解もない状態にある程度の期間耐えられる力が必要だ」ということを主張しているわけです。

(P284)

 書籍の冒頭と末尾を取り出すと、すなわち、「いまの日本人に一番足りないもの」が単純明快に理解できる。そういうことなんだな、と。

 

「論理国語」と「文学国語」を切り離して教えている現在の学校教育。

「契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を『論理国語』と言う。端的に文学を排除するのが主目的」なるほど。

「正解」がわかっていて、受験生は論理的にそれをたどってゆくと「すらすらと」結論に達するというプロセスが自明の前提とされている(略)。

(P27)

 そうではない。論理的思考とはそういうことではない、と内田は言う。

 例えば、探偵の推理。散乱している断片的事実を並べて、それらの断片につながりを説明できる仮説を構築する。そこには「論理の飛躍」がある。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。(略)「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

(P29)

 凡庸な知性はそれを邪魔する。そんなことあり得ないと立ち止まってしまうのが「非論理的」なのだ、と。

 考える力を育てるためには「文学国語」が必要だと私も思います。そして論理的思考の先に「飛躍」がある。「飛躍」がなければ発展も成長もないので。その「飛躍」は、「何バカなこと言ってんだ」的な内容で賛同を得ることがなかったりするので、そこで「孤立を恐れない勇気」が必要だ、大切だということになる。

 

「正直」とは何だろう。「自分のヴォイスを発見する」ことだ。

「自分のヴォイス」とは、「自分がほんとうに思って、感じていること」。それというのは、けっしてはっきりと大きな声で言うことができないもの。「言い淀み、口ごもり、言い換え、時々黙り込んでしまう」ものなのだ。

学校教育の場では、先生は子どもたちに「大きな声で、はっきりと自分の思っていることを言いなさい」という要求をしてはいけない。そんな条件を課したら、子どもたちが口にするのは「誰かの請け売り」になってしまうからです。(略)「誰かが断定的に言ったこと」なら、大きな声で、はっきりと再生することができる。

そして、ほんとうに怖いのは、そうやって自分で言ってしまったことを、言った本人は「自分の意見」だと思い込んでしまうということです。

(P153〜154)

 その言葉は言った本人を呪縛し、その後ずっと「請け売りの言葉を繰り返す人」になってしまうかもしれない。

 子どもが、小さな声でおずおずと語り出したら、それは自分のヴォイスを見つけかけた徴候なので、大人は忍耐強くみつめ、急がせたり、結論を求めたりしてはいけない、と内田は言う。

 これ、やりがちですよね、教師にしろ親にしろ。そして、私もそうされた経験が確かにある。子どもに限らず、上にある「飛躍」的な話をするときなどに、人は言い淀むときがある。「あ、余計なこと言ってますよね」的に。でも、そういう話こそ聞いてあげるべきなのだろう。

 先ごろ放送されていた朝ドラ「虎に翼」(2024年4〜9月)のなかで、 主人公・寅子(伊藤沙莉)は、戦前中後を、女性差別のなかで裁判官の道を歩んできた人物だが、彼女が話しはじめて言い淀んだとき「続けて」と言ってくれる恩師たちがいた。寅子も、「私の話を聞いてくれた」と喜んでいた。

 この「続けて」って、相手に話す勇気を与える良い言葉、合いの手だと思う。最近は、話を被せてきたり、割り込んできたり、と腰を折ってしまう状況を生み出すことが多いように思う。すなわち勇気を奪い取る。

 寅子も、家庭裁判所の調停や審判のときに、「続けて」と話を促して、少年少女たちの正直な声を聞こうとしていた。

 

 嘘をつく人は成熟しない人だ、と内田は言う。「権力や地位が手に入るなら、わが身の安全が保証されるなら、自分の思いを口にしないことこそが自分に対して正直であることだ」などという歪んだ正直観を持つ人たちがマジョリティを形成している、と。

 そんな成熟しない人たちで溢れている世の中は、成熟しない世の中ってことか。

勇気のかんどころは「孤立に耐える」ということだと書きました。マジョリティが「こうだ」と言っても、自分は違うと思ったら、自分の直感に従う。正直というのもそれと同じことです。

(P169)

 

「親切」とは何だろう。「正直な人は総じて親切である」。

自分の気持ちを語る時に、つっかえたり、言い淀んだり、黙り込んだり、前言撤回するタイプの人で、かつ「意地悪」という人って、僕はあまり見たことがない。

「意地悪」する人はたいてい「大声で、はっきりと、定型句を口にするやつ」ですからね。

(P177)

 なるほど。

 

 困っている人を咄嗟に助けることができるかどうか。「惻隠の心は熟慮の末に発動するものではありません」。

 これは、いわゆる「利他」という概念に通じるのでは?人間というのは、実は、困っている人、助けを求めている人がそばにいたら、思わず知らず手を差し延べる(差し延べてしまう)という習性を持っているはずなのだ。ゆえに、人々が皆その「正直」のなかで生きていれば、社会は、国は、世界は、平和になるのだろう(それほど単純ではないかもしれないが)。

 

 ここから「ミッション」へと話題は移っていく。

「自分のミッションを探す」=「自分の天職を探す」ということ。「天職」は英語で「vocation」「calling 」と言う。どちらも「呼ぶ」という動詞の派生語。

「救難信号」をキャッチするというのは、「自分を呼ぶシグナル」を聞き取ること。

 すなわち、「救難信号」をキャッチできない人は、「自分を呼ぶシグナル」もキャッチできないということになる。聞こえないか、聞こえても無視する人もいる。

「ちょっと手を貸してくれない?」というところから「天職への道が開ける」という不思議なことは起こる。まさしく、内田樹の人生もそれだった。

「救難信号」が聴こえる人と、聴こえない人がいる。ほとんどの人には聴こえません。だから、それが聴こえてしまったということがある種の「宿命」なんです。

(P216)

 確かに、天職は宿命だ。

 加えて、「救難信号」は聴き取りにくいものでもあるらしい。なるほど。

 

不快な刺激の多い環境に置かれると、人は自分の五感の感受性をあえて鈍くすることで身を守ろうとします。(略)満員電車に乗っている人たちがその典型ですね。目は手元のスマホ画面に固定し、耳にはヘッドセットを詰め込み、身体をかちかちに固めて周りの人にできるだけ触れないようにしている。あれが「外部からの入力をゼロにしようとしている人」の姿です。

外部からの入力をできるだけ少なくする生き方をデフォルトにすると、とても困ったことが起きます。それは「自分を呼ぶ声」が聴こえなくなるということです。

(略)ですから、「惻隠の心」も発動しないし、一神教信仰も立ち上がらないし、「天職」にも出会えない。

(P227)

 確かに確かに。

 でも、そうしないとこの暴力的な空気の社会のなかで生きていくことができない。過剰なまでに自分を守らないと。特にほんとうに満員電車や人混みというのは、人間の精神衛生にとって最悪の状況なのだろう。ゆえに、人は「自分を呼ぶ声」も聴こえないし、「親切」にもなれなければ「正直」にもなれない。必然的に「勇気」など持てない。勇気なんか持って孤立するやつはバカだ、ってことになる。

 そして「天職」に出会えず、苦しみながら人生を送る人々は常にイラついている。

 逆に言えば、正直で親切で勇気ある社会なら、人々はみな防衛したり無視したりせずに、柔らかい身体と心で暮らし、自分の人生を生きることができるのだろう。

 

「いるべき時に いるべき場所にいて なすべきことをなす」これは、武道の要諦(内田は武道家でもある)。これを「機を見る 座を見る」と言うのだそうです。

「いまだよ、ここだよ」という指示が出るのではなく、「いまじゃない、ここじゃない」という警戒のシグナルが出る。「アラート」「ノイズ」。

この能力は、程度の差はありますが、ほとんどの人に生得的に備わっています。その生得的な資質をていねいに磨き上げれば、ノイズ感知能力は高まります。逆に、「アラートが鳴っても無視する」ということを繰り返すと、ノイズ感知能力は鈍磨し、やがて失われる。

(P241)

 ソクラテスみたいなんですね。ソクラテスのダイモンも、していいことは教えてくれなくて、いつも「それではない」ということを教えてくれたとか。

 そういえば、20代のころ、友人とよく話していたことがあった。「これじゃないって分かるんだけど、これだっていうのが分からないんだよね」と。

「違うこと」をしっかりキャッチして避けていると、「自分を呼ぶシグナル」を聴き取ることができるようになるのであろうか。

「勇気論」 ©2024kinirobotti

 

付記

 内田はこう言う。

 世の中には、信用していはいけない人がいる。読んではいけない文章がある。

 根っからの悪人というのは、確かにいるようだ。

 そして、SNSのなかには、読むとエネルギーが吸い取られるような虚しい言葉を書いたり言ったりしている人たちが確かにいる。