ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

さくらももこ哀悼~夢と現実とメルヘンと~「コジコジ」と「まる子」②~孤独と日常~

さくらももこの作品に触れるとき、いささか不思議な感覚を免れません。

 

ものすごく日常を描いているかと思うと、空想と想像と夢の世界を飛び回っています。

空想と想像と夢と言ってもまる子ちゃんの妄想ではなく、人間界からちょっと離れたところの平穏な場所です。

具体的に言うと「ちびまる子ちゃん」と「コジコジ」です。

ちびまる子ちゃん」は、低空飛行の泥臭い日常の暮らし。「コジコジ」は、どこにあるかも知れないメルヘン国の人々の様子。

まるちゃんは普通の日本の小学生、コジコジは宇宙生命体です。

けれども、学校と友人たちとの関わり合いは、両方とも実はとても似ているのです。ただひとつ違うのは、まるちゃんには家族がいますが、コジコジにはいません。

まるちゃんは世の中を斜に観たちょっとひねくれた思考と発言が魅力的です。

コジコジのそれは、メルヘンの国のなかでも浮いてはいますが、なかなかの哲学的思考、深い思惟と真理になっていてドキッとすらします。そのうえコジコジのほうは、より自由で、まるちゃんのような画策も省察もいっさいない。その根本にあるのはひたすら「善」。例の「盗みや殺しやサギなんかしてないよ。遊んで食べて寝てるだけだよ。なんで悪いの?」というセリフがシンボリックです。

敢えて付言しますと、まるちゃんは物語のなかで自身を検討しますが、コジコジの場合は読者が自身を検討することになります。

 

まるちゃんとコジコジをそのまま分身として見るのは少し無理があるかとは思いますが、この世のさくらももこと別世界のさくらももこ、と捉えることはできるかもしれない、と個人的は感じています。

コジコジのほうが、もしかしたらより本当のさくらももこに近い、と言っては言い過ぎでしょうか。「本当の」と言うと語弊があるかもしれません。あるいはさくらももこの天才ゆえの孤独の姿を現しているのではないか、と言うほうが適切でしょうか。

 

(略)家族の冷たいセリフにも怒らずこらえた。私は今、自分の人生の夢に挑戦しているのだ。家族はそれぞれの夢があるんだか無いんだか知らないが、私自身の夢とは無関係だ。私の人生は私のものでしかない。私は今、何が何でもこれをやるのだ。

(「ひとりずもう」P167)

 

お決まりと言っては何ですが、家族のたいていは、つかみどころのない「夢」を応援しません。漫画家なんてなれるわけないだろう、もっと現実的に考えろ!と。もっとひどい言葉で罵倒される人もいるかもしれません。

さくらももこも、例にもれずあれこれうるさく言われていたようです。それをお笑いっぽく書いてはいますが。

しかし、それでもやめられないのが天才の所以なのでしょう。やらずにはいられない。けれども、応援されないという苦痛は、一抹の寂しさとして感じ、残るのではないでしょうか。

それがコジコジなのかもしれません。

コジコジは幸せと平穏を人々に与えてくれる存在です。けれども私は、「コジコジ」のなかのコジコジを見るとき、かわいくて楽しげなのですが、時折、とてもキュンとした静寂と孤独を感じることがあります。

コジコジにはクラスメートも担任の先生もいて、メルヘン国の住人たちもいて、自然のなかで楽しく暮らしています。が、家族がおらず、ある意味ひとりぼっち、なのですよね。

余談ですが、さくらももこさんが亡くなってからは、コジコジの可愛らしい声を聞くと、なんだか涙があふれるんです。

コジコジが、ふと自分を振り返って自分の親に思いを致す、エピソードもありました。

 

第7話「手紙を書こう」。

クラスの友人たちが手紙を書いています。誰に何を書いているのか聞いて回るコジコジ。帰り道、コジコジも誰かに手紙を出したいなぁ、とゲランに話します。

すると前を歩く家族。

「おとうさんとおかあさんと子供だね」とつぶやくコジコジ

おとうさん、おかあさん、……のことが心から離れません。

郵便局でおとうさんとおかあさんに手紙を出すにはどうすればいいのかと尋ねるコジコジ。住所を聞かれて、「知らない、会ったことないよ」と答えます。

……

「おとうさん おかあさん コジコジはげんき」と書いた紙を持って道を歩いてると、その紙が風に飛ばされてしまいます。

するとどこからか声が聞こえてきます。

 

コジコジ コジコジ コジコジ……

手紙ありがとう おとうさんとおかあさんは いつもコジコジと一緒にいます

水のなかにも 土のなかにも 木のなかにも 草のなかにも 風のなかにも 音のなかにも 空のなかにも 光と闇のなかにも…

それはあなたは宇宙の子だから… 

 

ちびまる子ちゃん」では、まるちゃんの毒舌はあるものの、仲の良い家族の姿が描かれています。問題が解決されていくなかでホロッとさせられたり、ちょっと皮肉に終わったりしながら、家族の絆はゆるぎません。

けれども、実際のさくらももこさんは、コジコジのように、もしかしたら自分のことを「宇宙生命体」なんじゃないか、と感じるようなことがあったのではないか、と思ったりします。思考回路が独特なので、親御さんも戸惑うことがあったのではないかと想像してみたりもします。

これはあくまでも私の極めて身勝手な感想ですので、実際をご存知の方々からすれば、愚かしい邪推かもしれません。

さくらももこのすごいところは、コジコジでありながら、まるちゃんとして現実世界とのつながりを切らないことです。人の生活や暮らし、クラスメートやその他人間たちへの好奇心と鋭い観察眼、さらに深い感受性が相俟って、世間という仮面ははがされていきます。よく見る力と感じる力が長けていないと、なかなかここまで表現できないと思います。さらにそれらを、「ユーモア」に変えていくパワー。いっときはお笑い芸人を目指そうかと思い立ったというさくらももこならでは、なのかもしれません。

 

2018年9月4日毎日新聞夕刊にこのような記事がありました。

【「ももこさんのそのまま」小国綾子】

私の記憶はポンコツだから、「昔の思い出」が少ない。

(略)

同世代のさくらももこさんは、そんな私にとって、消えた記憶を掘り起こしてくれる存在だ。漫画やエッセーを読むたび、忘れていたものを「あったあった」と懐かしく思い出せた。(略)彼女のエッセーに触れなければ、私は一生思い出せなかったろう。

 

エッセー集「あのころ」の単行本の巻末に手書きの詩を見つけた。

<生きている時間のなかで

どうしてもとっておきたい時間が

どうしてもとっておけなくて>

<本当は

どうしてもとっておきたい時間は

そのままがいいけれど>

これを読んで、彼女は記憶力が抜群なだけじゃないのだと思った。「とっておきたい時間」の手触りや子ども心に感じた思い。それらを無理を承知で「そのまま」にとっておこうと、本当に宝物みたいに大切に生きた人だったから、「あったあった!」に満ちた創作ができたのだ、きっと。

合唱で、ももこさんの詩「ぜんぶ」(作曲は相澤直人さん)をよく歌う。

<大切なことは ぜんぶここにある

泣くこと 笑うこと 怒ること 喜ぶこと>

で始まるこの作品。

<あたりまえの気持ちは あたりまえのものとして

そのまま 今ここにある>

 

「ちびまるこちゃん」やエッセイを読んで、読者が自身の思い出と重ねるシーンは多いと思います。思い出は大切なのですが、思い出もいい思い出ばかりではないので、ほのぼのと思い出すことのできる人もいれば、そうでない人もいるし、懐かしい回想として捉えることのできるシーンもあれば、そうでないシーンもあると思います。

あ、そういえば自分にも似たようなことがあったなぁ、でも、あれはちょっと…思い出したくなかったなぁ、といった具合に。それも含めて思い出なのではありますが。トラウマが広がってしまったという人も、少数派ではありましょうが、いるのではないでしょうか。ということも付け加えておきます。

 

さくらももこは只者ではない。人一倍、記憶力もいいし、感性もずば抜けています。何かあったとき、それは大きな出来事から些細な日常茶飯事まで、事細かに感じ入る能力、他人や背景を推察する想像力、自分の思いを辿る思考力、に優れているのだと思います。それは、子どものときにより強く働いていたのかもしれません。

洞察力というのは、普通は教養や経験を積んだ大人だからこそ発揮できるのだと思います。さくらももこの場合は人並みではない、と言わざるを得えません。

幼い当時に洞察していなかったとしても、それぞれの出来事を記憶していて、さらにそれを大人のさくらももこが物理的にも精神的にも眺めてコメントしている、のかもしれません。が、子どもの頃の強い感性があってこそ、そして大人になっても感度が鈍っていないかがゆえに生み出されたユニークエッセイ漫画なのだと思います。

凡人の教養云々ではなく、生来の感性と物心両面の分析能力ははてしない物語です。