ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

NHK朝ドラ「らんまん」〜雑草という名の草はない〜純粋な学術とは〜神木隆之介がすばらしい

 なんだか泣けてくるドラマだった。

 

「らんまん」2023年4〜9月 NHK朝ドラ

脚本/長田育恵

出演/神木隆之介 浜辺美波 志尊淳 佐久間由衣 安藤玉恵 前原滉 前原瑞樹 松坂慶子

 

 朝ドラ前2作「ちむどんどん」「舞い上がれ」(「ちむどんどん」は早々に視聴脱落。「舞い上がれ」は羊頭狗肉だと思っている)と駄作続きだった流れのなか、「カムカムエヴリバディ」に続く名作が登場した。私のなかでは「カムカムエヴリバディ」を超えている。

「あさが来た」と同じくらい面白かった。「あさが来た」と「らんまん」の共通点がる。物語の始まりが江戸時代。今のところ朝ドラのなかで江戸時代から始まっている作品はこの2つだけ、だそうだ。やっぱりこの時代(明治大正昭和)の実話に基づく物語が秀逸なのかな。

 

 それにしてもなんだろう、こんなにじわっと泣けてくるドラマって、今まで味わったことがない。決して大泣きするわけではない。最終回はもちろんだが、複数回そんな週があった。

 

 このドラマの主人公である槙野万太郎(神木隆之介)は、植物学者・牧野富太郎をモデルにしている。

 私は牧野富太郎という学者を知らなかった。東京は練馬に牧野記念庭園、高知に牧野植物園なるものがあることも知らなかった。こんなすごくて面白い人がいたことを知らなかったなんて…愕然とした。

 昨年だったか今年のはじめだったか、学者界隈ではいささかざわついていた。牧野富太郎の本をツィートしている学者もいた。え?誰この人?と私はまったくちんぷんかんぷんだったが、少しして「朝ドラ」かぁと分かり、しかもかなりユニークな学者だということも分かってきた。そして、次の朝ドラの主人公は男性なんだ、と思った。

 富太郎はとにかく一心不乱に植物を追いかける人。借金の額も半端ない。しかもその借金(現在の貨幣価値で1億円近く)を精算してくれるという京大の学生が現れるという奇跡まで、富太郎の人生物語には登場する。

 普通に考えたら、とんでもない人間だ。高橋源一郎が「好き勝手なことをする夫」のことを「らんまんな夫たち」と表現していた。言い得て妙。

 歴史学者磯田道史は、自身が司会を務める「英雄たちの選択(NHKBSプレミアム)」で牧野富太郎を取り上げたとき、「学者としてはあこがれの生き方だ」というようなことを言っていた。

 確かに、雑用に追われることの多い昨今の学者生活からすれば、自由奔放に金銭のことも気にぜずに研究に勤しめる富太郎は羨ましい存在に違いない。

 当時の学者たちにも似通ったところはあったようだ。すなわち、国の言うことを聞かなければいけないとか、政治的配慮を忖度しなければいけないとか、政府のお付き合いなどに時間を割かれてしまうなどという辛さは、このドラマでも描かれていた。そういうの、富太郎は嫌だったのだろうな。ひたすら純朴にそして無邪気に植物と向き合っていたいだけ。

 富太郎、すなわち「らんまん」の万太郎は、小学校中退、頼りにして入り込んだ東大では、学生でも教授でも助手でもない。ゆえに自由だ。一方でその学歴の無さが壁になることもあったのではあるが。

 

 万太郎(富太郎)の実像は、漏れ聞こえてくるところによると、もしかしたらこのドラマで描かれているほどには「いい人」ではなかったのかもしれない。いやな奴に映らないように演技を工夫した、と神木隆之介も話していた。主人公が嫌われてしまったらおしまいだ。何しろ湯水のごとく実家の金を使うし、一日中植物の観察をしている。採集に行けばしばらく戻って来ない。上にも書いたが借金の額も尋常ではない。とはいえ、遊びや無駄に使っているわけではない。植物採集や顕微鏡、書物に莫大なお金をかけるのである。だから、学者たちにとっては「憧れ」なのだろう。

 大学には当時でもかなりの資料が海外から集められていたようだ。大学への立ち入りを禁止されたとき、万太郎はひどく困っていた。ゆえに書物を海外から取り寄せるしかなかった。

 私の占いに通っておられた学者さんが、書物で家の床が抜けたと話してくれたことがあった。牧野富太郎記念館に収められている書物をテレビ番組で見たが、床が抜けるどころではなく、そもそも普通の家には入り切らないほどの量のように見える。

 物語終盤、妻の寿恵子(浜辺美波)が練馬に広い土地を買う。それは万太郎の蔵書と標本のためだ。すごい、としか言いようがない。寿恵子は心底万太郎のことが大好きだったのだろうな。55歳という若さで亡くなっているので、死因はがんということだが、働き過ぎということもあったのではないだろうか。

 それにしても、寿恵子がいなかったら、万太郎(富太郎)の標本や植物園は令和の今まで残ってこなかったかもしれない。

 

 どのエピソードも印象深いものばかりで、その全てをここに記すことはできない。ご覧になっていない読者がおられれば、ぜひNHKオンデマンドでの視聴をおすすめしたい。NHKの回し者では決してない。それほど良質のドラマだったのだ。

 

 簡単に、いくつか印象と感想を述べておきたいと思う。

 まず、女性の登場人物。

 万太郎の祖母であるタキ(松坂慶子)、東京の十徳長屋の差配人であるりんをはじめ、明るく元気でしっかりと自分を持った女性が多い。

 なかでも、万太郎の姉の綾(佐久間由衣)、万太郎の恩師で東大教授だった田邊の妻の聡子(中田青渚)、そして万太郎の妻の寿恵子。この3人は、明治から大正の家父長制、男尊女卑の社会のなかで、凛として自らの人生を選択し、そして堂々と生きた女性たちだ。綾は女だからと反対されながらも酒蔵を継ぎ、聡子も弱々しい女性なのかと思いきや、自分の意見をはっきりと話し、そして夫の死後にも力強く前を見ている様子がうかがえた。寿恵子は上記のとおり。

 神木隆之介も「あさイチ」のなかで言っていた。芯の通った女性を「意識して」描き出している、と。

 さらに付け加えると、物語のまだ序盤、高知での自由民権運動の集会で、万太郎、竹雄(志尊淳)、綾は、楠野喜恵(島崎和歌子)に会っている。婦人参政権の声をあげた自由民権運動家の楠瀬喜多がモデルだ。

 タキも晩年言っているように、万太郎たちが生きた時代は、まさに時代の変わり目だったのだ。性別に縛られなくていい。家に縛れなくていい。ゆえに、万太郎も実家を綾に任せて、自分は研究のために東京へ旅立つ。

 

 学者と研究、学問ということの純粋性を深く感じるエピソードはいくつもあったが、なかでも、藤丸(前原瑞樹)の繊細な心が垣間見えるシーンには胸を打たれた。

 藤丸は東大の植物学科の学生。英語が苦手で他の学生たちのようにキビキビと立ち回ることも苦手。そんな藤丸が、卒業まであと少しというときに退学したいと言う。みんなが発見や論文を競っているのが解せないらしい。ゆえに、みんなについて行けないということになるのではあるが、ただ単に苦手、あるいは怠惰でそういった気持になっているのではない。もっと純粋に、好きなことを研究したい、それが本当の学問なんじゃないか、と自分と世間に問いかけているのだ。

 そして、万太郎はそうしている、そうできている、と藤丸は思い、憧れの気持ちを抱いている。

 藤丸のそんな心の内を聞かされて、万太郎もまた、誰よりも先に新種を発見して名前をつけたいという欲望にかられていたのではないかと、自らを振り返って反省する。

 大学というのは、本来は学問をするところ。令和の現在は就職のための機関にどんどん成り下がっていっている。そして学者の論文競争は、万太郎たちの時代からあったようだ。

 

真の学者は皆、アマチュアであると私は信じています。文字通り、アマチュアとは、プロフェッショナルのように、キャリアを積み上げていくためではなく、関心、個人的な関与、責任の感覚に突き動かされて、愛するがためにそのトピックを研究する人のことです。

(ティム・インゴルド「応答、しつづけよ」P33)

 最近は在野の学者も多く、SNSの普及によって広く世間に知られるようになった。組織に所属してさまざま拘束されるよりも自由に重心を置いている。万太郎の時代からすると、大学にいなければ最新の資料を手に入れるのが難しい、ということもない。「教授」などの肩書というものはないが、それでも功績を認められれば、そうした道も開かれる。例えば、イラストレーターでタレント、魚の達人だったさかなクンは、今では東京海洋大学客員教授だ。

 島田拓は、ひたすらアリの研究をひとりでしている。「クレージージャーニー」や「情熱大陸」でも紹介された。通販でアリの飼育キットを販売したり、写真集や図鑑の執筆などをして生計を立てている。

 最近はYoutubeなどもあるので、万太郎の時代よりもずっと、大学や研究所に所属しなくても生活できるチャンスはあるのかもしれない。いわゆる肩書、キャリア、地位のためにしなければならない事務的雑用と定量的評価を得るために提出しなければならない論文は、ときに純粋な研究の妨げになることもありそうだ。

 そこから敷衍して次のような見解も興味深い。

学校で教えられることの多くは―とりわけ大学などの高等教育の中で学ぶことの大半は―、資本にとっては役に立ちません。つまり、私たちが学校で学ぶことの多くは、就職したとき、何の役にも立ちません。大学は、たえず企業から批判されてきました。ビジネスに使えないことばかりを教えている、と。とりわけ人文系の知に対しては、経済界からの風当たりがつよい、ということを強調しておきましょう。

(略)

しかし、資本の蓄積に有用であるということが、知識や芸術の意味のすべてではない、ということを知るのは、むしろよいことではないでしょうか。知識や芸術は、それ自体を目的としているのであって、資本に奉仕するものではないと理解することは、資本や資本主義の存続を絶対視しない見地にたてば、非常によいことです。

大澤真幸「資本主義の<その先>へ」P182〜183)

 

ひたすら利益追求型のシステムにしたいと考える人はいないだろう。なぜなら利益の追求は、教え導きたいとか病気を治したいといった本質的は欲求を破壊しかねないと、社会や時代を問わず多くの人が気づいているからだ。しかも教育や医療に限らず、多くの分野についてそう言える。

(トマ・ピケティ「自然、文化、そして不平等」P85)

 

 藤丸は、競争も名誉も要らないと言っている。ひたすら純粋に研究ができるなら研究者になりたいけど、そうでないなら自分には向いていないので研究の道はあきらめる、ということだ。極端かもしれない。極論かもしれないけれど、これは、好きなこと、魅入られたことに取り組む人間の真正直な心持ちだろう、と私は感じた。

 学術、探求よりも、地位名誉に重きを置いている学者だっているだろう。その場に身を置いているうちに次第にそうなってしまった人もいるはずだ。そしてそれを仕方ないと言うかもしれない。

 

 万太郎は、自身の言葉と背中で、周囲の人々を励まし、目覚めさせた。研究を楽しむこと、自分の好きなこと、自分のできること…万太郎と出会って救われた人は大勢いた。大人も子どもも。

「雑草という名の植物はない」は、意気消沈、自暴自棄になっている人の心には大きく響く言葉だ。十徳長屋に住んでいた倉木(大東駿介)は、元彰義隊のメンバーで上野戦争の生き残り。酒と賭け事におぼれて自堕落に生きていた。そして、植物にあまりに熱心になる万太郎に倉木は「たかが雑草に…」と暴言を吐く。すなわち、雑草を馬鹿にしながら自己を卑下する。

 万太郎は言う。

「雑訴いう草はないき。必ず名がある。わしは信じちゅう。どの草花にも必ず、そこで生きる理由がある。この世に咲く意味がある」

 倉木はそこから立ち直る。

 だからこそ、万太郎は新種の植物に名前をつけたい、という使命感に取り憑かれていたのかもしれない。その意義深さには無意識で無自覚だったであろうが。

 

 そんな万太郎も、学歴の壁に突き当たり、自分の自由な研究環境を守ろうとするがゆえに、大学から追い出されてひとりぼっちになってしまったというエピソードがあった。そんなとき、故郷の山で出会った少年・虎鉄(寺田心濱田龍臣)から採集した植物と手紙を受け取った万太郎は、「ひとりじゃない」と感銘を受ける。万太郎には日本国中に万太郎を慕ってくれる人々がいたのだ。そして彼らは万太郎のことを「先生」と呼んでくれる。孤高の研究者とはいえ、やはりひとりぼっちは寂しいし、研究にも支障がでる。どんなに嬉しかっただろうと、胸が熱くなるシーンだった。

 

 実在の富太郎とはだいぶ違う、と評する視聴者もいるだろうが、伝記というのはそういうものかもしれない。ましてや「らんまん」は伝記ではない。実話に基づいたフィクションである。

 ここまでチャーミングな物語に仕上げくれた脚本家・長田育恵に拍手を送りたい。

 

 研究、学術、学問は楽しいものなのだ、権威ではないのだ、ということを身を挺して教えてくれた万太郎。

 最近思うのだが、万太郎(富太郎)の発するエネルギーが、岡本太郎棟方志功に似ている気がしてならない。

 

 神木隆之介浜辺美波の演技がどんどん成長していくことに驚いた。

 また、寺田心濱田龍臣本田望結など、神木同様に子役から活躍している俳優たちの登場も心憎い起用だった。

 竹雄と万太郎、すなわち志尊淳と神木隆之介のコンビネーションが絶妙だった。神木は、竹雄が志尊淳でよかったと泣きながら感謝していたそうだ。

 あいみょんの主題歌「愛の花」はとても優しい気持ちになる曲だった。そのオープニング映像も素晴らしかった。

 

 なにより、神木隆之介の演技の奥深さに圧倒された。もちろんメイクの技もあるのだが、ちゃんと年取っていく姿から人の生きる重みと趣きがしっかりと伝わってきて、全体を通して、本当に胸が熱くなるドラマでした。

 もう一度見たい気持ちに駆られている。

「らんまん」万太郎(神木隆之介)a la TsuTom ©2023kinirobotti