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『世界は「使われなかった人生」であふれてる』②〜ありえたかもしれない別の人生の自分を考えるための映画やテレビドラマ〜「老い」の哲学

『世界は「使われなかった人生」であふれてる』

沢木耕太郎著/暮しの手帖社

 

 ①では、この書物の冒頭部分を引用しながら、「使われなかった人生」「ありえたかもしれない人生」についてあれこれ考えてみた。

 

 そもそも私は、この本を読んで期待外れ感を否めなかった読者のひとりである。

 映画評とはいえタイトルを信頼すれば、取り上げた映画のストーリー(内容)に則して「使われなかった人生」「ありえたかもしれない人生」を読み込んで紐解いていくのかな、と想像していた。

 が、いくつかを除いて一般的な「映画評」「映画エッセイ」に他ならない。もちろん、そのひとつひとつはそれぞれ興味深く読むことができる。

 映画やドラマについて書くときに「ネタバレ」というものがある。ほんとうだったらネタバレはしないほうがいい、してはいけない、それがルールなのかもしれない。が、例えば「ありえたかもしれない人生」という視点を持ってきて映画の分析をしていくとき、物語の結末も含めて内容に深くふれずに書くことはできない、と私は思っている。この本では、肝心なところ(ネタバレしてはいけないところ)がそのルールにのっとって書かれていないので、その誠実さが私には不満足。例えばそのあとどうなったのか、が分からないと自分のなかであれこれ回収できないままになるし、どう使われなかったのか、どうありえたのか、に思いを巡らせることができない。消化不良。

 

 深読みすれば、ひとつひとつの論評に、書籍の表題にふさわしい論理や背景、意図が見えてこないでもない。そしてその表題を意識しつつ書物全体を見渡したとき、ああそういうことか、と私は自分を慰めるかのごとく納得していた。

 すなわち、映画のなかに展開される(俳優が演じている人物の)人生は、まさしく私たちが経験することのできない自分以外の誰かの人生だ。そういう意味で、著者は映画のことを『世界は「使われなかった人生」であふれてる』と表現したのかもしれない、いや、したのだろう。そう考えないと、先へ進めない。

 自分が経験することのできない人生を教えてくれるのは、映画だけではない。小説や漫画、ドキュメンタリーも然り。加えて自分の周囲の人間たちの語りを聴く時もそうだ。私たちが経験する一生涯は、自分自身のたったひとつの人生だ。私以外の人生は別の人間の人生。

 もうひとつの側面は、著者も自らの就職についての思い出で語っているように、この地球に生きる私たちひとりひとりに「使われなかった人生」すなわち「選ばなかった方の人生」が存在しているのは明らかなので、「あふれている」ということになるのだろう。地球上の人間ひとりひとりにいったいどれほどの別の人生があるのだろう。この思考を辿っていくと、複雑に多層化しているパラレルワールドに入り込んでいく(この話題は別の機会に譲ります)。

 どの映画もそのストーリーのなかには、あのときあっちへ行っていれば、あのときこうしていれば……、あのときこっちへ行ったから、あのときこうしたから……というネガティブでもポジティブでも、人生の分岐点、シンクロニシティは散りばめられている。

 

 さて、そんななかでも、タイトルと直結している論評もある。

日の名残り」。

 原作はカズオ・イシグロの小説で、1993年に映画化された。アンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンが切ない男と女を演じている。

 私もこの映画は観ているが、記憶を辿ると、2つの分岐点があったように思う。

 ひとつは、執事であるスティーブンス(アンソニー・ホプキンス)が、屋敷の主人がナチス・ドイツに加担していく様を見ながら、それについて何もアクションを起こすことができなかったこと(執事の立場でどうのこうのできるとは思わないが)。

 もうひとつは、共に屋敷で働いていたミス・ケントン(エマ・トンプソン)との関係だ。おそらく互いに惹かれ合っていたのだと思うが、絶好のチャンスがあったにもかかわらず、スティーブンスは逃避したと言っても過言ではないような態度を取った。執事としての矜持からなのだろうことは想像に難くない。しかし、ここでも優柔不断(と言っては申し訳ないが)ゆえに、スティーブンスの行動は別の方向へと二人の関係を飛ばしてしまうことになった。

 あのとき、屋敷の主人になんらかの進言をしていたら……。

 あとのき、ミス・ケントンの肩を抱いてプロポーズしていたら……。

 後悔をともなう過去の記憶は「ありえたかもしれない別の人生」を物語る。

 老年期に入った人々は、多かれ少なかれ「あっちの道を選択していたら……」という記憶が呼び覚まされて、ときに深い後悔の念に息苦しくなったりすることもあるだろう。悔やんでも何も良いことはないのだとは分かっているので、こんなもんだったのだろうという諦念とこれが私なんだという自己承認の入り混じった感情で自分のこれまでの人生を受け止めて納得していく。

 

バグダッド・カフェ」も、ある意味近似的かもしれない。

 私はこの映画を観たことがないし、その存在も知らなかった。「ここ」ではない「どこか」へ行って、新しい人生を始めるというストーリーのようだ。

 やり直したい、と思ったとき、場所を変えるのは得策だ。自分のことを知っている人がいない世界で、うまくいけば理想にかなった自分を作り上げていくことができるかもしれない。

 とはいえ実際は、おそらく自分という人間はそれほど大きく変えることができないはずなので、やはり自分の本性なるものは端々に見え隠れするだろう。が、過去の自分、すなわちこれまでの自分自身の人生の背景を知り得ている人たちがいない場所では、ある程度「別人」になることはできる、という点では「使われなかった人生 ありえたかもしれない別の人生」を生きることができるのかもしれない。

 

ペイ・フォワード 可能の王国」は、社会科の授業で「世の中をよくするためには何をしたら良いか」という課題を出されたことから始まる物語。生徒のひとりであるトレヴァー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)が、いわゆる「ペイ・フォワード」の仕組みを思いつく。「ペイ・フォワード」とは、日本で言われている「恩送り」と同質のことだ。

 困っている人を助けてあげることが、その人の「ありえたかもしれない別のより良い方の人生」を実現させることにつながると考えると、この映画も「ありえたかもしれない別の人生」を表現した映画の仲間に入るのかもしれない。

 この映画については、別の機会で取り上げたいと思う。「恩送り」「善の循環」「利他」「運命」についての考察のほうが馴染むと思うので。

 

「ありえたかもしれない別の人生」は、いったいどんな人生だったのだろうか。

 タイムスリップもののドラマや映画では「ありえたかもしれない人生」がしばしば描かれている。テレビドラマ「スター・トレック」では時間のパラドクスがよくテーマになっている。映画「マイノリティ・リポート」もある種の「ありえたかもしれない人生」がシンクロニシティバタフライエフェクトとともに描かれていたように記憶している(間違っていたらごめんなさい)。

 日本のテレビドラマ「JIN―仁―」もそうだった。江戸時代にタイムスリップした脳外科医の南方仁大沢たかお)が、死んでしまうはずの人の命を21世紀の医療技術で助けたりするのだが、しかし、結局は別のアクシデントで命を落としてしまうという現実を突きつけられて、運命について考えたりもする。「ありえたかもしれない人生」は「運命論」抜きには語れないようだ。

 韓国ドラマの「知ってるワイフ」は、過去に戻ってやり直そうとする男の物語。「あのときあそこでこうしていたら……」を実践する。けれども、自分の環境が変わるだけではなく、自分と連動している友人たちの人生も変わってしまう。元の世界にはいた友人のかわいい子どもたちが誕生していなかったり、というちょっと悲しい変更もあったりする。なかなか興味深いドラマだった。日本版では主演夫婦を広瀬アリス大倉忠義が演じている。余談になるが、韓国オリジナルを観ると、夫役は大倉よりも夫の同僚を演じていた松下洸平のほうに近いように私は感じた。

 同じ韓国ドラマで「シグナル」という刑事ドラマがある。現在世界でコールドケース捜査班のひとりの刑事が過去世界の刑事とトランシーバーでつながって、歴史、今現在を明らかに変えていくというストーリー。サスペンスがなかなか興味深く、視聴者としてはけっこうぐいぐい引き込まれていく。「諦めなければ未来は必ず変えられる」というコンセプトのもと、刑事たちが奔走する。あのときあいつを逮捕できていたら、あのときあそこへ行かなかったら…を過去で実践していく。日本版では坂口健太郎吉瀬美智子がバディ。過去にいる刑事を北村一輝が演じている。これはなかなかよい配役だと私は思っている。

 

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