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タロット占い師のetc

オードリー・タン「デジタルとAIの未来を語る」〜デジタル民主主義〜誰も置き去りにしない〜

天才の理想像。

本当に宇宙人なのかもしれない。

 

「デジタルとAIの未来の語る」

オードリー・タン著/プレジデント社

 

オードリー・タンは、天才プログラマーで、台湾のデジタル担当政務委員。日本では、デジタル大臣という通称とコロナ禍のマスクマップ政策の成功でその名と存在と功績を知ったという人は多いのではないか。


それからなのかなんなのか知らないが、日本でも近頃デジタル庁なるものができるそうだが、本著を読んだあとでは、なんとも情けなく心許ない気分になる。
まず日本では、これだけの思想を持ち語れる人物がいないし、そもそも政治と社会のシステムが古すぎる。
本著ではところどころで「日本統治時代」というワードと出会うが、日本の政治家たちは現在の台湾をどういった位置づけで見ているのかなと、ふと思った。中国との関係で国として認めるとか認めないとかそういうことではなく。


台湾は民主化を市民の手で勝ち取り、そして今現在の総統は女性だ。その蔡英文総統は、ドイツのメルケル首相同様、たびたび心に響く素晴らしい発信をしている。
そして、オードリー・タンはトランスジェンダーだ。
その他さまざまな面からも、日本からすればずっと未来を歩んでいる(4〜5年前、占いの相談者さんが台湾に留学すると言っていた。なんで欧米ではなく台湾?と思った当時の自分を今は恥じる。感度のいい人だったのだな)。
人口が少ない国と比較はできないと言う向きもあるが、この本を読めば、そんな物理的定量的な話ではない、ということは明瞭だ。

 

AIやデジタル系の話を聞いたり読んだりすると、ディストピアな未来を予想させる展開であることが多いなか、オードリー・タンの語る世界はユートピアに近い。少なくともそこを目指している。
さらにもうひとつ、ある種の期待を裏切ってくれることがある。オードリー・タンは極めて人文主義的(ユマニスム/ヒューマニズム)で「まともな」天才だということだ。天才というのは、ルールを守らなくても、自分勝手でも、不誠実でもなんでも許されるという許容定義らしきものを与えられがちだが、その思い込みすら打ち破ってくれる。
ゆえに、なんだかホッとするのである。

日本のテレビ番組でのインタビューでも数回、オードリー・タンの話を聞いたことがあるが、この人がインタビュー開始前に必ず言うのは、自分は国のために働いているのではない市民のために働いているのだ、ということと、このインタビューをネットにあげて公開することをインタビューの条件としてほしい、ということだ。そしてインタビュー終了時には「長寿と繁栄を」の手のサイン(スタートレックのバルカン人の挨拶のポーズ)。もしかしたら、本当にバルカン人なのかもしれないと、思わず信じてしまいそうなくらいの稀有な人物だ(バルカン人だって色々と問題は抱えているのだろうが、地球人よりは聡明で進歩している)。

 

コロナ禍で、感染拡大を抑えるためのAI活用やロックダウンという行動規制について、あれは人権侵害になるから自由の国である日本ではできない、と声高に語る人たちがいる。報道番組でも、日本では人権に配慮してできませんよね、とアナウンサーらがコメントする。確かにその問題はある。だが、アメリカもフランスもイギリスも自由の国だ。独裁国家ではない。それらの国の人権意識が低いように語ることに違和感がある。むしろ日本のほうが人権意識が低いと言われているのに。


森本あんり著「不寛容論」

西欧社会で生み出された近代憲法には、集会・結社・言論・出版などの自由が歌われている。(P23)

という箇所を読んでいて今更ながら符号した。感染症というのは、人間が勝ち取ってきた自由を奪うことによって感染拡大を抑制できるというなんとも皮肉な現象なのだ。
だからこそ哲学者たちは、いわゆる「ショック・ドクトリン」への警鐘を当初から鳴らしていた。気づいたらいつの間にか監視社会や全体主義社会になっていた、ということだってありえる。人々はウィルスへの恐れから緊急事態宣言だったりロックダウンだったりを自ら求め、そして政府に支配され、その頂点にいる人物は独裁者となっていくというシナリオだ。
日本は戦時中の反省から、そういうことはできないのだという姿勢を貫いているようだが、いささか的外れにも見える。良心に従っている振りをして、実は責任逃れ、あるいは無策無能なだけだったりしないか。いや、もしかしたら、日本人は節操がないからいったんそちらの方向へいくと際限なく突き進んでいくことを今の段階ではまだ自覚しているので、かろうじて抑制が効いている状態なのかもしれない。だからといって、この何もしない政策が良いわけがない。あるいは、無意識、DNAの為せるワザなのか。それともじわじわと全体主義を推し進めるためののらりくらり作戦なのか。

いずれにせよ、日本の閣僚たち、代議員も官僚たちも、オードリー・タンが言うところの市民のために仕事をしているのとはちょっと様子が違うようだ。
それはこの本を読むと悲しいほど鮮明だ。

 

「デジタル民主主義」という言葉を、私は日本のテレビ番組でのインタビューなどから知り得ていたが、なるほどそういうことか、と本著によって合点がいった。

AIの目的は、あくまでも人間の補佐です。「AIの判断に従っていれば間違いない」ということでは決してありません。(略)
これは「民主主義」のシステムと同じです。総統が言ったから、行政院長が言ったからといって、それが必ずしも正しいということではありません。彼らが間違ったことを言えば、私たちには言論の自由があるのですから、彼らの間違いを指摘し、より良い意見を提案することができます。総統や行政院長の地位が高いからといって「彼らの言うことは正しい」と鵜呑みにしてしまうのであれば、民主主義である意味はありません。それでは独裁体制と変わらなくなってしまいます。
(P41〜42)

私は総理大臣だから嘘をつくわけがない、と言いながら嘘をついていた日本の総理大臣がいた。官僚たちも明らかな嘘と詭弁を繰り返したまま月日が流れた。それらを正して復元する仕組みもないのが今の日本だ。この間に、台湾は民主的に人文的にすばらしく成長していたようだ。

AIにこうしなさい、ああしなさい、と言われてそれをするのではなく、自分がどうしたいのか、どこへ行きたいのかをAIに伝えることが人間として大事なのだ、とオードリー・タンは言う。
私はタロット占い師だが、ちょっと似てるな、と思った。相談者さんのなかには、予言や命令を期待する人もいる。けれどもそれでは人生ではない。ただの操り人形になってしまう。そのシステムを使って洗脳する占い師や霊能者の事件がときどき報じられる。先日もいわゆるママ友なる人間関係のなかでの信じ難い洗脳による事件が発覚した。


AIは人間をコントロールするものではない。
AIに命じられるまま、何も考えずに、同じことを繰り返すだけの毎日にあなたは耐えられるでしょうか?とオードリー・タンは読者に問いかけてくる。

これは人間における尊厳の問題なのです。私たちは毎日をどのように過ごしたいのか。

(P57)

これは何もAIと人間の関係を考える近未来の話だけではない。今現在の社会のあり方、働き方にも通じる。

私はAI、デジタル素人だが、たぶんこういうことではないか。AIというのは、人間の仕事を困難から解放してくれて、人間にゆとりを与えてくれる。ゆとりのある人間はより創造的になり、親切で優しくなれる。現代社会はゆとりがない。そしていまだに大量生産と速度、稼ぎを競っている。それゆえ、人々はギスギスしてくたびれて意地悪になる。このことは私も都度書いてきた。

 

起業したり自分が追求したいことを行おうとすれば、当然リスクを伴いますし、必ずうまくいくという保証はありません。ただ、たとえ失敗したとしても、少なくとも自分の健康や子供の教育が犠牲になることは絶対にないというのが、現在の台湾社会です。すくなくとも、ここ十五年はこういった堅実な社会が定着しています。

(P71)

すごい。もう15年も。日本は遅れすぎている、というか逆に、そのような社会システムをつくりたくないという古い強固なまでの意志すら感じる。下々のものたちを我慢させて言うことを聞かせてこその特権階級なんだよね、と。そして自助と自己責任論を広める。

 

強いプレッシャーの下で競争を強いられると、相手に丁寧に接する余裕がなくなります。つまり、自分の精神の安定が失われてしまうのです。それは資本主義社会における競争原理の弊害とも言えるでしょう。自分の精神が健全で安定していれば、自然とスマートで礼儀正しい人間になれる。そういう余裕のある社会を台湾は目指しています。そのためにデジタルを積極的に有効活用していこうとしているのです。(P71〜72)

10年ほど前に、宇宙人ものの書物にはまって読み漁ったことがあった。その宇宙人と言われる人たちが、地球で一番気持ち悪いのが「競争」だと、口を揃えて言っていたことを思い出す。やっぱりこの人、宇宙人かも。

 

今回のパンデミックは、人類が古い考え方を捨てて新たな考え方を得るために、全世界で一斉に行われた一つの試験のようなものであったように思います。

(P81)

2020年パンデミックが始まった当初、作家も学者も哲学者も、同様のことを語っていた。パンデミック後はパンデミック前の世界に戻ってはいけない、と。環境破壊ひとつとっても、経済活動が止まったら空気や川がきれいになった。

 

台湾にあって日本にないことははっきりした。フラットであること、記録とその公開性、傾聴(みんなの話を聞こうとするのが民主主義)、点検と素早い修正力。

間違ったら叱られる、自分たちは決して間違わない、と思っているからなのでしょうか、日本はこれらが本気で全くない国になってしまった(いや、ずっとそうだったのか)。

 

また、次のようにオードリー・タンは言う。

ご存知のようにAIは「Artificial Intelligence」の略で「人工知能」と呼ばれますが、私はむしろ「Assistive Intelligence」つまり「補助的知能」と捉えたほうがいいのではないかと考えています。AIは人間の選別に使われるようなものでは決してなく、あくまでもソーシャル・イノベーションを進め、人間社会をより良くするために使われるものでなくてはならないということです。

(P174)

私がとても気持ちが悪いと感じているテレビCMがある。会議室で社長をはじめとするおそらくは役職のある社員たちが大きな画面を見ている。そこには社員たちの評価表のようなものが映し出されており、それで給料を決めているような会話がなされている。そしてなにやら出席者たちのニタニタ顔。
そんな風に人をランク付け、給料査定しているAI画面を眺めるのは、きっとそちらの立場になれば楽しいのでしょうね、と私の心は叫んだ。そして社員たちは、その評価基準に則さなければ給料も低くなるわけだから、それに合わせようと必死に働くのだろう。
数値化による定量的選別。ディストピアだ。

 

長くなったが、最後に気になった箇所をもうひとつ。

日本の小学校では、今年(2020年)からプログラミングの授業が始まったと聞いていますが、私は、デジタルに関する素養とスキルはまったく同じものではないと考えています。スキルとは求められていることを時間内に、そして一定の条件の下で素早く正確にこなせるようにすることです。(略)
私はそのようなスキルよりも「素養」(平素学習で身につけた教養や技術)を重視しています。
(略)
「自分が興味のある問題や公的な問題を解決する以外の目的で、プログラミング言語を学ぶ」というのは、外国語を学ぶときに辞書に載っていることを完璧に暗記するようなものです。そんなことをしても必ずしも役に立つとは限りません。
(略)
要するに、プログラミング教育とは、「子どもにプログラミング言語を無理やり暗記させるようなものではない」ということです。
(P210〜211)

日本というのは「辞書に載っていることを完璧に暗記する」という授業というか学習というか勉強になりがちではないかと思う。
オードリー・タンが言うところの「素養」にはもちろん技術的なことも含まれているが、それを上手にユートピア的に使いこなしていくためには、いわゆる教養とか疑問を持つ力とか、批判的精神とか、考える力、そこからくる発想力、人を思いやる気持ちが重要なのだろうと思う。
これは、プログラミング教育に限ったことではなく、あらゆる学校教育について言えることだ。

そしてこれ。

デジタル時代になればなるほど、文学的素養は欠かせず、重要性を増すのです。

(P233)

うっかりすると逆のように理解していることもあるかもしれない。が、違うのだ、ということをデジタル天才オードリー・タンが言明している。

 

デジタル民主主義とは、すなわちそういうことだ。オードリー・タンがデジタル担当政務委員として行っていること。
人々は何を求めているのだろう、どうすればより良くなるのだろう、様々な価値観に耳を傾けながら寄り添っていくなかでデジタルを使っていく。
決して自分の利益のため、誰かが得するため、支配するためにAIがあるのではないという視点が大事なのに、日本の場合はその根本が違っているようだ。いや、根本云々のまえに、ただ単に能力がないだけなのかもしれないが、それが実は一番危険だ。

オードリー・タンの主張のように人々が動けば、差別や地球環境破壊も含めた様々な社会問題を世界中の人々が協力して考え、解決方法をみつけていくことができるということだ。

自分とはまったく異なる文化、異なる世代、異なる場所にいる人の話を聞き続けることで、自ずと「世界共通の普遍的な真実、普遍的な意見というものがある」ことを発見するでしょう。するとこの地球や世界のどの場所にいてもコミュニケーションをすることが可能ということがわかります。
私も世界各地を訪れましたが、「自分たち世代だけが快楽を享受して、次の世代には地球が破壊されてしまっても構わない」とか「地球をぶっ壊してやろう」などという意見は、聞いたことがありません。みな次世代のことを考えています。
(略)
普遍的な価値観が存在する一方で、先の「米台防疫ハッカソン」のときのアメリカ人の意見のように、私には到底受け入れられない考え方も存在します。つまり、救急医療のような私たちが慣れ親しんだものについて(略)、先に受け入れた急患から順に治療を施していくものと考えています。しかし、先のアメリカ人は、「今後、社会への貢献度がどれだけ残っているか」を判断基準にするべきだというのです。それが正しいとか間違っているというのではなく、「そうした考え方がある」ということも知っておく必要があります。

(P234〜235)

 

最後の最後にもうひとつだけ。

イノベーションとは、より弱い存在の人たちに優先して提供されるべき」ものであり、それこそが誰も置き去りにしない「インクルージョン」です。私たちの社会には、多種多様な人たちが生きていることを忘れてはいけません。

(P184)

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読書 オードリー・タン ©2021kinirobotti