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「今日の芸術」岡本太郎〜符丁として生きない〜自由に生きる

 ものすごいエネルギーだ。

 

「今日の芸術」(新装版)

岡本太郎 光文社文庫

 

 なんだかすっごいことが書いてある。

 ひとことで言えば「芸術は爆発だ!」に尽きる。

 

 1954年に光文社から出版されたものの新装版。先日取り上げた大江健三郎の「同時代論集」もそうだったが、この本も、まるで昨日今日書かれたかのような錯覚に陥る。すなわち、人間、社会、芸術に対する岡本太郎の所感、主張が、2023年の現在の社会状況について語っているかのようなのだ。

 世の中が何の変化も受け入れてこなかったのか。

 それとも、岡本太郎の感覚が斬新、時代的に早すぎたのか。

 

 世界各国、それぞれに長所も短所もあるので、日本だけが短所のかたまりというわけではない。

 が、この本では、岡本が日本の「よくないところ」を、例をあげながら論じていく。

 絵画の鑑賞の仕方、描き方、評価方法(感覚)……。

 その指摘は、絵画や芸術にのみ当てはまるものではない。結局私たちの社会全般に関わってくる。日本人の特質、慣習、風習、暗黙の了解(世間体)などなど、日本(人)全体を形作っている(形作ってきた)伝統(と言えば聞こえはいいが)に対する提言となっている。

 

 そんなこと言ったってそんな風(岡本太郎が言うよう)には誰も生きていけないんだよ、という感想を漏らす人もいるかもしれない。一見それほど過激、いや突飛、いや突き抜けているようだが、実は、たいへんまともな人文主義的発想だと私は思った。すなわち、定量的でもなければ、資本主義的でもない。権威、優越、差別からは程遠い、個々人を大切にした平和主義者の言説だ。

 そしてものすごい知識量である。岡本はパリ時代に、マルセル・モースの文化人類学なども学んでいるらしい。絵描きというよりも学者に近い考察をする。

 

 岡本は、絵は鑑賞するだけではなくみんな自分でも描け、と言う。下手な絵などないのだ、と。もちろん、緻密な絵は誰にでも描けるものではないだろう。そこには生来の才能というものもあるだろう。

 人は年齢を重ねていくに従って絵が描けなくなる、と岡本は言う。幼い子どもは誰でも好きなように思ったように自由に描いているが、幼稚園や小学校低学年くらいで先生から指導されたり指摘されたり、あるいは、周りの人々から「下手くそだな」などと言われたりすることで、人は絵を描くことをやめてしまう。

 加えて、人間、建物、動物、山や海や花…は「こう描くもの」と、手本というかルールのようなものを示されて、それに則して描ける人は花まるをもらえたり、通知表の評価が高くなる。

 以前テレビ番組のなかで誰かが言っていたが、園児が太陽を黄色く塗っていたら、先生が「おひさまは赤でしょう」と言ってなおさせた、というのだ。それはやっぱりおかしい。何色だっていいじゃないか、と岡本太郎なら言いそうだ。

 本当にそうやって人は自由な心を奪われていく、というわけだ。

 私たちはたいていみな、教育という名のもとで、自由ではない。絵に限らず、どこかで何かを否定されたり、貶されたり、正しいと言われている方向に直させられたりしてきたからだ。

 

 そもそも絵画というのは点数をつけたり、良い悪い的評価をすることに馴染むものなのだろうか。まぁでも、そうしないと社会的に成り立たないことがたくさんあるので、致し方ないのかもしれないが。

 例えばセザンヌの絵は当時、下手クソだと言われてコケにされていた。ところが今では巨匠である。評価というのはそんなものである。

 もちろんそれまでの貴族社会が独占していた絵画スタイルの歴史というものから逸脱していった市民文化ということを考え合わせればまたそれは、時代の流れという側面もあるのかもしれない。

 

 そんな難しいことはともかくも、いずれにせよ、きれいに描くことよりも、自分の思いの丈を何ものにも囚われることなく、自由に描くことが大事だと岡本は言っている。そして子どもたちはそうしているのだ、と。

 私はいわゆる絵ヘタ(絵が苦手)なので、自由に描いてみなさい、と言われても戸惑ってしまうばかりだが、岡本のこの書物を読みながら、過去の自分を振り返ることができた。あのときああ言われて描けなくなった、という記憶が確かにある。いくつか思い出せる。でも同時に、やっぱり絵の才能はなかったのだ、とは思う。

 

 この書物を読むと、絵の世界に限らず、否定されたりすることで、どれだけ多くの人々の才能が奪われてきたのか、ということは想像に難くない。

 褒めればいいというものではない、などと言う人もいるが、貶すよりは褒めたほうがいいと私は思っている。最近はスポーツなどでも褒めたり励ましたりする指導に変わりつつある、と聞く。とくにアメリカはそうで、メジャーのチームにいた選手は口を揃えて日本とはまったく違う、と語っている。

 学校でもそうだが、全員を型にはめようとする教育は、人間の個性も魂も奪ってしまう。そういう規格品をつくることが権力者サイドの計画だったりする。みんなが自由に振る舞うと、押さえつけるのが大変だからだ。なので、はみ出すと叱ったり否定したりして人の意欲や喜びを奪い去る。

 

 ゴッホゴーギャンアンリ・ルソーセザンヌなどについてこう書かれている。

つまり十八世紀までは、絵がものすごくうまいことが絵かきになる絶対条件だった。ところが十九世紀の終わりごろになると、下手くそでも素人でも、真に芸術的な素質と感動があれば、りっぱな天才画家になれるようになりました。しかしこの時代には、まだ一般市民たちは、それらの天才を認めるほど進んではいなかったのです。そのために、彼らに悲劇的な運命をたどらせる結果になったのです。

(P174)

 

 おひさまも花も家も、描き方が決まっていて、その型どおりに描かれた絵を学校の先生は高く評価する。そして家では親がその評価をうのみにしてしまう。子どもたちは、こういうものを描けば無難なんだナと思って、いつでも便利な符丁でツジツマを合わせるようになる。岡本はそう述べたあと、次のように書いている。これはまったく今に通ずる見解だ。

自分自身の喜びや確信から出発しないで、便利な型やポーズだけを利用する習慣を身につけてしまうと、おとなになってからも、ほんとうに思っていることを発表することは、世渡りに都合がわるいから、そっちのけにしてしまいます。そして世間の通り相場だけを使いわける、不明朗でけちくさい人間になってしまうのです。

 ふだん、ひとが触れあう場所の、いたるところに、その型が見られます。

(略)

この通り一ぺん、型だけの人間関係のなかで、人はただ符丁として生きているという感じにおちいる、いわゆる常識人の悲劇ですが、すでに幼稚園とか小学校とかいう、りっぱな組織によって、こんなみじめな根性の芽を培っているのです。

(P234〜235)

 

 符丁として生きられない人、押し付けられる型について疑問を持ってしまう人たちが、自由に生きることのできる社会、世界になっていくまで、岡本太郎のこの本は主張しつづけてくれるだろう。

私は永遠の課題として提出つづけたいと思います。

 と、岡本太郎自身も書き残している。

 

 絵画(の評価)の歴史も分かるので、ぜひご一読をおすすめします。

岡本太郎