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「スカーレット」〜断りを入れなくていい自由〜

無我夢中になる姿を、第17週では喜美子役の戸田恵梨香が、常軌を逸した表情と姿の演技で見せつけてくれた。

 

「スカーレット」NHK朝ドラ

主演/戸田恵梨香

 

先に投稿した「天才作家の妻 40年目の真実」「メアリーの総て」の記事につながる内容だった。(下にリンク)

 

第98話。

穴窯での焼きがうまくいかない。お金もどんどん出ていく。

夫の八郎は、喜美子にまずは陶芸展で金賞を取って世の中に認めてもらおうと提案する。穴窯はそれから、と。

喜美子は言う。

そんなんいらん。

そんなん必要やったら、陶芸作家川原八郎がつくりました言うて、うちの作品を売ったらええねん。今の喜美子やったら売れん言うなら、もっと誰もがみんなええなぁ言う作品をつくれって言うのが筋ちゃう。なんで名声を手に入れる話なんの。

 「いいかどうかは主観。評価なんか曖昧なもの」

「陶芸の世界はまだまだ男の世界」

八郎は自分の経験からそう諭す。

 

 

第100話。

ついに夫・八郎(松下洸平)が息子を連れて出て行った。

心配してやってきた幼馴染・照子(大島優子)に喜美子は言う。

お金ないからこれを拾いに行ったんや。

朝起きて、今日は薪を拾いに行きますって誰に言う必要もなかった。誰に断り入れんでもよかった。

うち、子どもの頃はおとうちゃんに断り入れてた。やりたいことあったらきちんと話して、お願いします言うてきた。

結婚してからはハチさんに。やりたいことあったらお願いします言うてきた。

そうやってずっと生きてきた。子どものころからずっとや。

それが必要なかってん。

薪を拾いながらな、立ち上がったら冬の風がな、ひゅーと吹いて、そのとき思ってん。ああ、気持ちええなぁ、ひとりも、ええなぁ。そんなこと思うてしまってん。

ハチさんおらんほうがやりたいことできる。

 

喜美子が、八郎に頭を下げて穴窯を続ける許しを得ようとするシーンがこの少し前にあったが、私はいささか違和感を覚えていた。

喜美子のセリフにあるように、喜美子はおとうちゃんに、子どものころからずっと何かをしようとするとき、許しを乞うてきた。許されることはほとんどなく、むしろ父親の男尊女卑的頑固さに従って生きてきた。

ある意味、それが家族と言えば家族なのだろうと私も思う。親の了解なしに何事も勝手にはできないだろう。が、あまりに窮屈な女性の生き方とも言える(女性だけとは限らないが)。

私は占い師なので、似たような相談を受けることも多い。カードを引いたアドバイスはもちろん人それぞれだが、共通に言えることは、親の言うことがいつも正しいとは限らない、ということだ。親は親で、自分の世間体とか権威とかに囚われていることが多い。いくら自分の子どもでも親の所有物ではないのにもかかわらず。

八郎が喜美子に穴窯をやめさせようとしたのも、家族の幸せ、すなわちお金の問題を考えてのことなのだろう、ということは分かる。借金までしてすることではない、と。けれども、芸術家としての喜美子のきらめく才能をそばで感じていたのではなかったのか?と疑問は残る(次週で八郎は、自分は貴美子を女としてしか見ていなかった、と語っている)。

けれども喜美子は言った。「お金がないことに気持ちが負けたらあかん。昔、深(フカ)先生が言うてた」と。

子育て論でもよく言う。子どもに何かを諦めさせようとするときにお金のないことを理由にするな、と。つまり、お金がないからと言ってその子を才能を潰すな、ということだ。

「お金がない」というのは、本当にせよ嘘にせよ、お付き合いや勧誘を断る絶好ワードではあるが、これを多様していると、口癖になって気分もそうなって本当に貧乏になってしまうという恐ろしい引き寄せの法則もあることを覚えておいたほうがいいかもしれない。そして、そういう理由で何かを諦めさせられた子どもは、常に不満足な心持ちを抱いたまま大人になっていく。

 

「ひとりもええな。やりことできる」という、喜美子のセリフに共感した人も多いのではないだろうか。いつも誰かの許しを得てから行動しなければならないという窮屈さ。それは決して、何でもかんでも勝手にやりたい、やっていいのではないか、という願望や提案ではない。

例えば私は、卑近な例で申し訳ないが、結婚して実家を出てから、海外へ行く許しを請わなくても行きたいときに自由に行けることを感じたときは何とも言い難い開放感を感じたのを覚えている。「あれ?誰にも許可してもらわなくていいんだ」と。

「立ち上がったら冬の風がな、ひゅーと吹いて、そのとき思ってん。ああ、気持ちええなぁ、」

この爽快感は、よく表現できていると思う。

 

喜美子はずっと我慢してきた。特に父親の借金と支配に。そしてよき理解者同士だったはずの夫。時代だったり性質だったり、日本社会にいまだはびこる父権的価値観だったり。

どれほど我慢させられても隠しきれない、押し留められない才能というのはあるもので、喜美子もついに爆発したようだ。

 

言及は前後したが、

上で引用した第98話での喜美子のセリフ。

陶芸作家河原八郎がつくりました言うて、うちの作品を売ったらええねん。

「天才作家の妻 40年目の真実」では、妻はそれこそ夫のゴーストライターで、ノーベル文学賞まで授与された。が、妻はついにその授賞式で訪れていたスウェーデンで爆発した。

「メアリーの総て」でも、当初「フランケンシュタイン」は夫の序文とともに匿名で出版された。

出版も男の世界だった。

喜美子は思い余って、自ら匿名、ゴーストを提案した。八郎の名で売ったらいい、と。喜美子は、ガンガンいいものつくって認めてもらおうよ、と夫に言ってほしかったのだろう。男の世界云々ではなく。新しい感覚を夫に求めていたのだし、芸術美の道をともに歩んでほしかったのかもしれない。夫こそ「良き理解者」だと信じていたはずだ。

 

人はひとりで生きているわけではない。だが、喜美子の言うように「ひとりもいい」のである。

いや所詮、人は誰でも「ひとり」なのだ。

ゆえに「自分のほんとう」に嘘をつかず、抑圧されずに生きる道を、女も男も、子どもも大人も歩んでいけるのが平和で穏やかな世界なのだろう。

 

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「スカーレット喜美子と穴窯」©2020kinirobotti

 

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