家庭小説(少女小説)とはつまり、宗教教育や家政教育を含めて、よき家庭婦人を育てるための良妻賢母の製造装置だったわけです。
(「挑発する少女小説」P4)
あ、そうだったんですね。なるほど。
でも私は物語の主人公である少女たちによって、よき家庭婦人よりも「好きなことをしようとがんばっている女の子」のイメージを植え付けられたように思っている。
この書物自体についての感想は気が向いたときにまた書き記すとして、ここでは「老いの哲学〜人生の回収〜」ということで、私自身に引きつけて随想する。
この本で紹介され、評されているのは、
「小公女」「若草物語」「ハイジ」「赤毛のアン」「あしながおじさん」「秘密の花園」「大草原の小さな家」「ふたりのロッテ」「長くつ下のピッピ」の9作品。
「ふたりのロッテ」「長くつ下のピッピ」「秘密の花園」「あしながおじさん」にはあまり夢中になった記憶がない。が、タイトルだけでも馴染みのある児童文学である。
「長くつ下のピッピ」は「大草原の小さな家」同様、NHKでテレビドラマを放送していたと記憶しているが、なぜか観る気が起きなかった。友人がすごく好きだと言っていたのを覚えている。
「秘密の花園」は、「小公子」「小公女」と読んだあとにその流れで母親からすすめられたのだがあまり楽しく読めず、そのせいで読書がストップしてしまったという消化不良の記憶がある。途中でやめて別の本に移っていれば、もっと多くの読書をすることができたかもしれない。
「あしながおじさん」は、おそらくしっかり読んだことがない。大人になってからその内容を知ってちょっと嫌な気分になった。すなわち少女の学費や生活費を出してくれているこの男には下心があったのではないか、と思えたからだ。
「ふたりのロッテ」はアニメか演劇かでちらっと観た記憶があるが、心に留まらないままだった。
「ハイジ」は、まず絵本で知ることになったと思う。アニメもあったので、日本では全く知らないという人はいないだろうというほど有名だが、文学作品としてしっかり読んだことのある人はどのくらいいるのだろう。私は読んでいない。
この作品で特に強調される印象深いシーンは、都会へ行ったハイジが夢遊病になってしまうのと、ペーターの嫉妬と車椅子生活だったクララが歩けるようになるエピソードではないだろうか。
「ハイジ」は、資本主義社会のなかでの成長物語だと、斎藤美奈子は言う。ここでは詳しく言及しないが、この視点での解説がなかなか興味深い。
物語とともに思い出を辿っていくと、当時の私自身の心の動きがありありと蘇ってくる。私の場合、少女時代に触れた書物(物語)に関する記憶は、母親を伴っている。
「ハイジ」の絵本は母といっしょに読んだし、「小公女」「秘密の花園」は、上述したように母の推薦である。「少年少女世界の名作文学」なる全集を(おそらくは母の要望で)毎月取り寄せていた。そのなかに収録されていたと記憶している。
「若草物語」は、しっかりと小説を読んだことはない。小学生のとき、木馬座の舞台公演に母が連れて行ってくれた。ローリー役が団次郎(現・団時朗)だったのははっきりと覚えている。当時は、草刈正雄と並んで今で言うところのイケメンモデルであり俳優だった。ネットで検索してみると、西崎みどり、山本リンダ、真理アンヌが出演していたようだ。
私の記憶に鮮明に、あるいは衝撃的に残っているのは2つのシーンだ。主人公の次女ジョーが書き溜めた小説をエイミーが燃やしてしまう場面と、ジョーが髪を短く切ってお金(戦地で病気になった父に会うための母の旅費)に変えて帰宅する場面。
ジョーは男の子になりたかった女の子だ、と斎藤は言う。
ジョセフィンを略したジョーという呼び名自体、男性の名前です。少女小説の歴史は皮肉にも、家庭小説の流儀を蹴飛ばす少女からはじまったのでした。
(同上P45)
「家庭小説」を(冒頭の引用に加えて)、斎藤は次のように書いている。
少女小説は、広い意味での児童文学に含まれますが、文学史的には「家庭小説」と呼ばれるジャンルに属します。家庭小説は、家庭を主な活動の場とし、将来的にも家庭人となることを期待された少女のためのジャンルとして発展しました。
(同上P4)
「家庭小説」というジャンルとしては、ジョーは型破りな主人公だったのだ。
私は小学生のころから、この物語の4人姉妹のなかでジョーが一番好きだった。4人姉妹の誰がお気に入りかで、自身の性質診断ができるかもしれない。
「若草物語」が長い年月世界中の少女を魅了してやまないのは、裏のメッセージが隠されているからだと斎藤は言う。
娘たちよ、臆せず男の子のように生きよ。君たちの前に立ちはだかる壁は高く、周りは敵ばかりだが、ひるまずに前を向け。君にはジョーがついている。
(同上P62)
今日風にいえば彼女が望んだのはジェンダー平等で、彼女を悩ませたのは規範に従うことのできない自分の性格だった。
(略)
「おてんば」「ボーイッシュ」という言葉には収まりきれない切実さがそこには含まれています。
(同上P65)
どう表現したら良いだろう。髪を切ってよりボーイッシュになったジョー、小説を書いているジョーに、演劇を鑑賞しながら幼い私は憧れの気持ちを抱いたのだと思う。そしてその気持をずっと抱き続けながら成人していき、そして今に至っている。言葉にしてしまうと単純に聞こえるかもしれないが、この自分のなかに湧いた特別な感情は、私自身をつくりあげている成分となっている。
だがこれは、ジョーに影響されて植え付けられたのか、あるいはもともと自分のなかにあった種がジョーによって刺激されて芽を出したのか。
いずれにせよ小学生のある日、舞台に登場した「若草物語」のジョーという魅力的な人物が私を挑発し、心の奥深くまで浸透して、私の人生の価値観の土台のひとつになったのだろうことは否めない事実だ。そしてそれは、私の人生に功を奏したのかそうではなかったのか、どんな果実をつけたのか……。
いずれにせよ、結果を回収する、成果によって回収されるというよりも、私という人間の血肉となっているものがどこから来たのかを知り得ることが、すなわち人生の回収になっているようだ、と私は思えてきた。「一度きりの大泉の話」もそうである。
「赤毛のアン」は、私が中学生になったとき、新潮文庫から出版されているシリーズを母が買ってくれた。それらが自室の書棚に並べられていた様子を今でもはっきりと覚えている。村岡花子訳だった(2004年の朝ドラ「花子とアン」で村岡花子の生涯が描かれました)。
「赤毛のアン」のアンは「若草物語」のジョーとは全く違う。夢見る女の子。男の子になりたいとは思っていない。孤児の女の子が、ネガティブを意識的にポジティブに変えながら、がんばって明るく元気に生きていく物語。今思えば、ちょっと「キャンディ・キャンディ」っぽいのかも。
アンは、美しいもの、ロマンチックなものが大好きです。換言すれば、彼女は少女趣味の少女、女の子アイデンティティの高い子なのです。
男の子になりたいと公言する「若草物語」のジョーとのいちばんのちがいはそこにあります。
(同上P103)
やっぱり。
ゆえに「若草物語」のジョーへの憧憬的共感を「赤毛のアン」のアンに抱くことはなかった。「赤毛のアン」では、キャラクターではなく海外(文学)への憧れが刺激されたような気がする。
一方で「大草原の小さな家」は「若草物語」と似た感覚を受ける。すなわち、物語の主人公であり作者であるローラのキャラクター。
私は、周囲からちょっとおかしいと思われるほど「大草原の小さな家」が大好きだった。NHKで放送されていたテレビドラマに夢中になった。原作があることを知って私の場合は英語版を購入した。けれども夢中になって読んでいない。いや、ほとんど読んでいない。
兎にも角にも、私はTVシリーズがめちゃめちゃ好きだった。今でも好きです。
ちなみに、今ではテレビの大人気タレントとなった坂上忍が当時、アルバート(インガルス家の養子)の吹き替えを担当していた。
西部開拓時代のアメリカが描かれている貴重なドラマなのだけれども、
近年では人権問題などの観点から批判も提出されています。意外にこれは面倒な作品なのです。
(同上P184)
先住民(インディアン)とローラの神秘的な交流もあるが、
北米開拓史は、白人が先住民の土地と権利を奪う収奪の歴史そのものです。
(同上P205)
新自由主義的、愛国的、保守的思想がベースにある物語だと斎藤は評している。
フロンティア精神はネオリベラリズムと親和性が高いのです。
(同上P207)
確かにそのとおりなのだろうと思う。が、テレビドラマシリーズでは、ローラのとうさんもかあさんも人権意識の高い人物として描かれている。
そして、ときどき気になったのは、けっこう宗教色(キリスト教)が強いな、ということだった。日本のようなキリスト教国ではない国では、ちょっとした伝道的役割も果たしていたかもしれない。私の母などは(母も私といっしょに観ていた)、そういったところが好きではなかったようだ。このシリーズを仕切っていたチャールズ(ローラのとうさん)役のマイケル・ランドンの好みだったのかもしれない、と私は思っている。
背景はさておき、ローラが私のお気に入りだったのは、彼女がボーイッシュな少女だったからだと思う。「若草物語」のジョーへの憧憬と同じだ。
ローラは釣りが大好きだし、とうさんと一緒に狩りに行きたいと思っているし、野球も得意。対照的なのは姉さんのメアリー。お淑やかで青い目の美人で勉強もできる。そんなメアリーに嫉妬すらするローラ。
いわゆる「おてんば」なところが、世間や家庭のルールにとらわれない自由奔放さを体現しているローラの魅力だった。
ちなみに私は釣りも狩りも野球も得意ではないし、やらない。具体的なところではなく、精神性の部分での共感である。それでも、運動が得意で野球なんかガンガンできたらかっこいいな、とは思っていた。私は運動が苦手だったので。
「挑発する少女小説」を読みながら、私の幼い日、若かりし日の思い出、私自身の一部を形作ってきたと思われる影響について確認していた。これって人生の回収だな、と思った。
私のなかには、アン的なものよりも、ジョー的ローラ的なものが、大きな比重で存在してきたことをあらためて知り得た。
ジョーのところでも書いたが、これが果たしてこれらの物語によって私が学んだのか、あるいはもともとあった私のなかの似た要素が刺激されたのか、分からない。けれども、全く何もないところに刺激がやってきてそこから何かが育つはずもないので、やはり同質の種は生来持っていたのだろうと思われる。
挑発されたのが良かったのか悪かったのかは分からない。もっと別の人生もあったのかもしれない。ローラの姉メアリーやジョーの他の姉妹のような、あるいはアンのような。
幼少期から10代のころに読んだり見たり聞いたりした事々は、確実に自分自身をつくりあげている要素となっている。そのことを私たちは忘れていることが多い。
「挑発する少女小説」と「一度きりの大泉の話」は図らずも、私の回収作業の歯車を回してくれた。
きっかけはあちらこちらにある。それに気づくとき自分自身の人生の回収となっていく、そんな体験を余生に取り入れてもいいかもしれない。
私の回収の旅はまだまだ続きそうだ。しかし「人生の回収①」でも書いたように、「なんでも回収されればいいというものでもないし、回収しなければならないというものでもない」ということは繰り返し述べておく。
そして、単に思い出として懐古する行為に留まらず、今の私をつくっている栄養素を知覚することは、楽しいこともあれば、苦痛もある。
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