ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

映画「天使のいる図書館」〜ゆるいファンタジーかと思いきや「ありえたかもしれない」人生の回収〜小芝風花が素晴らしい

 タイトルの「図書館」につられて観た。

 

「天使のいる図書館」2017年日本

監督/ウエダアツシ 脚本/狗飼恭子

出演/小芝風花 横浜流星 森本レオ 香川京子

 

 例えば私が移住を考えるとしたら、広くて大きい魅力的な図書館のある街がいいな、などと思うことがある。

 この映画で使われている図書館がなかなか良い。その様子を観ているだけでも、楽しめる映画だ。この図書館は奈良県にある「広陵町立図書館」。「町立」なのに(なのに、とは失礼かもしれないが)、とても立派なデザインの外観で、館内もけっこう広い。同図書館のサイトによると、カフェのテラス席のような「屋外読書コーナー」や「視聴覚室」なども充実している。「お話の部屋」というちょっとした小部屋が、物語の世界へとファンタジックにいざなってくれる。

 ということで、この映画の舞台は奈良県。主人公の吉井さくら(小芝風花)の実家は神社。余談になるが、小芝は神社に縁がある。この映画のあと「妖怪シェアハウス」(2020年テレビ朝日ドラマ/2022年テレビ朝日ドラマ 映画)で、神社の片隅に妖怪たちと暮らすことになる。

 

 小芝が演じる吉井さくらは、一風変わった女性だ。仕事は図書館司書。人と接するのが苦手なさくらは、たまたま大学で司書の資格を取ったし、この図書館は家から近いからという理由でこの仕事(場)を選んだという。とはいえ、利用者たちとも触れ合わねばならず、ちょっと戸惑っている。

 たぶん、黙々とひとりでできる仕事だろうと思っていたのだろう。さくらの気持ち、なんだか分かる。でも、営業とか店員とか教師とかその他諸々と比較すれば、ずっと孤独になれる仕事なのではないか、と思うのだが。けれども、映画のなかのこの図書館はサービスやイベントも多いようなので、けっこう大変かも。

 さくらは、地元については隅から隅まで知っており、天才的に説明できる。そして、全てを合理的に解釈した内容でコンピュータのように喋る。

 ちょっと思い出したのが、「同期のサクラ(2019年日本テレビ)」の北野サクラ(高畑充希)と「デート〜恋とはどんなものかしら〜(2015年フジテレビ)」の藪下依子(杏)。喋り方も表情も似ている。「同期のサクラ」にいたっては、名前もシンクロ。少し前かがみになって無機質にスラスラと喋る様子も、さくらとサクラは似ている。私は、こういうキャラクターは好きである。高橋源一郎なら「これは、アレだな」(「サンデー毎日」連載)と言いそうだ。

 

 そんな新人司書のさくらが、レファレンスサービスなるものを任される。利用者が欲している本を探して提示する相談員だ。泣ける本を教えてほしいと言われて、拷問の本(西洋拷問器具辞典)を提示したりして先輩司書を呆れさせる一幕も。細かい数字にこだわるなどの様子も含めて、軽い発達障害自閉症なのかなと想像させないでもないが、この映画としてはそちらの設定は全くなさそうだ。あくまでもかなり個性的な人。

 ある日、図書館で2時間以上も同じ場所に座っている老婦人を発見するさくら。そこから物語が展開しはじめる。

 毎日やってくる老婦人・芦高礼子(香川京子)から古い写真を見せられる。そこには若い男女二人が写っていた。さくらはそれらの場所がどこであるかすぐに分かり、礼子を連れて行く。

 礼子を写真の場所に案内する日々が続いたが、ある日ぱったりと礼子が来なくなる。ほどなくしてさくらは、孫の幸介(横浜流星)によって礼子が入院し、余命がわずかであることを知らされる。

 いっしょに写っている男性に礼子は憎まれているのだ、と話していた。孤軍奮闘、写真の秘密を探り出したさくらは、若いころに別れた恋人に会うために礼子は図書館に来ていたのだと理解する。その人物は、図書館でさくらといっしょに働いている嘱託職員の田中草一郎(森本レオ)だった。そして、礼子さんに会って欲しい、とさくらは気持ちをぶつける。

 礼子は、田中の高校の教師だったのだ。

 最後、二人の年老いた元恋人同士は再会し、思い出のつまった古い本を田中は礼子に手渡す。その光景を美しいとつぶやくさくら。

 礼子の死後、祖母が巡った同じ場所を案内していほしいと幸介から頼まれたさくら。

 恋なんて必要ないと言っていたさくらにも、春が訪れた?

 

 さくらが、あれこれと図書館のなかでへんてこなことをする様子が冒頭続くわけだが、礼子の登場で一転してサスペンスの雰囲気が漂う。その謎解きのなかで、堅物なさくらの心が次第にほどけていく。

 礼子は自身の余命を知って田中に会いに来たわけで……と考えると、この物語は実は、さくらの成長物語を装った、結ばれなかった男女の愛の結末の物語、なのだな。

 そしてそこには2つの意味合いがある、と私は思った。

 

 ひとつは、いわゆる「ありえたかもしれない人生」。

 小説はあまり好きではない、特に歴史小説は事実とは違うところが気になってしまうから好きではない、と言うさくらに、「自分の人生を小説にするなら、現実とは違う結末をつくる」と礼子は言う。

 これは、自分の人生に後悔している人が言う言葉だ。そして「現実とは違う結末」とは「ありえたかもしれない人生」。そちらの選択をすることも可能だった。

 礼子は、見合いはしないで僕と結婚してほしいと田中からプロポーズされていたのに、見合い相手と結婚する道を選んだ。ゆえに、礼子は田中に憎まれていると思っている。まあ、生徒と教師だもんね。いくら卒業したからっていっても…というところだろうか。

(そうは言っても、生徒と教師が結婚するという例は少なくない。私の高校時代の政治経済の男性教師は、生徒と結婚していた(ちなみに女子校)。その話はけっこう現生徒たちの噂話になっていたが、授業中に気を利かせた生徒のひとりが尋ねると、先生は二人の恋愛顛末を話してくれて教室はおおいに盛り上がった。確か、思想家の内田樹神戸女学院名誉教授)も、大学の教え子と再婚している)。

 誰にでも「ありえたかもしれない人生」はある。分かれ道での選択。それを私たちは「運命」と呼んだりする。そして、そんな光景を私たちは映画などを通して知ることができるし、人生の晩年にふと自分自身のそれを哲学してみたりする。

 さらに、パラレルワールドにはその別の人生を生きている自分がいる、とも言われている。それもまたSF映画などで体験できる。

 

 もうひとつは「人生の回収」。人生の終りが近づいてくる高齢期に、人はさまざま過去を思い出す。まったくの幸せな気分と満足感に浸れる人はまずいないだろう。そして、やりたかったけどできなかったことをやったり、酷く後悔したり、どうしてもある人に会いたくなったり、謝罪や感謝をしなきゃと思って悶々としたりする。

 この映画の礼子は、昔の恋人に会って謝りたい、と思った。

 新聞の人生相談を見ていると、意外とそういった悩みは多い。初恋の人に最後に一度会っておきたいとか、あのときのあのことをどうしても謝りたいと自己処罰感情に悩まされている人…など。占いでも(私はタロット占い師)ときどきある。ときどきというのは、つまり占いは現状の悩み相談がまずほとんどなので、そうなると思う。

 これへの答えは千差万別で統一された正解はない。加えて、会ったり、手紙を書いたりして確かめようとする行為は極力さけたほうがいい、と私は思っている。人にはその後の人生があり、環境も気持ちも当時とは変化している。映画やテレビドラマや小説のような劇的でハッピーエンドな展開だってあることはあるだろう。だが、数少ないと私は考えている。もし過去の気になっている誰かに接触したいのであれば、最悪の事態を受け止める覚悟をしてから実行したほうがいい。仮に、会った相手が喜んでくれた(ように見えた)としても、その相手が心からそう思っているかどうかは分かりにくい。もしかしたら、自分は満足したとしても、相手は嫌な思いを持ったまま余生を過ごすことになるかもしれない。

「CARPE DIEM(カルペ・ディエム)」。できるだけ「今を生きる」ほうが良いと思う。そして、人生の回収は、自分ひとりでもできる。「今を生き」ていれば、そういった気づきが日々の生活のなかでシンクロしてくるはずだ。

 そしてもし、酷く後悔していることがあるとしたら、それは上書きによって消せる(完璧ではないが)ことを知って、今とこれからを楽しく生きるほうがより良いのではないだろうか。

 

 これは「映画」なので、礼子の「ありえたかもしれない人生」の回収は、ロマンチックに実現した。礼子が書き換えた自分の人生の物語の結末(杉野原に二人で佇む)を実現することができた。

 けれども、田中は、さくらが問い詰めてお願いしたとき、ものすごい剣幕で拒絶したのだ。そこにはいろんな意味が込められていただろう。礼子の言うような憎しみもあったのかもしれない、気恥ずかしさもあったかもしれない、過去の自分の夢(カメラマンになる)が叶っていないことへの自己嫌悪かもしれない、今更そんなことという思いもあるだろう。

 でもやっぱり気がかりだった田中は、あらためて礼子と再会し、そして看取る。

 水を差してしまうと、家族との食事のシーンからすると田中は妻に先立たたれている、礼子も今は独身、という状況ゆえできた。これがふたりとも、あるいはどちらかに配偶者がいる場合には、こういう結末はたぶんあり得ない。

 それよりも、死んだあとに発覚した夫(妻)の浮気にすら苦悩している残された年老いた妻(夫)は多いのである(新聞相談でもよく見かける)から。

 初恋の人に会いにいくことを妻は許してくれるだろうなんて言っている夫もいたが、言語道断である。そういう寛容な人も世界のどこかにはいるかもしれないが、大多数が違うだろう。

 

 映画を批判しているわけではない。

 美しい映画だ。

「ありえたかもしれない人生」と「人生の回収」という意味で、私がこちらで書いているエッセイ「老いの哲学」「60歳からのわがままタロットセラピー」に通じるテーマである。

 

 そして、「天使のいる図書館」というタイトル。これは映画「ベルリン・天使の詩」(1987年 西ドイツ フランス)のオマージュなのだろうか。自分の泣ける映画はこれだと言ってさくらの弟(森永悠希)がこの映画をさくらに渡すシーンがある。

ベルリン・天使の詩」は、人間を見守っている守護天使の物語。どんなに寄り添って気づかせようとしても命を絶ってしまう人間もいることに、天使は自分の非力さを嘆いたりもする。良質の映画だが、私としては特に泣ける感じではなかったが。

 

 さくらは礼子と田中にとって「図書館にいた天使」であり、礼子と田中はさくらにとって「図書館にいた天使」ということになるのではないか。

 明らかに礼子はさくらの天使だった。祖母の死を昇華しきれていなかったさくらのもとに現れた礼子という存在が、さくらにとってのグリーフケアになったのかもしれない。

 

 小芝風花は、2023年4月〜6月に「波よ聞いてくれ」で、超絶早口のパーソナリティーの役を見事に演じきっていたが、すでに「天使のいる図書館」のさくらにその滑舌の良さが見え隠れしている。2023年7月〜9月の「転職の魔王さま」では、ちょっと自信のない気遣いばかりしている女性を演じている。

 さまざまな役をこなせる小芝。これからの活躍がますます楽しみである。

「天使のいる図書館」a la TsuTom ©2023kinirobotti