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『世界は「使われなかった人生」であふれてる』①〜ありえたかもしれない別の人生の自分〜「老いの哲学」と「運命論」

『世界は「使われなかった人生」であふれてる』

沢木耕太郎著/暮しの手帖社

 

これは「暮しの手帖」に連載中の映画評論から三十編を選び、前後に映画にまつわるエッセイを配して一冊にしたものである。

(「あとがき」P285)

 

 人生についての考察や、著者の本領である旅エッセイでもない。映画評論である。が、評論というよりも、映画エッセイと言ったほうがこの書物には合っているような気がする。

 

「使われなかった人生」という本のタイトルに私は食いついた。

 老年のひとつの特性として、思わず知らず過去を振り返ったりしているとき、「あのときこうしていたら、ああしていたらどんな人生になったのだろう」と空想したり悔やんだりすることがあるからだ。高齢者の域に達している人々なら、少なくとも一度は取り憑かれたことのあるイマジネーションではないだろうか。いや、中年でも青少年でも、それはあり得る。

「このタイトルに惹かれて購入したが……映画評だった」という、期待外れだった的な感想を述べている人をネット上にいくらか見かけた。その人たちは「あのときこうしていたらどうなっていただろう」という人生の選択について思いを巡らせたことがあるのかもしれない。

 実は私も、この本についてまこと身勝手な過度の期待を持っていたが、書籍紹介や上記のようなレビューを読むことによって、このエッセイ集が「映画評論」だということを予め知り得ることはできた。映画評論なのか…と分かった時点では、購入する気がいささか失せてしまったのだが、数日を経て、やっぱり買おう、と思った。絶版になっているので古書で。初版は20年も前だ。

 もうひとつの期待は、映画評とはいえこのタイトルである。取り上げている映画を「使われなかった人生」を視点に分析、論じているに違いない、と想像した。

 

「まえがき」の“ような”ひとつ目のエッセイは、私の期待を裏切っていない。

(略)映画広告の欄にこんなキャッチコピーが載っているのが眼に留まった。

《あの時「YES」とこたえていたら、ふたりは、どこにいたのだろう》

(略)

私が『天使のくれた時間』のキャッチコピーに眼を留めたのは、ここにもまた「ありえたかもしれない人生」についての映画があった。と思ったからである。

(P8~9)

 そうそう、これです、私が読みたかったのは。「あのときああしていたら私の人生はどうなったのか」。

 

 このあと、沢木が淀川長治(映画評論家)に「淀川さんから映画を引いたら何が残るのですか」と尋ねたら「わたしから映画を引いたら。教師になりたかった、という夢が残るかな」と答えてくれた、というエピソードを書いている。

 加えて吉永小百合(俳優)にも、対談の折りに「もし、女優になっていなかったらどんな職業についていたと思いますか」と沢木は尋ねたそうだ。すると「学校の先生でしょうか」と吉永は答えたという。姉たちも教師なのでそれが自然だったと思う、と。

ありえたかもしれない教師としての人生について、ふと思いをめぐらす瞬間が何度となくあったに違いない。そうでなければ、私の質問にあのような答えが返ってくるはずがないからだ。

(P11)

「ふと思いをめぐらす瞬間が何度となくあったに違いない」という文言は魅力的だ。私たちの心には、寄せては返す波のように、人生の空想や過去の映像が繰り返し(頻繁ではないが。あまりに頻繁だと精神に大きな負担がかかってしまう)やって来る。人生の空想は「ありえたかもしれない」あるいは「そうありたかった」人生であり、過去の映像は「人生の分岐点」になるような場面とそのときの自分の態度、行動(選択)であることが多いだろう。

 

 沢木が書いているように、淀川にも吉永にもそのようなことはあったかもしれないが、二人ともそれぞれの分野の成功者なので、「ありえたかもしれない別の人生について思いをめぐらす瞬間」は「何度となく」ということはないのではないか、と私は思っている。なぜなら「分岐点で別の道を選んでいたら」という仮定法は、どちらかといえば未練や後悔を感じる心の状態だろうから。すなわち、そちらの道を進んでいたら「今よりもより良い人生」だったのではないか、という現在をネガティブに捉えるような感情が入り混じっていることが多い。逆に、今に満足できている場合は「あのときあっちの道を選んでなくてよかった」と、分岐点での別の道を思い浮かべながら確認するようなこともあるだろう。

 もちろん、その道の第一人者となった淀川にも吉永にも、活躍しながらも不安や疑問が湧いてくるような時、事態だって何度かあったであろう。途中でやめたいと思うことだってあったかもしれない(それはあらゆる職業に共通しているので特別なことではないが)。そんなときふと「教師になっていたら……」と想像することはあっただろう。あるいはそれほど深刻ではなくとも、気晴らしにそんなことを思い浮かべることもあったかもしれないし、沢木がしたように、マスコミのインタビューで尋ねられることはしばしばあったかもしれない。

 それでも、映画評論家と俳優の大御所まで上り詰めた二人なのだから「ありえたかもしれない別の人生」について「あちらの道だったらなぁ〜」と切望の眼差しを向けることはまずなかったのではないか。もちろん、本人たちの内心は分からない。もしかしたら、本当は好きではない仕事をしているのかもしれず、その場合は「仮定の人生」を何度となく空想したかもしれない。

 

どんな人生にも、分岐点となるような出来事がある。それが自分の人生の大きな分岐点となるような出来事であるかどうか、その時点でわかっていることもあれば、かなり時間が経ってはじめてそうだったのかもしれないとわかることもある。しかし、いずれにしても、そのとき、あちらの道ではなく、こちらの道を選んだのでいまの自分があるというような決定的な出来事が存在する。

(P11)

 沢木自身にも、会社員になるか物書きになるかの分岐点のものすごく大きな決断の経験があった。その時点では「物書きになる」という選択肢があったわけではない。選択肢としては、「会社員になるか」「会社員にならないか」(具体的内容は割愛します。機会があればこの本を読んでください)。

 

あちらにはこちらと違うどういう人生があったのだろうかと、時に人は、後悔するというのではなくぼんやり考えることがあるような気がする。それが「ありえたかもしれない人生」への夢なのだ。

(P12)

 世間的には「後悔」的空想(夢)のほうが多いと思う。なぜなら、大半の人間が何かを我慢して生きているからだ。好きなことはできない、それが大人だ、と植え付けられているのが一般庶民なので。ゆえに、ほとんどの日本人が「やりたいこと」を諦めている、と言っても過言ではないかもしれない、と思わざるを得ないような相談事が占いの現場では多い。

 例えば「Bさんと結婚したけど、Aさんと結婚していたらどうなっていただろうか」と空想するのも、おそらくBさんとの結婚(生活)に十分に満足していないから、と考えるほうが合理的だ。もちろん幸せな生活で暇を持て余してふっと考える、あるいは、ただただ単純に若き日の思い出を辿ってみました、ということもあるだろうが。

 

「旅する女 シャーリー・バレンタイン」という映画について考えを巡らせていた沢木に、不意に「使われなかった人生」という言葉が降ってきた、という。バレンタインは、シャーリーが結婚する前の名前、いわゆる旧姓だ。

自分はシャーリー・バレンタインという人生を使い切らなかった。あの若くて、生き生きとしたシャーリー・バレンタインは、使われなかった人生の向こうに消えてしまった。(略)現在の中途半端な安寧に対する疑問が、失われた旧姓というかたちで鋭く浮かび上がってくる。

(略)

誰にも「使われなかった人生」は存在すると言える。たとえば、楽器の好きな若者が、音楽では食っていけないよ、という常識的な意見にしたがってごく普通の会社勤めの道を選び、その楽器と縁遠い生活を送るようになったとき、彼にもやはり「使われなかった人生」があるといえるのだ。

(P14 )

 シャーリーは、結婚によって失われてしまった人生、すなわち若々しく生き生きとしていた自分を思い出して、その時を充足的に生きてこなかったことを後悔している。現在は安寧かもしれないが、おそらく活気がないのだろう。

 楽器好きの若者は、芸術系を目指す人には「あるある」の状況だ。いわゆる夢、やりたいことを経済的理由で諦めたり、そもそも音楽家、画家、作家、歌手や俳優などは堅実な道ではないからと言って諦めさせようとする親や教師、周囲の大人たちが大勢いる。ときに友人たちのなかにさえいる。それは良きアドバイスなのかネガティブなのか、実のところは分からない。

 

 沢木によると「使われなかった人生」と「ありえたかもしれない人生」は似て非なるもの(微妙な違い)、らしい。

「ありえたかもしれない人生」には、もう手の届かない、だから夢を見るしかない遠さがあるが、「使われなかった人生」には、具体的な可能性があったと思われる近さがある。

(P14)

 例えば「あの人と結婚していたら……」というのは「ありえたかもしれない人生」。「シャーリー・バレンタインとして生きていたら……」というのは「ありえたかもしれない人生」であると同時に「使われなかった人生」でもある。シャーリー・バレンタインとして生きることは確実にできたからだ、という。

 これは「運命論」と関連づけることができそうかなと今思っているので、いずれ書きます。書かなかった場合は、うまく考察できなかった、ということでお許しください。

 沢木が選択しなかった会社員としての人生は、「使われなかった人生」ではなく「ありえたかもしれない人生」だ、と沢木は書いている。会社員としての人生を夢想することはあるし、「あの時向こう側へ行ってしまった自分の人生を使わなかった」ことを惜しむ気持ちがないからだ、という。

「使われなかった人生」は、その人が「使わなかった!」と痛切に意識したとき、初めて存在しはじめるものなのだ。

(P15)

 至極哲学的である。

 さらに沢木は、「使われなかった人生」は、もうまったく使えないというのでもないはずだ、と語る。

「ありえたかもしれない人生」は、「天使」が時間を元に戻してでもくれないかぎり、やり直すことはできない。だからこそ、「ありえたかもしれない人生」の夢は甘美なのだ。しかし、「使われなかった人生」は「使わなかった人生」でもある。使わなかったという自覚は、単に後悔したり追憶にふけるだけではなく、いまからでも使ってみようという未来に向けての意志を生む可能性がある。

(P16)

 と書いたあと沢木は、「使われなかった人生」について考える方が、「ありえたかもしれない人生」について夢想するよりもずっと建設的かもしれない、と述べつつ、建設的であることの是非については疑問を投げかけている。

 

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