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「美術の物語」〜すばらしい本

<HNK「あさイチ」で原田マハさんが紹介!>というラベルが本のスリーブに貼られている。

 原田マハはこの本を読み込んで、早稲田大学第二文学部(美術)を受験して合格したということだ。

 

「美術の物語」

エルンスト・H・ゴンブリッチ

河出書房新社

 

 すごく分厚くて大きな本。美術書にはありがちだとは思うが、絵画を鑑賞して楽しむというよりも、まさしく「物語」すなわち文字、文章を丹念に読もうとすると、この大きさと重さには辟易する。もちろん手に持って読むことはできない。机の上に置いて読むにしても、自由に動かせない、というか、姿勢をちょこちょこ動かしながら自由自在に読むことができないので、首と肩がちょっとやばい。前にも書いたが(個人的なことで恐縮だが)、昨年ハードな読書に入り込みすぎて「めまい」を発症したので、読書のときはできるだけ下を向かないよに、ブックスタンドに置いて肩こりの軽減もしつつ読むように注意してきたのだが、それはかなわない。

 

 なぜ、購入したか。スリーブのシール通り、原田マハの「あさイチ」での推薦があったからだ。

 原田マハは小説家でキュレーター。

 漫画家のヤマザキマリと共著で「妄想美術館」を出版している。ゆえに原田マハという作家がいることを知った(私はヤマザキマリのファンである)。有名な小説家なのにそれまで名前すら知らなかった、という私の不勉強さがお恥ずかしい限りではあるが、私は小説をほとんど読まないのでお許し願いたい。

 ところが、昨年WOWOWで放送された(2021年11月〜12月)「いりびとー異邦人ー」が大変おもしろかった。京都を舞台にしたミステリーで、日本の美術界が描かれている。主演の高畑充希も、謎の画家を演じるSUMIREも、非常に魅力的だった。これを視聴しはじめたときには、原作が「原田マハ」だとは気づいていなかった。が、ドラマ視聴の流れのなかで「あれ?この人…」と、ヤマザキマリとの共著者のあの人であると認識して「いりびと」の原作者とつながった次第である。こういったシンクロニシティは、私に新たな知識を与え、次のステージへと連れて行ってくれる文字通りの「意味のある偶然の一致」だ。

 

「美術の物語」が届いたとき、その立派さ加減に驚きながら、とりあえず1ページ目から開いて1ページずつ、文字は読まずに図版だけに目を通した。パラパラめくれるような本ではないし、破損してもいけないと思い、本を膝に置いて丁寧にページを捲っていく。なんとそれだけで30分もかかってしまった。

 

 そして3日後、「はじめに」と「序章」だけ読み終えた。

 とても読みやすい文章で、ペンと頭ではなく魂で書かれているように感じる。すいすいと引き込まれて読みすすめていく。

 読者のことをものすごくよく考えて執筆してくれており、著者は次のようにも書いている。

(略)平易な言葉を使うよう心がけ、なんとしても大げさな表現に走らないように気をつけた。(略)美術史の専門用語をなるべく使わないようにしたからといって、私が読者を「見下している」などと思わないでほしい。読者を美術の世界に導くことを忘れ、「学問的」な言葉を連発して読者を威圧するような人こそ、「見下して話す」雲の上の人ではないだろうか。

(P7)

 美術に限ったことではない。あらゆる世界に「それ」はある。

 例えば、小説や随筆、思想書などの批評でも、批評する者たちの間でいかに自分の批評が優れているかを示すために書いていたり、その批評を読む人たちへ自分の優秀さをひけらかすために書いていたり、ということがあるらしい。ちょうどこの本を読む前に、そのようなことをどこかでちらと読んだので、符号した。まさしく、この本の著者が言うところの「学問的な言葉を連発して読者を威圧するような人こそ見下して話す」人たち、美術や小説やエッセイや哲学の世界へ導くことを忘れたエゴイストな人たちだ。

 私はときどき思う。衒学趣味(学者でも一般読者でも)の批評よりも平易な「感想」でいいんじゃないかな、素直な気持ちを綴れば、と。私は、小泉今日子小林聡美の書評が好きだ。書評家からすれば単なるエッセイなのかもしれないが、ペダンチックな書評よりも私はずっと好きだ。

 

 著者は言う。

私が手助けしたいのは目を開くことであって、舌が回るようにすることではない。

(P37)

 知識をいっぱい詰め込んで、偉そうにペラペラとまくしたてるような人間のために書いているのではない。感じてほしい、そして、敬遠していた作品、知らなかった作品にも興味を持ったり気づきを得たりして、読者の人生に何らかの豊かさをもたらしてくれたら、という思いで書いている、私にはそんな風に聞こえる。

 

 こんなことも言っている。

ところが、いまや「美術」が怪物のようにのさばり、盲目的な崇拝の対象になっている。

(P15)

 私の心を過ぎったは、音楽、いわゆるクラシック音楽の世界だ。あの世界も魑魅魍魎としていると言わざるを得ない雰囲気を漂わせている。テクニック信仰だったり、コンクールの優勝者のみを持て囃したり、ものすごい特別感を漂わせて素人には分からないだろう感を押し出す人々が、ファンにも批評家にも演奏家にもいる。

 クラシック音楽に限らず、あらゆるジャンルにそういった一連の人々はいるのだろうし、ポピュラー音楽の世界も、スポーツや演劇、茶道、華道、書道、陶芸のような世界も同様なのだろうと想像できる。ポピュラー音楽などは、物販も含めていかに莫大に消費させるかが主眼のようだ。

 著者は「美術が怪物のようにのさばり、盲目的な崇拝の対象となっている」と書いているが、絵画につけられる破格の「値段」がふと私の心に浮かぶ。分からないでもないが「盲目的な崇拝」だとすれば、何かが違う、と思わざるを得ない。

 

ある時期、芸術の法則を定式化しようとした芸術家や批評家がいたことは確かだ。

(P35 )

 ここでは、青色というのは後景に使うものだという主張があり、それに抗した画家のエピソードが例としてあげられている。

 誰がどのような理由で決めたのか首を傾げるようなルールが、さまざまな世界にはあったりする。それから外れていると評価の対象にもならない。

 例えば、小中高の読書感想文。これも書き方が決まっているらしい。その書物の内容に沿った自らの体験談を入れて、最後にはこれからは(自分も)これこれこうしようと思いました的な文面を入れると高評価らしいのだ。

 もし、面白くなかったら、面白くないということを800字でも1000字でも書いていいじゃないか。何も学ぶことがなかったらそう書いていいじゃないか。疑問を感じたらそれを書いたっていいじゃないか。課題図書なるものが全て素晴らしく人生のお手本になるものばかりということもないし、なんと言っても人には好みというものがあるわけで、その作者に賛同できない読者だっているはずだ。最高に面白かったら、その気持ちをただただ書きなぐたっていいじゃないか。そう私は思うのだが。ルールがないと点数のつけようがないってのも、嘆かわしいけれどもあるんだろうな。

 最近の幼稚園では、お絵かきのときに、太陽の描き方まで指導したりするところもあるらしい。すなわち、色や形や位置。例えば、太陽を黄色く描くと「太陽は赤いよね」と指導するとか。子供の創造性を奪う行為以外のなにものでもない。

 ゆえに日本人は画一的になるし、そういった世界で生まれ育つからルール通りでない人を排除しようとする。そんなルール、本当はないのに。

 こんなに英語の学習をしているのに英語が喋れない国民なのもそのせいではないか?発音だとか文法だとかを、事細かく指摘する人たちが昔も今もいる。それで萎縮してしまった日本人は、想像するより多いように私は感じている。お陰様で英会話学校、教材、本は大きな商売になる。しかしそれも、世代交代で変化することを期待したい。最近のスポーツ選手などは、海外メディアのインタビューに堂々と英語で受け答えしている。バイリンガルの人もいれば、そうでない人たちもいる。すこし前だったら小うるさい英語教師や学者のような人たちが「あの発音ではだめだ。通じない」と言ってきそうな選手の英語もある。いやいや、ちゃんと通じてます。

 

「美術の物語」の著者は、心の柔らかい人のようだ。評価やルールを押し付けようというのでも、学術的に語ろうというのでもなく、美術の歴史を古代から現代まで「物語」ってくれている。

「盲目的な崇拝」をしないために、怪物とその周辺に威圧されて萎縮しないためにも、この書物は観る力、感じる力、考える力を、ある読者には与え、ある読者には蘇らせてくれるのではないだろうか。

 肉体的にはキツイが、どんどん読みたい気持ちに逆らえない。

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