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グレタ・トゥンベリとお偉いさんたちの関係を「やりすぎ都市伝説」から考えてみた〜異星人と地球人の関係に似ている〜

子どもは怖い、残酷だ、と誰かが言ったり書いたりしているのを見たり聞いたりしたことのある人は多いのではないでしょうか。

いいえ、子どもは怖いわけでも残酷なわけでもありません。ただ正直なだけです。本当のことを言ってしまうだけです。

 

つまり、残酷だとか何とか言っているのは、大人の身勝手な保身なのです。大人たちは、暴かれることをとても恐れているのです。嘘や隠し事が多いからです。

子どもの純真な目に見透かされているような気がして、無意識に逃げたり、無視したり、攻撃したりする大人は意外と多いはずです。当の大人たちは常日頃子どもをバカな存在だと思っていますので、まさか自分が目の前の子どもを怖がっているとは夢にも思っていないのです。何か指摘されれば「バカなことを言うんじゃない」「わかったようなことを言うんじゃない」と怒鳴ったり、吐き捨てたりします。

 

なぜか人間は大人になるとみな、自分のことを子どもよりも偉い存在だと思っているようです。確かに子どもよりも多くのことを経験して知っています。文字も読めるし、計算もできます。お酒も飲めますし、車の運転もできます。選挙権もあります。けれども、だからと言って偉いわけではありません。むしろ心は汚れて、どっぷりと毒され、悪事ばかり考えている大人は大勢います。

そして、子どもからの質問に答えられないと、誤魔化したり、そんなつまらないこと言ってないで勉強しろなどと訳のわからない反応で追い払ったりします。

 

グレタ・トゥンベリは、スウェーデンの高校生(2020年1月時点)。地球の環境破壊を憂えて父親の反対を押し切り、たったひとりで活動を始めました。それが今や世界のティーンエイジャーを動かしています。

その彼女に対して、大人たちは批判や揶揄の言葉を投げかけています。なんと、大統領という地位にある大人たちまで攻撃する始末。とても醜い光景です。

 

2019年12月28日テレビ東京「やりすぎ都市伝説」。

今年もバシャールが登場しました。バシャールとは、エササニという星から地球に来てる異星人(異次元存在)で、アメリカ人のダリル・アンカの肉体を借りて迷える地球人へメッセージを送り続けています。

関暁夫がインタビューしていましたが、ただ単にその状況に興奮しているだけで、がっかりしました。肝心な事を尋ねてほしかった。本当はもっと長く質問しているのだろうけれど、そして、今放送の内容を裏付けるための登場に過ぎないのだろうけれど、としてもです。

それから、当番組の内容は、ヒストリーチャンネルで放送されている「古代の宇宙人」とほぼ全く同じ内容でした。そちらを観ていた視聴者にとっては、たいして新しい情報はなかったのではないか、と推測できます。

 

地球人の成り立ちやその証拠、神という存在と聖書、神話から検討できる異星人の影、など重要な事柄は私自身がこれまでに聞いたり、学んだりしてきた事々とほぼ重なっていました。新しい情報のように言っていますが、これらはもう30年以上前から言われてきたことでもあります。

エデンの園の知恵の実の逸話、蛇すなわち悪魔についての評価の反転については、「悪魔教会」などの主張から私自身、昨年ようやく腑に落ちたところでした。よい情報だったと思います。

これらの事柄は語り尽くせませんし、人間の何たるかを知っていくためにはとても重要ですが、この記事で取り上げようとしているのはグレタ・トゥンベリという環境活動家に関する話題ですので、次に譲ります。(「町山智浩アメリカの今を知るテレビ/悪魔教会」の記事で少し触れています⇒本テキスト末にリンク)

 

地球人が意識の変化、意識上昇を求められていることは、SFやUFO、宇宙人から幽霊まで超常現象を否定している人たちでも、気づき始めていることではないでしょうか。

宇宙存在、すなわち異星人との邂逅は間もなくやってくる、異星人は地球人を見守っているのか観察しているのか、いずれにせよ注視しているのは確かなようです。

このまま地球人が地球を破壊し続けるのであれば、彼らは神の視点から地球人を絶滅させるのもやぶさかではない、恐竜を絶滅させたように。すなわち自分たちが創造したものの失敗作として。

自分を神の視座に置いてみれば、それは決して否定できない行動ではないでしょうか。例えば夏休みの宿題で何かつくっていたとして、思ったようにいかないので改良と修正を加えている途中で、これは破壊して新しいものをつくったほうがいいなと思ってそうしたこと、ありませんか?あるいは癇癪を起こして叩き壊したかもしれません。

今現在の地球の政治と社会システムもそうです。まさかの21世紀になってのこれほどの混乱を私たちは目の当たりにし、そして実体験しています。

全く新しい考え方、価値観を持ってきてシステムの仕組みを立て直さなければならない時に来ている、というのは多くの知識人の語っているところです。これを「ミネルバの梟は迫り来る黄昏どきに飛び立つ(ヘーゲル)」に重ねて解説している報道番組が新年(2020年)にありました。

 

さて、そこで何が起きるか。「ノアの方舟」です。すなわち「宇宙船が迎えに来る」説です。これも、今に始まったことではなく、やはり30年以上前から言われていました。

しかも、乗り込む宇宙船を間違えないように、と聞いたことがあります。区別があるようです。

「やりすぎ都市伝説」では、キューブ型の宇宙船が紹介されていました。見慣れたタイプだなと思っていましたところ、これは「スター・トレック」に出てくる「ボーグキューブ」です。……複雑です。ボーグ船だったら遠慮したいところです。「抵抗は無意味だ」と同化されてしまいますので。

 

今現在、この日本、地球がほとほと嫌になっている人は意外と多いように漏れ伝わってきます。自分がそうではなくても、日本脱出を計画している人、したいけどお金もないし機会もないしできないと嘆いている人など、けっこう周辺にいるはずです。けれども他国も、すでに理想的とは言い難く、どこへ行っても放射能や戦争被害のリスクはつきまとっています。

戦争はなんとか押し留められたとしても、環境破壊は地球規模で留まることなく進んでいます。

 

破壊されそうになっている地球から救ってくれるためなのか、はたまた失敗作となった地球人を殲滅させる前に選別された地球人を迎えにくるためなのか、いずれにせよ異星人の宇宙船がそれこそ「切羽詰まったとき」「黄昏どき」にやってくる救出作戦、それが絶対ないとは言い切れません。

私は、占い師ですのでスピリチュアルも含めて、科学では解明できないことを気のせいだとか有り得ないだとか考えてはいません。一定の懐疑的批判精神を常に忘れることはありませんが、そんな私でも、そういうことはあるかもしれないとなんとなく空想できますし、いやむしろ、地球の現況を眺めるとき「そうあってほしい」「迎えに来てくれ!」とすら思ってしまうのは、息苦しさから脱出したい本能かもしれません。

 

関暁夫は、「人類選別」が鍵となるので、宇宙船に乗り込む人員に選ばれるようにしてほしい、と訴えるわけです。

私は、そこをバシャールに尋ねてほしかったのです。その「人選基準」は何なのか、を。

アセンションブームのときもそうでしたが、様々な発信を総合してその基準らしきものを考え合わせてみると、アセンションした先の世界は悪人だらけ?と私などは思ってしまいました。関がやんわり示唆しているようにみえる事々もそれに近いようにも聞こえます。煽っている雰囲気を感じるからです。だったら、このままのほうがいいや。だって悪人がいなくなるのですから。いわゆるアセンションしなくても、いわゆる宇宙船に乗らなくても、こちらのほうが平和に過ごせそうです。

今現在、いわゆる「偉い」とされている人たちは肩書や財産で定量的に計られています。地位や財産のある人たちもそう自認しているでしょう。ゆえに(特に日本では)貧しい人、困っている人を助けません。自業自得、自己責任という四字熟語をかざして。世界中で、差別社会、階級社会、排他社会が公然と復活しています(そうでない社会が地球で実現したことは有史のなかではないのですが、実現しようと、人類はたいへんな努力を重ねてきたはずです)。

そんな冷酷な人たちがいなくなってくれるのなら、地球に残ったほうが幸せです。

けれども、強欲な人々がいなくなったあとの破壊された地球は自然に元に戻るのでしょうか。人間がつくってしまった科学物質はすぐには無くならないでしょうが、地球にとって有害な人間とその思考がなくなっただけで、おそらくですが、急速に穏やかさを取り戻していくのではないか、と想像できます。戦中戦後、栄養をしっかり取っただけで(食物を変えただけで)病んだ人間の身体がみるみる快復したように。

 

異星人には良い異星人と悪い異星人がいる、とも言われます。宇宙人というと、地球を侵略しにきたんだ、と咄嗟に思う人が大半のようです。UFO動画がテレビで紹介されるとき、そこに撮影者の声が録音されているわけですが、ほとんどの撮影者が、地球が乗っ取られる的なことを、冗談まじりではありましょうが、喋っています。

映画「地球が静止する日」では、異星人が地球人を攻撃しまくります。文明の程度に差がありすぎるので対抗できません。悪い奴らだぁ、やっぱり宇宙人は怖い、と一瞬思うのですが、実はこの異星人は、地球人を欲望にまかせてやりたい放題させておくと宇宙空間に支障をきたす大惨事になってしまうと結論したのです。その他の惑星と宇宙を守るための強欲地球人殲滅計画だったのです。警鐘的な映画でした。

 

善と悪の2種類あるのなら、宇宙船が迎えに来るとき、それは乗ったほうが助かるのか、乗らないほうが助かるのか、どちらが天国でどちらが地獄なのかを見極める感覚を養っておくことが、関が言うところの選民になるためにどうしたらいいかよりも、より魂の平和を保つことができると、私は個人的に考えています。

今現在の地球人が考える選民、優秀の概念は、競争感覚に基づいた極めて地獄的要素の高い自己中心的優越主義だからです。つまり、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に登場するあの「家庭教師の青年と幼い二人の姉弟」の側の人たちではない人たちです。

私が基準にしようと思っているのが、自分自身の感覚とそこにいる面々です。唯物的で傲慢な人たちなのか、精神的で温厚な人たちなのか。例えば私だったら、スーパーボランティアの尾畑さんがいたらそっちへ行きます。

けれども、真実は分からないのです。表面的にはいい人に見えても、その心の奥底が醜い人もいます。これはなかなか人間の目と心には感知しにくい部分もあります。

あるいは、自分の弱点や人間的醜さを自認して反省する心を持っている人は、ときに誤ることはあっても平和で精神性の高い世界へ招かれるかもしれません。

それでも複数の面々を眺めれば、だいたいの見当はつくと思います。善人を装えない人間のほうが多いのですから。

 

地球人の目には他人の心の奥底まで映りませんが、異星人にはお見通しだという話を聞いたことがあります。

異星人の前に出ると、強欲な人や意地悪な人、悪いことばかり考えている人はバレバレなので、とてもその場にはいられず逃げ出してしまうのだそうです。見透かしてくる人の前では、いい人を装うことはできません。悪意を持っている人ほど恐怖を感じるでしょう。

そうだとしますと、エリア51などで異星人と隠密に金儲けにつながるものをつくっているのではないかという説がまことしやかに囁かれていますが、強欲な人たちと異星人はいっしょに居られないのですから、それは有り得ないのではないかな、と今のところ私は想像しています。とはいえ、「スター・トレック」に出てくる貪欲で金儲けのことしか考えていないフェレンギ人のような異星人もいるでしょうから、そちらなのかもしれません。

 

ようやくグレタ・トゥンベリの話に戻ります。

私は、彼女を批判する大人たちがたくさんいるということに驚いています。

もちろん、これまでに少年少女が政治利用された例はいくつもありますし、あのマララ・ユスフザイでさえ利用されているとつぶやく人もいます。

ただ、グレタ・トゥンベリの場合は、ちょっと様子が違います。ブラジルのボルソナ大統領、プーチン大統領トランプ大統領らが、「ガキ」だとか「狂ってる」とか「とても幸せな女の子だね」「自分の感情を抑えろ」など、罵倒や揶揄を公然としているわけです。

 

人は、本当のことを言ってくる誰かを嫌います。怖いからです。悪事や低俗はバレたくないのです。

これは異星人に出会ったときの地球人の「逃げざるを得ない」心境と同じです。彼らはどうやら「見透かされている」ということは無意識でしょうが感じるようです。何を見透かされているのか?自分の「悪意」「狡猾」「強欲」「傲慢」「卑劣」……です。権力や富を手に入れて威張っている人たちです。

グレタ・トゥンベリは国連のスピーチで「恥を知りなさい」と言いました。英語では「How dare you」。なかなか翻訳が難しい表現らしいのですが、「なんてこと」「よくもそんな」という訳が一般的なようです。NHKで「恥を知りなさい」という日本語を使った訳があったようで、私もそのニュースを聞いた記憶があり、耳に残っています。

私はむしろ、意訳すぎだとしても「恥を知りなさい」が、この記事のなかでは適訳に思えます。

上に書きました異星人を前にして「逃げざるを得ない」心境とは、「怖い」からだけではなく「恥ずかしい」からなのです。常日頃どんなに大威張りで生きている人たちでも、異星人の前では威嚇や恫喝が効きませんので「恥ずかしく」なってその場に居られなくなる、らしいのです。いわゆる神様の前に立たされたときの心境と似ているのかもしれません。

天国では地上の価値観が逆転する、と聞いたことのある人も多いことでしょう。ダンテの「神曲」でもそのように描かれています。

「恥ずかしい」という感情は大切な感情だと私は思っています。人間が人間らしくあるために。

自分がしていることを「恥ずかしい」と認識すれば、その悪事をやめることができるはずです。いわゆるイジメやあらゆるハラスメントがそうです。周囲の人々がみないい人だったり道徳心や人権意識の高い人たちばかりだったとき、恥を知るべき人間は悪事を続けていれば浮いた存在になり、恥ずかしくなってしぼんでいくはずです。周りに煽る人がいるから、強制的か自主的かにかかわらず従う人がいるから増長するのです。

ところが、最近は「恥」の感覚を失ってしまった人が多いので、この尊い気持ちを取り戻すこと自体が難しくなってしまっているかもしれません。それでも文明や意識次元の高い存在の前では、自分に恥をかかせる周囲の空気をいかんともしがたく感じ取ることでしょう。

 

グレタ・トゥンベリは言います。

彼らは、自分たちの望まない変化をもたらす若者を恐れている。

ここで言う「彼ら」とは「特権を持っている人々」です。彼女たちの求めること(変化)が実現されると、彼らの持っている特権が奪われることになるのです。ゆえに、そんなことはさせまいとなんとかして排除しようとします。

人類は産業革命以降、金儲けのために自然を破壊し続けてきました。富とそれに伴う優越感を保つことのできる仕組みを巧みに構築してきました。そのなかには、労働者である庶民に欲望を植え付けて消費させるための心理誘導も含まれています。

 

若松英輔はこうツィートしています。

いばっている大人が、いかに弱々しく映るかという見本のような一場面だ。私たちの国でもグレタ・トゥンベリはいないが、いばっていたい人たちは、どこにでもいる。

今年の春、ローマに行った。ある市場にジョルダーノ・ブルーノの像があった。中世で、地動説をはじめとした科学的真理を唱えたために異端者として処刑されたドミニコ会の修道士だ。須賀敦子はこの人物を愛した。彼は罰せられるとき

「真理を前におびえているのはあなたたちの方だ」

と言ったという。

 

渡辺一夫は次のように書いています。

モンテーニュが感じたことは、キリスト教徒であるヨーロッパ人のほうが、アメリカ大陸の土着民たちに比べて、かならずしもキリスト教徒的ではないということでした。

(「ヒューマニズム考」講談社学芸文庫P182「新大陸発見とモンテーニュ」より)

ルネサンス期にいわゆる新大陸に到達した白人たちは、新大陸の先住民たちを野蛮人だとして排斥していきました。

それは何故か?

単純に領土拡大のためだと、私もずっと思ってきました。が、それだけでは、先住民を絶滅に追いやるほどの強力な理由たりえません。

先住民たちの純朴な様子を見て、競争や争いばかりしている自分たちよりもずっと精神性が高いと感じて(分かって)怖くなった、というのが隠れた真実のようです。

占領しに来た白人たちに向かって、先住民はこう言ったそうです。

「平和の民ということだが、それらしい顔つきをしていない。その王様のそのような要求は、お金に困り、手元不如意だからに違いない。ここの土地をわかち与えた人物(ローマ教皇)は、自分のものでもないものを第三者にわけてやろうとするのだから、さぞかし喧嘩好きなおひとで、昔からの所有者と争わせようとするつもりなのだろう」

これをモンテーニュは「幼い人々の片言」と表現しています。そして渡辺は次のように書いています。

この「片言」には、イスパニア人たちの通告が、いかに身がってなものであるかを指摘できるだけの原理的な正しさがあることを、モンテーニュは考えていたにちがいないのであり、モンテーニュは、こうした「片言」に託して、同胞のものの考え方のせまさをついていることにもなります。

(P192)

ヨーロッパ人たちは、原住民たちのことを文明的でない「野蛮人」だと決めつけていました。 

モンテーニュは次のように「エセー」に書き残しています。

彼らは、少しも野蛮なところがなく、我々は、銘々が自分の習慣にないことを野蛮と呼ぶだけのことだと思う。

全くのところ、我々は、自らの住んでいる国の考え方や習慣の実例と観念以外に、真理と道理との基準を持っていないようである。

(略)

ほんとうは、我々が人為的なもので変質させ、一般の秩序から逸脱せしめたものをこそ、むしろ、野蛮と呼ぶべきであろう。

(P184〜185)

 渡辺はこう続けます。

モンテーニュは、いわゆる文明人の思い上がりと、偏見とを明らかについているように考えられます。

(P185)

 

これほど歴史的文明論的に大きな話ではなくとも、似たようなことは私たちの周辺にもあります。

自分の知らないことは無いことにしたりしていませんか?自分の習慣というものは育った環境で(同じ日本人でも)違うものですが、それと同じでないからと言って批判したり、排除したりしていませんか?

あるいは一生懸命勉強している人や、善いことをしている人を冷笑したりしていませんか?自分がしないから、できないからという情けない理由で。

 

グレタ・トゥンベリの行動は、とても大きな勇気を必要とする行動です。嘲笑、揶揄、罵倒する人は次々現れます。現に、大統領にまでディスられているのですから。ただの目立ちたがりだと批判する人たちもいますが、そういう彼らこそが目立ちたくてしかたのない人たちと言っていいでしょう。

主張すること、目立つ行動は批判されがちですから、たいていの人は勇気ある行動を躊躇します。黙って長いものに巻かれながら生きていれば、なんとかご飯は食べていけるでしょうし、上手いこと立ち回れば、少しは裕福になってより美味しいものが食べられて、そうでない人たちに威張ることができるかもしれません。

 

自分が知らないこと、できないことを間違っていると断定する短絡的な思考パターンは、無教養のステレオタイプと言わざるを得ません。

「教養」というのは、知らないことを知ろうとしたり、できないことを理解しようとしたりする心の態度があってこそ身につくものです。

 

「やりすぎ都市伝説」で言われているように、異星人と地球人のハイブリッドが本当にいるとしたら、もしかしたら、グレタ・トゥンベリはそれなのかもしれません。ですが今ところ、そうしたファンタジーは短絡的な弊害をもたらしこそすれ、有意義な得心とはなり得ません。

確かにそのようなこともあるのかもしれません。

が、紀元前の昔から、連綿と続くユマニストたちの地道な活動があるということを、モンテーニュらの著述を通して知るとき、ハイブリッドかどうかなどは、大した意味をなさないとも言えるのではないでしょうか。

「それが人類の未来となんの関係があるのか」です。

ルネサンス期、有名な神学者たちが、議論のための議論にむちゅうになり、あまりに瑣末な論争に終始しているのを見聞した、若い研究者のなかから、「それはキリストとなんの関係があるか。」という問いが出されたということです。

渡辺一夫ヒューマニズム考」P42)

 

宇宙船という助け舟があるとしたら、肩書、経歴、財産の多寡といった定量的価値基準による配点よりも、どれだけ恥ずかしくない行いをしているか、が問われるのだと私は理解し、信じたいと思っています。

その価値観に伴走してもらえば、自ずと感性が磨かれていくことでしょう。さすれば悪は避けることができ、どちらの宇宙船に乗るのか、はたまた乗り込むのか残留するのか、自ら選択できることでしょう。

宇宙感覚の人選から漏れる場合は、意識の成長が間に合わなかったのか、悪人なのか、ということでしょう。

蜘蛛の糸」のようなことはあるかもしれませんが、力づくで他を蹴り落としてたとえ天国の門の前にたどり着いたとしても、閻魔様か神様か仏様か天使かは分かりませんが、判定人の前では嘘はつけませんので、天国は自分の行くところではないと分かった人は自ら別の扉へ向かうことになるでしょう。

 

繰り返しますが、より純真な人間の前で悪態をつく人々は、真実を述べてくるその人物が怖くてたまらないのです。強欲な価値観、横暴な権力、金儲けの手段を奪われることを恐れているからです。

そのことに気づいていて暴れている人は実は少ないのかもしれません。イエス・キリストが言ったとされている十字架上での言葉「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分では分からないのです」かもしれません。

 

しかし地球環境破壊は、まったなしです。

 

バシャールが以前言っていました。

地球人が乗っている列車が2つの路線に分かれていく。

パラレルな地球があって、自分が選んだ地球にいることができる。あなたのいる地球には誰がいますか?

これは「あなたがいる世界はあなたが選んだ世界なのだ」という自分の行いや思いや意識のことを言っているのでしょうが、あえてここで解釈させていただければ「ノアの方舟、お迎えの宇宙船」的なことにつながる、これから起こる出来事なのかもしれません。

 現在、寛容不寛容的分断というものが世界で広がっています。上記の列車のような別離があるとすれば、その分かれ目は人種とか性別、収入、地位、肩書などではなく、善良なる心のレベルなのだろうと推測できます。地球に残されている様々な物語や教訓の数々を垣間見ておぼろげながら見えてくる世界観として。

 

「欲望の資本主義2020」というドキュメンタリー番組が正月にNHKで放送されていました。このシリーズでは、3年ほど前から、行き詰まった世界の解決策を見出そうとする啓蒙的問いかけを視聴者に投げかけています。古今東西の学者が登場します。

ものすごく失礼な物言いかもしれませんが、明らかにA列車に乗るであろう人々とB列車に乗るであろう人々とに分別できる両サイドの意見、学説を紹介しています。まるで価値観が違うことがわかります。

もし宇宙船が迎えに来て、乗船するかどうか選ばされたとしたら、A教授のいるほうに乗ろう、B教授が乗っていたらやめよう、と思うひとつの(ひとりの)目印を見つけました。他にも目印的著名人は数名います(上にあげました尾畑さんもそうです)。

 

いささかファンタジーが先走ってきてしまいましたが、グレタ・トゥンベリとお偉いさん方の関係が異星人と地球人の関係に似ている、と感じた理由は以上のようなことからです。

 

意識のアップデートがありましたらまた書きます。

 

附記①

近頃論争を呼んで話題になっている「女性専用車両」。乗りたくない、と言っている女性たちがいるらしいのです。マナーが悪すぎるなどの理由で。男性側からは逆差別的という声もあがったりしていますが、私は次のツィートに賛同します。

豆みつお

優しい人専用車両作ってほしい。車内全員優しい人。最高。

あなたは「優しい人専用車両」に乗りますか?

私は乗りたいです。

「お迎え宇宙船」原理も、この感覚ではないか、と私は思っています。

⇒詳細は別記事に書きます。

 

附記②

「同期のサクラ」(2019年秋ドラマ日本テレビ

主人公サクラ(高畑充希)がグレタ・トゥンベリと重なります。

社長がサクラに言います。

おまえの言っていることは基本的に正しい。だからこそ、他の人間にとっては厄介なんだ。

つまり、

組織っていうのは問題のあるものが好きじゃないんだ。前例のないものや発想の違うものを否定し拒絶しようとする。

おまえがこれから夢や理想を求めていけばいくほど、そういうヤツらに出会うんだ。

というわけです。

夢や理想によって利権を奪われるであろう人々は、サクラを叩き潰そうとします。その権力者の下で出世を目論んでいる人たちもサクラを叩くでしょう。

要するに、基本的に正しいことを述べる人たちは罵倒され、排除されるということです。何も変えたくない自己保身だけの人たちによって。

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ツトムとUFO ©2020kinirobotti

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