第一三共の社員が盗撮で逮捕された。
第一三共といえば、研究員の男がメタノールを飲ませて妻を殺害したという事件も先ごろあった。
「心よりお詫び申し上げます。コンプライアンス教育を徹底して参ります」と、第一三共は謝罪発表をしている。
「コンプライアンス教育を徹底して…云々」だが、いささか違和感を覚える(これまでにもこういった企業側からのメッセージは多々あったので、第一三共の事件のみを例にあげて申し訳ない、ということは申し添えておく)。
この場合のコンプライアンスは、法令遵守とか倫理教育といった意味なのだろう。よく芸能人が言う「コンプライアンス的に」は、スポンサーに対する(思想的)配慮だったりする。
ものすごく便利に、いかにも知的な風にこのワードを使っているし、ときにはこのカタカナ言葉を使うことでその本質が見えにくくなっている、そんな雰囲気すら私は感じている。あるいはこの表現によって、さらなる批判を免れることができているかのようでもある。
そもそも、盗撮とか殺人は普通の人間なら誰でもが知っている犯罪で、人間としてそもそもやってはいけないことだ。知らずにうっかりやってしまう(かもしれない)特別な規則への違反とは違う。
この「コンプライアンス」を「倫理教育 道徳教育」と理解するとして、会社が社員に、人を殺してはいけません、盗撮はしてはいけないことです、と教えるのだろうか。それとも、警察沙汰やスキャンダルは会社のリスクとなるのでやめてください的なスタイルでの教育なのだろうか。
どの会社も学校も組織も集団も、人が大勢集まれば集まるほど悪いことをする人間の数は増えるものだ。
大なり小なり、悪いことをしたことのない人はいないだろう。そう考えれば、この会社また?会社になにか問題があるんじゃないの?と非難の目を向けてしまうこともあまり良いことではないのかもしれない。それに、すべての犯罪が公平に報道されているわけではないだろうから(さすがに殺人は報道されるか)。
私が違和感を覚えて反応してしまったのは、すなわち倫理道徳教育を徹底します、と会社が言うことのおかしさである。
そんなこと会社で教育することなのか?
盗んではいけません、人を殺してはいけません、と戒律として直接的に教えてもらったことはなくても、幼稚園のころから私たちは親や先生や先輩やメディア、その他社会環境のなかで知っていくものだ。加えて、人によってレベルの差はあるものの、善悪の感覚は生来的に人間の心に備わっているはずだ。
例えばさまざな依存、アルコールやギャンブル、ドラッグについては、その危険性について教える必要があるのかもしれない。あおり運転や自転車の暴走が目立つ昨今では、交通規則もそうだろう。いわゆる各種ハラスメントにも必要だ。どれほど危険か、そして誰かを傷つけることになるのか。
誘惑に負けそうなら社内のカウンセラーに相談しなさい、とかあればいい。最近はどこもあるのかな、定期的なストレスチェックとか。
それでもどれほど手を尽くしたとしても、悪いことをしてしまう人は出てくる。それが今の地球の現状だ。そうでない他の惑星もあるだろうが、そこはそこで地球人には分からない別(次元)の問題があることだろう。
兎にも角にも、盗みとか人を殺めるとかいう犯罪は、いわゆるコンプライアンス的問題として捉える、捉えてもいいものなのだろうか、という疑問。なんかとても変な感じがする。それだけなんですけどね。
It doesn't feel right.