ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

本当は怖くないNo15「悪魔」カード②~アンチテーゼ レジスタンス カウンターカルチャーだった~悪魔とはなんぞや~

承前) 

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エデンの園」と聞いて、どのようなイメージが思い浮かびますか?文字通り「楽園」、ユートピア桃源郷、理想郷……。

子どものころ母に連れて行かれた聖書を学ぶ会か、それとも世界史か何かの授業だったのか、記憶は定かではないのですが、「アダムとイヴは神さまの怒りを買って楽園を追放された。それゆえに人間は、男は労働という苦痛、女は子どもを産むときの苦痛を課されることになった」という知識を得ました。私はそのとき得体の知れない恐怖を感じたのを覚えています。出産も、一生仕事をしなければ生きていけないのも「罰」なんだ、と。

その背景には、「二人は楽園に住んで、苦しみも悩みも悲しみも怒りも痛みもなく楽しく幸せに暮らしていましたが、神様の言い付けを守らなかったので楽園から追い出されました」というストーリーがあります。「言い付け」とは何でしょう。世界中で有名なエピソード「楽園の中央にある木の実は食べてはいけません」というものです。創世記によりますと、ヘビがイヴ(女)を狡猾にそそのかし、「その実を食べても死ぬことはない。目が開け、神のように善悪を知る者になることを知っているから神は食べることを禁じているだ」と教えます。そして、イヴ(女)はその木の実を食べ、さらにアダム(男)にも勧めて食べさせます。すると二人は、自分たちが裸であることに気づいてそれを恥じ、いちじくの葉を腰に巻きます。これが「知恵」の始まり、ということのようです。

 

少し話はずれますが、創世記のこの場面にはなかなか興味深いものがあります(私はキリスト教徒ではないので、あくまでも私の受けた印象です)。神から問い質されたとき、アダム(男)は「女が木から取ってくれて食べた」と女の所為にしています(実際そうなのですが)。イヴ(女)のほうは、ヘビに騙されたと答えます。そもそも創世記には、女は男の一本のあばら骨からつくった、とあります。21世紀の今、男尊女卑や家父長制や差別やモラハラ、DV、セクハラについて考えるとき、人間のはじまりのときからそうだったんだ、と深く思いを致すところです。そのうえ男のほうには、女に勧められたと言って自分の罪を逃れようとする節も見えます。実際勧められたのだけれども、それを選択して食べたのは自分の意志なのですから、往生際が悪いように見えます。だから男は女に自ら溺れて失敗したときに、女の所為だ、とあくまでも女を悪者にするのですね。この話はまた別の機会に。

 

人間は一生労働という苦痛のなかでしか生きていくことができない、というのは今の地球を見渡したとき、その通りの世の中になりました。神様の思い通りにペナルティ課題は進んでいるということでしょうか。

日本でも、少子化問題人生100年や年金が足りない問題から、死ぬまで働いて税金納めろ的政策やらなにやらがあります。24時間働けますか世代の人々からすれば、60歳になったら神様からの罰である労働から解放されて、24時間のんびりゆっくりと毎日幸せに暮らしてそして死んでいこう、というのが人生設計だった人も多いと思います。ところが、現代の老人は足腰丈夫なんだから働け、ということになってしまいました。医療(科学)の発展によって寿命が延び、人間は余生の楽園生活を堪能できるはずだったのですがとんでもない、ペナルティー課題を消化する時間が延長されただけでした。もちろん好きな仕事(労働ではない)なら死ぬまでやっていても何の問題もないと思いますが、大方の人々は何かを我慢して生活費やローンの支払い、税金納付のためだけに労働しています。アメリカの自己啓発セミナーというのも、若い時期に成功して(金儲けして)そういった生活から逃れるための方法を教えてくれようとするものだと言っても過言ではないでしょう。

そう考えますと、賢くなって文明を築くことができたとはいえ人間は、「エデン(楽園)」にいたほうが幸せだったのかもしれません。ただただ神様の言うことを聞いてさえいれば、自分たちが何であるかも分からないままだろうとなんだろうと能天気に暮らせるのですから。そもそも自分たちに知性がないということすら気づかないのですから。気づいたがゆえの辛さというものを経験することはありません。罰ゲームのように生きていかなければならないのなら、苦しみのない世界で神にひれ伏していたほうがずっと楽だし、幸福だったのかもしれません。

そうだとすると、知恵の木の実を食べるように促したキャラクターはやはり「邪悪な者」なのでしょうか。

一方でどうして神様は、食べてはいけないものを楽園の真ん中にわざわざ植えたのでしょう、という疑問も残ります。神様の好物だからでしょうか。単なる景観を美しく整えるためですか?それとも試しているのでしょうか?人間はいつも試されています。何を?信仰です。聖書には「ヨブの物語」があります。「No5神官」カードには「試練」という意味もあります。人間はいつまで試されるのでしょう?「十戒」も「五戒」も実践できてない(人を殺すし怨むし嫉妬するし騙すし、盗むし、悪口を言うし、嘘もつく)のですから、気が遠くなります。

ヘビ(悪魔)のお蔭で、イヴとアダムは自分たちが裸であることを知りました。現実の世界でも、知恵、知性が足りないがゆえに、裸の王様になってしまう人は意外と多くいます。本当の楽園は、無明のなかで誰かに隷従するのではなく、真善美という知性のベクトルのなかで、人々が互いに譲り合い、尊重し合い、認識し合っているユートピアなのかもしれません。神様はそこまで計画済みだったのでしょうか。もしイヴがヘビに誘導されないで能天気に幸せそうにしていたら、神様は逆にその不甲斐無さに落胆してしまったというストーリーもあったでしょうか。

 

キリストが砂漠で修業しているとき悪魔が来て誘惑した、というエピソードが聖書にあります。釈迦にも同様のエピソードがあります。悟りを開こうと瞑想しているときに、魔物が姿を現してゴーダマを誘惑します。が、見事にそれらに打ち勝って、悟りを開きます。

「サタニック・テンプル」では、それをこう言っています。「砂漠でそんなに苦行してもしょうがいないよ」と知らせただけにすぎない、と。

これもたいへん興味深い視点です。

「苦行」というものをありがたがる傾向が人間にはあります。宗教的な心性を持っている人は特にそうです。人生には苦あり楽ありは確かです。いいことばかりではないのは皆知っています。むしろ辛いことのほうが多いです(ゆえに、罰なのかもしれません)。釈迦も言っています「生老病死」「四苦八苦」と。

けれでも「そんなことしててもしょうがないじゃん」は、もしかしたら新たな悟りの心境とも言えます。「苦」というものを売りにカルト教団の勧誘があったりもしますから。「苦行信仰」には尊いイメージもありますが私自身もいささか疑問を持っており、「それって何か意味あるんですか?」と思わざるを得ないことも尊いと紹介されている修行というもののなかに、多々見かけます(不敬かもしれませんが)。

「悪魔カード」が教えてくれる「悪魔」への対処方法のなかに「ユーモア」というものがあります。笑い飛ばす、ということです。そんなのたいしたことじゃないよとうっちゃることが、悪魔退治の最良の手段だ、と。

一方で、本気で恐ろしい「悪魔の誘惑」というものは実際あります。それは別のテキストで書きます。

 

アンチテーゼ、レジスタンスという視点から「悪魔カード」を眺めたとき、悪魔と言われている存在は単なる「悪なる存在」なのではなく、「悪魔」と「神官」カードが示している神と言われる存在の「束縛」から逃れる、実は自由を求める存在だったのだ、という独特な姿が浮かび上がってきます。

知恵の実を食べて覚醒してその場を離れるという構図は、あらゆる社会的シーンで、それしかない、そこしかない、と思わされている、思い込んでいる人が、何らかのきっかけで、あるいは一定の見識を得て、そこに留まり続ける必要はないんだ、別の場所があるんだ、という極めて健全な開眼の末の行動にあてはめることができます。もし神様が知恵の木の実を食べてしまったのは許そうと言って二人の人間を楽園に留めておいたとしても、いったん得た知性は、必ずや「神様それ違うんじゃないですか」的な意見や反論を感じたり言ったりして、追い出される前に自発的に出て行ったかもしれません。もしかしたら神様は、支配的な言動で二人を引き留めようしたかもしれません。そうなるともはや、悪魔か天使か問題になってしまいますが。

「ベルリン天使の詩」(1987/仏・西独/ヴィム・ヴェンダース監督)という映画があります。映像も内容もいささか難解で、その上「天使」というタイトルに惹かれて観たところ、天使たちがおっさんで全然美しくなくて想像していたのと違うと、もしかしたら途中で観るのを止めた人もいるのではないかとすら思うほどの、予備知識がないと理解に苦しむ映画です。さらに、この天使たちはどうやら無力、らしいのです。

この映画には裏設定(監督が役者やスタッフに配った覚書)がある。

この天使たちは困っている人の肩を抱いてあげることしかできない。

けれども、天使というのはそんな無力な存在なのか?

第二次世界大戦が終わったときに、神様が人間にあきれかえって地球を見守るのをやめた。人間と神の間にいる天使たちが、人間たちはまだやり直せるはずだから見捨てないでくれと、神に反抗した。すると神様が反抗するとはなにごとだと怒って、地球の一番最悪の場所であるベルリンに天使たちを幽閉、監禁した。つまりベルリンは神に反抗した天使たちの刑務所。そして罰として、天使たちは本来あった人間たちを救うという能力を奪われている。つらくて苦しんでいる天使たち。

町山智浩映画解説より)

ここでも天使たちはレジスタンス、カウンターのように見えます。

人間たちが諦められてしまうという設定は、「地球が静止する日」(2008/アメリカ/スコット・デリクソン監督)でも描かれていました。ここでは神ではなく、異星人でしたが、地球に派遣された異星人(キアヌ・リーブス)は、クライマックスシーンで、私たちにやり直すチャンスをくれと懇願する人間を助けるというある種の派遣命令へのカウンターでした。

 

私たちは、支配者層、社会、学校、家庭から知らされていないことは多々あります。降りてきた情報を信じて行動し、消費し、生活しています。それで苦しんでいることもあります。苦しいのが人生だなどと思わされている場合もあります。「知恵の実」は、そうじゃないよ、ということを知るための魔法の薬だったのかもしれません。それは地上では、学習、情報、読書、探究、思索です。

市井の人々は昔、聖書を母国語で読むことができませんでした。それこそ僧侶を仲介してのみ市民は神と通じることになっていたので、それをいいことにやりたい放題をした教会や修道院は腐敗していきました。ルネサンスと言われる時代に宗教改革が起こり、聖書はドイツ語やフランス語に翻訳され、市民は直接聖書に書かれた言葉を知ることができるようになりました。

 

ルシフェル(ルシファー)はサタンが天使だったときの名前と言われています。

ルシフェルはミカエルと並ぶとても優秀な天使でしたが、あるとき神に謀反を起こしてしまいました。絶対服従を求める神はルシフェルを天から落としてしまいました。絶望の底で神への復讐を誓ってサタンとして地獄に君臨することとなりました。

「天国の奴隷であるより地獄の主人であるほうがいい」とルシフェルは言ったそうです。(ミルトン「失楽園」)

「地獄」というワードがおぞましいので、地獄の主人、王などと言われるとぞっとするというのが正直なところだと思います。が、隷従状態から逃れて自由になることは何より大事なことで、自分の心の主人は自分であって、誰にも権威を譲らないことが人生や社会の理想の姿なのではないか、という解釈もできます。神に服する場所が天国と呼ばれるのなら神に服さない世界は地上であり地獄、そしてそこでは別のおぞましい存在たちが隷従を強いてくるという世界はマトリョーシカのように多重構造になっているのでしょうか。

 

悪魔の抵抗その根底にあるのは、「サタニック・テンプル」の創始者のひとりルシアン・グリーブスが言うように

「多様な考えが共存し、尊重することが私たちのメッセージです」

なのだと思います。

「ルシアンさんは、反逆者としての誇りとしてルシファーを崇拝しているのだ」と町山は感想を述べています。 

へヴィ・メタルが悪魔に例えられることもあり、アメリカではサタニック・パニックなる悲劇的事件も音楽を通じて起きました。へヴィメタには行き過ぎたきらいもありますが、いわゆる「ロック」の精神が、ルシフェルに通じるものなのかもしれません。

 

「悪魔教」なんておぞましいと私自身ずっと思っていました。どちらかというと呪術のイメージしかありませんでした。

「No15悪魔」は、神だろうと、宗教的指導者だろうと、大統領だろうと、社会だろうと、会社だろうと、上司だろうと、学校だろうと、教師だろうと、親だろうと、何だろうとあらゆる権威や支配に屈しないレジスタンス、カウンターカルチャーとしての精神を強く問い掛けてくるアンチテーゼカードでもあるのだ、という新たな視点を町山智浩のレポートによって得ることができました。

失楽園」「楽園追放」は、知恵と自由を獲得するための大脱走だったようです。

「○○ファースト」や嘘、恫喝や忖度から自発的隷従まで、自分勝手と呪縛がまかり通ってしまっている昨今の人間社会では、自由を求めるカウンターカルチャーとしての健全な「悪魔」パワーが必要とされているのかもしれません。

「悪魔」カードの「悪魔」の額には五芒星やサードアイ(第三の目)が描かれています。これは「あらゆるものを見通す知力」のシンボルです。ゆえに、その「お見通しの力」が悪に使われるときの恐怖を人間は恐れるのです。

 

ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル(著書「なぜ世界は存在しないのか」)は、次のように述べています。

Facebookは、純粋なプラットフォームのように見えますが、コンテンツを制御するよりもはるかに強力な全体主義的な戦略です」

 (clarin.com)

そして、こうも述べています。

「“正確”な科学は、人文科学なしでは自分自身を守ることはできません。その役割の正当性は人文科学に由来している(略)、正確な科学から人文科学へ攻撃する者は、その攻撃で自分たちを破壊します。知識の順序を正当化することができるのは人文科学です。哲学は物理学を置き換えるものではありませんが、哲学がなければ物理学は続けることができません」

 

①のテキストにありますように、最後は、

「言葉で書かれた掟よりも良心を信じよう」

ということに落ち着くのだと思います。良心が正確に育っていることが前提ですが。

 

 

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