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人生の回収 番外編〜このシンクロニシティを読み解けない〜知人の出世とドラクエ〜「老い」の哲学〈+α〉

『「老い」の哲学〈+α〉人生の回収』を書いていたら、なんともどう解釈したらよいのか分からない出来事にぶち当たってしまった。

 これはいったいなんなんだろう?

 

 具体的に書くことはできない。なぜならあまりにもリアルで多くの日本人が知り得ているであろう人物のことだからである。その人がそういった著名人になっていなければ、そもそも2021年の私の目に留まることはなかった。

 その人物に初めて会ったのは35年ほども前のことである。上に、著名人になっていなければ、と書いたが、若いときからすでにごく普通の庶民ではなかったということは付け加えておく。

 

 さて、この私の人生のなかのほんの一瞬の過去の小さな点と現在に起きたこの気づきの点は、線になるのだろうか。それは今の私に何を伝えようとしているのだろうか。あまりに長い時を経てやってきたシンクロニシティ。ドラマの伏線だったら「30年後 Thirty years later」などと字幕が出そうだ。シンクロニシティというよりも「布置」と言ったほうがいいのだろうか。あるいは「天の配剤」?

 

 もし、35年前のあの日の巡り合わせが、35年後の巡り合わせ(一方的だが)の伏線だとしたら、35年前のあの日にすでに、35年後にこの出来事が起こることは決まっていたことになりはしないか?そう思ったらぞっとした。占い師なのに。

 いや、それほどインパクトの強い出来事と言わせてください。看過しようと思えばできるが、そうできないほどの神秘性が漂っている、と身勝手に感じているので。

「運命は決まっているわけではなく変えていける」と言われてはいる。けれどもこんなに細かいところまで配置されているのだとしたら?なかなか手ごわい。というか、すごすぎやしないか?なんだかクエスチョンマークを書かずにはいられない。

 

 縦横無尽に張り巡らされた人生の織物の糸は計り知れない、ということは私だって分かっている。いや、これほど衝撃的で奇妙なシンクロニシティを体感してしまうと、実はどれほど十分に理解していたのだろうか、と自身を疑わないでもない(この回りくどい言い方に私の戸惑いは凝縮されている)。

 

 萩尾望都の「一度きりの大泉の話」を読んだときに受けた強烈な、実は私の人生をずっと貫いていた事々に気付かされたとき、そのときと同列の衝撃の激しさである。

 

 シンクロニシティというのは、ユングが提唱した概念で「意味のある偶然」「共時性」と訳されている。

 平易に言うと「虫の知らせ」とか「噂をすれば影」といったような現象だ。

 あるいは、何か答えを探していたりしたときに、肯定否定あるいはヒントになることが例えばテレビのなかから聞こえてきたり、街角や本屋、ネットで見つけたりする。そんな経験は、おそらく誰にでもあるだろう。

 それが頻繁に起こるかどうかは本人の気づき具合によるので、起きやすい人と起きにくい人がいるわけではない。シンクロニシティに敏感に気づいていくと、その回数は増える、とも言われているが、それもおそらくは増えたわけではなく、起きていることに気づき易くなったということなのだろう、と私は思っている。いずれにせよ、気づくことが増えれば活用する機会も多くなる。

 

 私の場合、昨年あたりからシンクロニシティ、布置的出来事に気づく回数が増えており、「人生の回収」について考えざるを得ない。

「お片付け&処分」のテキストで書いたが、ソファー探しに苦労していたとき、私がツィッターをフォローしているある社会活動家(一般社団法人代表)が「ソファー買いました」とつぶやいているのが目に飛び込んできて、あ、これだ!と思って、その情報を素直に受けとめて購入を決めたのも、シンクロニシティだ。今はそのソファーにとても満足している。

 そのような、気づいて容易に素早く行動に移せるシンクロニシティではなく、今私が「?」の状態に陥っている不可思議な世界は、過去のあそこに置かれたものが今現在の私に蘇った、そんな状況なのである。

 これについて誰か説明してくれやしないかとネット検索をしてみるも、芳しい記述はな見当たらない。似たような体験をしている人はそれなりにいるとは思うのだが……。

 偶然と言うにはあまりに出来すぎていて「天(神)のいたずら」とでも結論づけたいところでもある。けれども、いたずらだったとして、じゃあその目的は何なのか?単に「いたずらでした。ごめんなさい」では済まされないほど見事で巧妙な符号だ。

 

 いろいろと思いを巡らせながらこの摩訶不思議な現象についての意味を探し、カードを引いてみたりもするがあまりピンとこない。「そういうことか!」に辿り着かない。

 若松英輔の1年ほど前のツィートは次のように言っている。

自分を慰めてくれる言葉を見つけられないなら、自分を励ましてくれる言葉を必要としているのなら、自分の、ほんとうの居場所を照らす一語にまだ、出会っていない、そう感じているなら、もうどこかを探すのは止めて、自分で書けばよい。人は誰も自分を救う言葉を、自分のなかに宿しているのである。

 そうか、だったら外に解答を見つけられないのだから、探すのを止めて、誰かの言葉を頼りにせずに書いてみようと励まされ、今書いているのである。

 

 私がかなり引っ掛かっているのは、その人物(これからAさんと呼びます)の名前を私が35年経った今も明瞭に覚えていたということだ。当時、Aさんよりもずっと親しい人はたくさんいたのに、そしてその人たちの名前はほとんど忘れてしまっているのに。

 しかも、Aさんが今回登場してきたとき、この人どんな人なんだろうとふと興味を抱いて検索までした。へーすごい人なんだなぁ、と思いつつパソコンの画面に目を通していると「旧姓〇〇」という文字が目に飛び込んで来るや否や、なんと35年前の〇〇〇〇さんという名前と人物が即座に脳裏に浮かび上がってきた。「え?この人、あの人?」と自分の記憶に問いながら、別の方法で検索をしたところ、やっぱり「Aさんはその人」だった。そしてたぶん、今のAさんは当時のAさんと同じ目をしている。容貌はすでに中年だが、目はなんとなく知っている目だった。目の印象というのは、記憶のどこかに残るものなんだな。

 とは言っても、私とAさんの接点はほんの一瞬なのだ。たぶん2回しか会っていない。それもほんの数分。仕事場で紹介された時と、その数日後にイベント会場で。つまりAさんはイベント会場へわざわざ足を運んでくださったのだった。社長の奥様に挨拶がしたかったようで、私に声を掛けてくれた。奥様はイベント会場には来ておられない、とお伝えした。Aさんはこれから大学で授業なのでここで失礼します、と言って(理由は記憶違いかもしれないが)その場を離れた。そして私は、社に戻ってから、奥様に〇〇〇〇さんがお見えになりました、とお伝えした。この伝言によってAさんのフルネームが私の記憶に残ることとなったのかもしれない。

 それだけではなく、この35年の間、なぜかときどきこの時のことをふと脈略なく思い出すことが繰り返されていたと思う。イベント会場でAさんに会ったときの情景と、「〇〇〇〇さんがお見えになりました」という自分のセリフ。なんだか「ツイン・ピークス」みたいだ。

 

 当時のことを思い出すと、Aさんが私に声を掛けてくれたその行為が、なんだかとても嬉しかった。こんな下っ端の私を覚えてくれていて、そして頼ってくれた。今そのことに思いを致すと、当時よりももっと心が温かくなってジンとする。そしてAさんはとても上品で良い人だったと思う。なんだかお友だちになれそうな雰囲気だった。その後、再会することはなかったが。

 この記憶に布置の意味を見い出すなら「どこかで誰かが必ず見てくれているよ」かな?それほど2021年の私の心が温かくなったので。

 

 さてさて、この原稿をすこし眠らせていたところ、Aさんのあまりポジティブではない2〜3年前の映像を見てしまった(不倫とか犯罪とかではないですよ)。あんなに上品だった人が、あのパフォーマンスかぁ……。仕事の一環だということは十分に理解できるし、それは上から指示された役割で本人的には不本意なのかもしれない。

 あるいは慣習的に出世には欠かせない立ち回りなのだろか、と考えるとやっぱり上の役職に尽きたいという野心はあるのかな、とも考える。けれどもそうした野心があるとしても、いつからそれを身に付けたのか。おそらくはこの職業についてからなのだろうが、環境事情をひとつの情報として考え合わせると、Aさんがこの職業につくこととなったのは、周囲の策略と懇願が大きな部分を占めているのだろうなと想像できるので、ある程度の洗脳的な学習によるところは大きいのだろうと憶測する。

 正直なところ、いささか神秘性が消え失せた。神秘性には、なんと言いますかロマンがあるものなのだが。いや、これはこれでロマンなのかもしれない。

 

 35年という歳月は、残酷なものでもあるようだ。私自身しかり。

 このシンクロニシティによって、私自身のこれまでをあらためて蘇らせることができた。そして、この布置の意味についてカードに問いかけたときのそのカードの意味が生きてくることとなった。今回のこの出来事のなかにさまざま符号を探していくと、さらにそれが力強く浮き上がってきた。詳細を述べることは控えるが、タロットカードの助言も借りて、ある程度の読み解きができた(かもしれない)。

 

「時空をこえた人とのカルマの解消」

「新しい次元にジャンプする」

「古いものが終わり、新しいことが始まる」

「古い記憶、知恵が蘇る」

「過去への執着が妨害や無気力の原因となる」

 完結にまとめるとだいたいこのようなことになるだろうか。

 

 私はこう理解した。

「カルマは解消されたので、新しい人生を勇気をもってはじめなさい」

 私たちは多かれ少なかれ、過去への後悔や罪悪感を持っているものだ。それは人生の年月のなかでの埋め合わせを経て、少しずつかもしれないが癒やされていく。私も心に引っ掛かっているものがいくつかあり、それらは記憶に深く刻まれていて解消しきれないものなんだろうと思っているものもある。霊界の入り口ではそれらは許されないことなのかもしれないが、現世では、この辺りで断ち切ることを許すし、そうしないといけないよ、と突きつけられたということかもしれない。

 一方で、古いものは捨て去るが、古典は私を助ける。

 解消とは言っても、ここまでの自身の人生の出来事が私という人間をつくりあげていることは揺るがせない事実なのであるから、それら血肉になってくれた物事を大切に扱いなさいよ、というメッセージも読み取れた。

 

 私は、Aさんが今ついている職業に私自身もつきたいと思っていた時期もあった。けれどもそれは叶わなかった。自分から拒否したという経緯でもあった。「ヤマザキマリ流人生」の読書とそれに伴う「私自身の人生の回収」でも述べたが、私がその職業についていたとしてもあまり良くない結果を招いたのかもしれない、と私の性格を考慮したときに思わざるを得ない。けれどもそのことによって一歩踏み出す勇気というものを出すことができずにここまで来たとも言える。

 占い師への道はわりと思い通りに開けたということは、ここではいささかの勇気を出すことができたようだ。上記のAさんやヤマザキマリのような道は、憧れているとはいえ、違っていたのだろう。それとも勇気が足りなかっただけか?いや、勇気が足りないということは、すなわち「そういうこと」なのだろうと判断する。

 

 そしてまたこの流れのなかで、「すぎやまこういちが亡くっていた」ということが報じられた。

 ちょうど「ドラゴンクエスト」がゲーム界に登場したのも35年前。Aさんが私の人生の道に登場して来たときと符号する。それを勘案すると、Aさんの出来事とドラクエは素直に紐付けることができる。同じ時期の光景のなかに存在している。

ドラゴンクエストⅠ」を購入したときの記憶も鮮明だ。知り合いが面白いゲームがあるよと教えてくれた。話を聞くとなんだか摩訶不思議なゲームだ。ロールプレイングゲームというものに馴染みがなかった。その情報を得たその日だったかどうかは定かではないが、仕事からの帰路におそらく量販店へ立ち寄った。店名は覚えていない。当時はテレビゲームが大人気で、大型店舗の前に出店のようなものを出してそこでたくさんのゲームが売られていた。

 そこで大きな声を出して元気に商売をしているおにいさんに、「ドラゴンクエストありますか?」と私は尋ねた。すると店員のおにいさんは「あるよ!」と応答してすぐに取り出して売ってくれた。

 私はなぜかこの時のことが、Aさんとのことと同じように、この35年の間「ツイン・ピークス」みたいに繰り返し記憶に浮かんでは消えてきた。

 欲しいときにすぐに手に入っていた「ドラゴンクエスト」も、おそらく「Ⅲ」くらいから、手に入りにくくなった。だからなのか、「あるよ!」と元気に肯定してくれて在庫があって欲しいものがすぐに手に入ったときの爽快さが、良き思い出として残っている。予約したり並んだりしなればならない、いや、予約しても並んでも手に入らないことがある昨今は、不満足を長く心に留められてしまうという精神衛生上良くない気配が、個々人のみならず社会全体に漂っているように感じる。もちろん「Ⅰ」のときには、「ドラゴンクエスト」の知名度も人気もまだまだこれから、というときだった。

 

 思い出の説明が長くなったが、要するに「すぎやまこういち死亡のニュース」もまた、私のなかの「古いものの死」「過去への執着との決別」を意味するのだな、と解釈できた。

 また、過去を「断ち切る」という意味では、ドラゴンクエストに登場する「剣」も一役買ってくれている、と言えそうだ。

 

 この記事は、まとまった内容からは程遠いかもしれないが、同じような体験をした読者もいることと思う。少しはお役に立てただろうか。シンクロニシティというのは、個性が際立つものなので、他人の経験を知ってもあまりピンとくることは少ないかもしれないが、それでも思考の過程が少しでもお役に立てれば幸いです。

 

 この出来事についての読み解きは、ここで終わるのではなく、おそらくこれからも続いていくだろう。解釈はひとつではないはずだし、今は気づかないこともあるだろう。

 健康や病気に関することかもしれないが、今はじゃあそれをどうしたらいいのかは思いつかない。精密検査でもするのかな?

 

 シンクロニシティというのは、本人が「何か意味があるんじゃないか」とあえて思って探るので際立って見えてくる、ということもある。特に重要なことでもないのにもかかわらず、いかにも意味深長であるかのようにして位置づけようとするから、シンクロニシティとして受けとめてしまうのだ、とも言えないこともない。

 それでも、ある出来事に「え?」と感じて、そこに奇妙な符号を見出してしまうことには、何か特別な意味が組み込まれているのではないかと自問自答してみる、自分の人生に尋ねてみる、ということが人生の回収の一環として、何やら意味を持つことになるのではないか、と私は思っている。

 それが人生の(天の)配剤だとしたら……。

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佇むツトム ©2021kinirobotti

 

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