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「お片づけ&処分を振り返る②」貴石と軌跡と奇跡と〜60歳からのわがままタロットセラピー11

60歳からのわがままタロットセラピー

=やりのこさないために=

=ご都合主義シニアのアジール

 

「お片づけ&処分」の作業は「発見の連続」でもあります。

埋もれていた過去が蘇ってくるのは、遺跡発掘にも似たある種の冒険のようなところもあります。そう考えると「No0愚者」「No1魔術師」カードの要素も多分に秘めていると言っても過言ではないでしょう。

「復活」は「死神」カードのおはこではありますが、蘇ってくるためには、そこまでの道のりがあるわけで、その道を歩んでいくには「冒険心」「好奇心」が必要ですし、復活のために必要な「死」すなわち捨て去る「勇気」や「思い切り」も発揮しなければなりません。

発見された数々の掘り出し物が、忘れ去られ、封印されていた個人的な宝物だったりすれば(ほとんどの場合それです)、それは自分の手の内、持ち駒であり、マジシャンのように自分の持てる道具や技をフルに使って、次々と新しい有意義なアイデアを生み出していくことができます。

何もないと思っていた自分の手のなかに、たくさんの貴石(軌跡)がつまっていることをあらためて知ることになる、という奇跡を味わうかもしれません。

それをどう使っていくのか、どう生かしていくのかは、それは自分次第ではあります。気づいただけで終わってしまう、というもったいないことにならないように「自己との対話」を活性化できるよう「No9隠者」カードのエネルギーを借りましょう。

 

極めて個人的な話で申し訳ないのですが、今回の「お片づけ&処分」作業の最中に、ひとつだけ後悔していることを思い出しました。大学時代の講義ノートです。

大学卒業後しばらくは残しておいたはずなのですが。印象深かった教授や講師の講義です。どんな風にノートを取っていたのか、ときどき気にかかっていました。なんとなくどこかにあるんじゃないか、片づけたらどこかから出てくるんじゃないか、と微かな期待をずっと持っていました。その一方で、結婚して実家を出るときにすでに捨てたか、その次の引っ越しで捨てたかな……という微かな記憶もありました。鮮明に残っている記憶は、実家の書棚から取り出してそのノートの行方を考えている自分の姿です。おそらく結婚して家を出るときに荷物の整理をしていたときの姿だと思います。その私は、捨ててしまおうかどうしようかと迷っています。

今回はっきりしたのは、いつの引っ越しのときか、お片づけ作業のときかは不明瞭ですが、いずれにせよ捨てたようだというその微かな記憶は正しかった、ということです。

どんなノートだったのか、ノートの手触り、表紙の色と絵柄も覚えています(実際に出てきたらかなり違う、ということはあるかもしれません)。もちろん講義内容も。それゆえ、ノートを確かめたい、という気持ちが強く残ってしまっているのです。

 

余談になりますが、試験前にノートを貸してほしいと友人に頼まれたことがありました。返してもらうときにこう言われました。「あなたのノートはとても分かりやすい」と。

私としては、その逆だと思っていたので、もしかして悪い冗談を言っているのかな、あまりにきたないノートだったのでからかってるのかなと首をかしげました。いっぱいメモしようと思っているので、文字もノートの取り方も、あまりキレイとは言い難いものだったはずです。ちゃんと読めたのかな、とさえ思っていたのですから。

ノートを貸した友人の褒め言葉の真相は分かりませんが、こんな思い出を残したまま、私の大学時代の講義ノートはすでに跡形もなく消え去っていたのは紛れもない真相です。

ですが、なんとなくいつまでも、それはどこかに潜んでいるのではないかと私の心の片隅はずっと、今でも感じ続けているのです。これは多分、その講義内容が、私の知の一部となっている、血肉となっている、という証拠なのかもしれません。カッコよく言えば、潜んでいるのは私の心のなか、ということになるようです。

 

嬉しい発見もありました。

きっと捨てちゃったな、取っておけばよかったな、と諦めていた「卒業論文」が出てきたのです。下書きです。

当時はまだワープロもパソコンもありませんから、その下書きを原稿用紙に清書したものを提出したわけです。

今でしたら記録がパソコンやタブレットに保存されているでしょうから、自ら消去しない限り残り続けてくれます。

もちろん、記録が破壊されたり、何重にもバックアップを取ってあったとしても、全て閲覧不可能になることだってあるかもしれません。私はコンピューターに精通していないのでよくわかりませんが、例えば復元という作業は、専門家にはできても、素人には簡単にできることではありません。

そう考えますと、確実に残しておくための最良の方法は、極めてアナログです。紙に印刷して現物として保存しておくことです。

フロッピーもCDもメモリーも、あらゆる保存機器の劣化は思ったよりも速い、と最近言われはじめました。紙に書かれたものの劣化はそれに比べると遅い。500年以上前の書き物も残されています。なんだったら、石に刻まれた記録は半永久的に残ります。石板。大英博物館にあるロゼッタストーンはあまりにも有名です。

それに、紙で残っていると、その現物をひと目見ただけでそれが何であるのかが分かります。一目瞭然とはこのことでしょうか。メモリーやコンピューターのなかに入っていると、まず目に入ってくるのはその道具だけです。

さらなる思い出余談をここに記させていただきます。その卒業論文は、指導教授がたいへん褒めてくれたのでした。そして大学院で一緒に研究しようと誘ってくださったのです。

私の卒論をとても褒めていたというのは、貸した講義ノートを褒めてくれた例の友人から聞き知りました。〇〇先生が今年の卒論は〇〇さんと〇〇さんのものがとても良かったと言っていた、と教えてくれたのでした。その二人のうちのひとりが私の名前だったのです。卒論の口頭試問のときに「いっしょに研究しませんか」と尋ねられた理由が分かりました。

 

そういうわけで、捨ててしまった後悔もときにありますので、いわゆる断捨離をするときにはある程度の注意は必要です。「60歳からのわがままタロットセラピー2&3」でも書いています。もちろん捨てたら捨てたで、それもまた運命、人生です。

 

嬉しい発見もそうでない発見も「お片づけ&処分」という作業のなかで可視化されます。「お片づけ&処分」を、発見や気づきの機会に積極的にしていくことが、60歳からの人生をより豊かにしてくれる、とあらためて身にしみて感じています。

この気づきのエネルギーは、タロットカードNo16「塔」です。封印が解かれたり記憶が蘇ってきたりすることは、ポジティブにせよネガティブにせよ、それは私という唯一無二の人間を形作ってきたまぎれもない証なのです。ときにその衝撃は大きいかもしれませんが、大きければ大きいほど気づきも大きいはず。まあ、もう年齢も年齢なんで、あまりにショックな一撃を食らうとこの「塔」は倒れてしまって二度と立ち上がれなくなってしまう、なんてことも無きにしも非ずかもしれません。が、そこは「あとがない」精神でバッチリ受けとめることができれば、その土台に自分だけの人生最後のシニアの塔を美しく優雅に建造していくことができるでしょう。

 

今回の大処分大会で一番うれしかったのは、やはりこの卒業論文下書きテキストの発見と、「60歳からのわがままタロットセラピー4」の手紙のところでも書きました、自分自身の過去からの思想の一貫性を確認できたことです。

この2つは、衝撃であり歓喜でもあり、人生の晩年に至って私自身のアイデンティティの念押しにもなりました。

「愚者」の勇気と「魔術師」の持ち駒フル活用、そして気づきを得て新たな「塔」を建てる。

ゆえに、No16「塔」の次のカードはNo17「星」なのだな、と老境に入ってあらためて納得しました。

星はスター。輝く自分の能力、才能です。

その星々は、もしかしたら今まで気づかなかったために埋もれていたものかもしれません。誰かに蓋を閉じられていたものかもしれません。自分自身でそうしていたのかもしれません。あるいは、社会や世間という圧力によって我慢を強いられていて、しかもその状態が正しいことだと信じ込まされていたのかもしれません。

 

とにかくせっかく気づいたのですから、思い切り解き放ったほうがいいです。

なにせもう「あとで」も「あとが」もないのですから。

 

「お片づけ&処分」は、自分の「持ち札」を確認する機会であり、それはまた同時に「アイデンティティー」を確認する機会にもなるのだと思います。

貴石と軌跡を発見する奇跡の作業です。

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