②で言及した「竹宮と増山」の増山さん。
「一度きりの大泉の話」
私が「ヴィレンツ物語」「変奏曲」に感動していた頃には、増山法恵の名前を見たことはなかった。今回のこの本を読んで初めて知り得た名前だ。
当時は、原作者がいる漫画家は低く見られてしまう風潮があったことと、増山本人が自分の名前は出さないと言っていたということで、掲載から20年間は原作者の名前は伏せられていた、というのが真相のようだ。増山は「自分は名前は出さない」と言っていた、と萩尾も書いている。
ゆえに本著を読んでいて、萩尾と竹宮の関係についての驚きも然ることながら、増山法恵という人物が、この年齢になった私の人生に登場してきたというその事が、なによりかにより絶叫もの、驚天動地なのである。
当時(私が大学生の頃)、萩尾や竹宮の記事を読むときに登場していた物書きは中島梓(栗本薫/小説家・評論家 1953〜2009)だった。竹宮ととても親しい様子で、あちこちの記事で度々見かけた。
増山法恵って誰?素直で単純な疑問。けれども読み進むうちに、分かってきた。
大泉に実家があって、しかも萩尾と竹宮の共同生活の場を手配して、なおかつ二人を支えてくれている人、のようだ。
萩尾は、中学時代からの友人で手塚プロダクションでアシスタントをしていた原田千代子(はらだ蘭)から増山を紹介される。原田は、増山を萩尾に紹介したかったのだろうと思う。
これは私の勝手な想像だが、増山の話を聞いた原田は、萩尾と話が合うと思ったのではないか。なぜなら、増山は自分の物語を持っているが自分では漫画は描けないので、自分とシンクロする漫画家を探していたから。
萩尾は増山と文通をはじめる。萩尾はまだ大牟田にいる。
それから萩尾は編集者の依頼で、旅館にカンヅメになっている竹宮を手伝いに行くことになる。それが竹宮との出会いで、竹宮から小学館の編集者を紹介されて、ボツ原稿を見てもらうことになる。さらに上京して一緒に暮らすことを提案される。
その間に竹宮に増山を紹介した、と萩尾は書いている。
二人は話が合い、すぐに仲良くなり、会うたびに仲良くなっていったように見えました。
(P25)
「一度きりの大泉の話」を読みはじめてすぐにこの文を読むことになる。私はこのとき、仲の良かった友人が自分から離れて行ってしまった、そんなエピソードなのかな、と想像した。
それもある意味そうなのだろうと言えそうではあるが、①ですでに触れたが、そんなに簡単で単純なことではない出来事が起きたわけだ。
私の印象ではこの増山さんという人のおおよそは『ヴィレンツ物語』で出来ていて、増山さんと『ヴィレンツ物語』は切り離せないからです。
(P26)
増山法恵は、ピアニストを目指していたそうで(親の夢だったようだ)、実家の2階にグランドピアノがあった。
増山の家に泊まりに行ったとき、彼女は萩尾に創作ノートを見せてくれた。
小学生の頃からずっと作っている物語があるの、『ヴィレンツ物語』という音楽の天才少年たちの話。
(P26)
それから増山は「少年が好き」なのだと言って、時々『ヴィレンツ物語』の話を萩尾にするようになったという。
「ヴィレンツ物語」も「変奏曲」も「アウフ・ヴィーダーゼン」も、なんだかとても立派な装丁の本で私は読んだ。
ちなみに「アウフ・ヴィーダーゼーエン」とはドイツで「さようなら」。アウフを抜かしてヴィーダーゼーエンと言うこともあるし、ウィーンあたりだとヴィーダーシャンみたいに言ったりする。ヴィーダー(wieder)は「再び」ゼーエン(sehen)は「会う」すなわちSee you againということですね。アウフ(auf)は前置詞「〜の上」。
「ヴィレンツ物語」を漫画にしてもらいたかった増山が竹宮に物語ると、竹宮はそのキャラクターをスケッチブックにスラスラと描いてくれた。増山は喜んでいたが、まだ漫画として描かれることには躊躇していたようだった。それから竹宮は「風と木の詩」の構想を増山に話して聞かせていた。
これはほとんど1970年の話だ。
ここから先、増山法恵のエピソードを読んでいた私は「ぞっとした」。
少年愛、ヘッセ、三島由紀夫、ピアノとクラシック、映画の題名……、全て私自身がある時期に夢中になったり、興味を持ったりしたものだった。中高生のときから好きだったものもあるが、竹宮惠子の記事を読んで興味を持ったものもある。
え?なにこれ。「それ」知ってる。知ってるものばかり。なつかしい。
「増山さんという人のおおよそは『ヴィレンツ物語』で出来ていて」
萩尾はそう書いていた。
私はこう思った。
「私のおおよそは増山法恵でできている」と。
……。
私は大学時代の同級生のことを思い出した。Kさん。
Kさんは物静かで上品な面持ちの人だった。あまり人と群れることはないが、かといって話しづらい人でもない。お茶に誘うと、時間が許せば付き合ってくれた。今思うと、自分と自分の時間をとても大切にしていた人だったと思う。確か写真部で写真を撮っていた。レコードジャケットなどにこだわりを持っているようだった。杏里のなんとかいうアルバムのジャケットが素敵だと話してくれた。
私はKさんのことが好きだったので、機会があれば近寄っていって会話した(あちらがどう思っていたかは分からない)。帰宅がいっしょになると嬉しかった。
きっかけは覚えていない。たぶん私が独り善がりに「トーマの心臓」や「風と木の詩」の話をしていたのだと思う。
「ヴィレンツ物語」「変奏曲」をKさんに貸した。Kさんはとても気に入ってくれた。
何かの話のときにこう言った。
「わかるわかる。これ読むと、自分で何か書きたくなるよね」と。
つまり、とても心が動く、ということなのだ。その感動、感情をどう処理したらいいのか戸惑う感じ。それを「書きたくなる」と表現しているのだ。
芸術というのはそういうものなのだと私も思う。
感動したり、考えさせられたりしたとき、自分の内側からむくむくと湧いてくるような得体のしれない感覚。
今私は、この読書エッセイを書いていて、現実世界を忘れそうだ。それほど夢中になってしまう萩尾望都であり竹宮惠子であり、増山法恵なのだ、と思う。いや、思わざるを得ない。
そのインスパイアを上手に回収して言語化できる人が、著名な作家になったりするのだろうな。
正確にどんな対話のタイミングでKさんの口からこのような言葉が発せられたのかは覚えていない。けれども、二人とも同じ感覚を共有していたと思う。Kさんのこの言葉ははっきりと思い出に、記憶に残っていて、今でも何かの折にふっと心を過ることがある。大学の正門近く、太陽の光が降り注いでいた。Kさんの優しい微笑み。そんな光景とともに。
大学を卒業してからもKさんとはしばらく年賀状の遣り取りが続いたが、いつの間にか途切れてしまった。図書館司書になったところまでは知っているが、今どうしているか。こういう人とは細々とでも連絡を取り合っているべきだったな、と今は思う。あちらが迷惑だったら致し方ないが。
そういうわけで、この書物を読んで私のなかに一番印象深く残ってしまったのは、増山法恵なのである。とても気になる。この人は今どうしているのだろう。いや、それも興味あるが、この人のそもそもの生い立ちを知りたい。
家の2階にグランドピアノがあって、ピアニストを目指していた、目指すことを親から求められていた、大泉のお嬢様?らしき人だということは本著によって分かっている。
そして音大を受験しようとしているのかと思いきや、
ピアニストになるなら、ケンプぐらい弾けなければだめなの。高校ぐらいの時、気がついたの。私にはケンプのような才能がないの。
(P50)
と言っていた。
お母さんの期待に応えたいけど、自分にはできない。その彼女が見つけた夢の世界が天才少年たちが集う『ヴィレンツ物語』だったのでしょう。
(略)
彼女はピアノに挫折をしていた。辛い思いをしていた時、漫画の世界を知り、漫画の世界の人々は彼女を幸福にしてくれた。
(P51)
また増山は「漫画だと、ピアノの世界のように競争しなくてもいい。だから漫画が好き。みんな仲良しでいられる」とも言っていたという。
実は私も漫画家になるまでは漫画の世界は競争しなくていい、と思っていました。
(略)
ところが雑誌には作品のアンケートの順位というものがあると、漫画家になって知ってびっくりしました。
(P52)
競争が嫌いで、どうやら母親との確執がありそうだ。そのあたりは、萩尾とシンクロしている。そこから何か生み出せたかもしれない。
とにかく増山は繊細な人だったようだ。佐藤史生(漫画家1959〜2010)が大泉に呼ばれて来て増山と意気投合したとき、佐藤は増山の繊細さをひどく心配していたという。生い立ち、あるいはピアノにまつわる事、そのあたりに何か抱えているものがあるのかもしれない。
増山本人はどこかで自分自身について語っているのだろうか。私はそれを知らないので、勝手な推測、妄想を膨らませてもいけないのだが。
私が知りたいのは、増山法恵という人の興味関心、嗜好の理由、きかっけ、経緯だ。この人が読んでいるたくさんの本や観ている映画、聴いている音楽、そういったお気に入りはいったいどこから来たのか。
世の中の「流行り」というのは、なにかこう不思議と人の心を一瞬で捉える計り知れないパワーがあるという話を聞いたことがある。例えばヒット曲とか急に人気の出る俳優など、一回聴いただけで、一度CMなどで見かけただけで、ぐぐっと引き込まれたり、あれ?聴いたことあるな、あれ?見たことあるな、という既視感のような感覚を人を与えるのだそうだ。そういった現象に学術用語があるのかどうか知らないが、私もそういう体験をしたことがあるので「あ、あれのことだな」となんとなく分かる。
例えばウィーン少年合唱団などもそれなのかもしれない。私がふっと惹き込まれたのは、増山たちが取り憑かれていたときよりも7〜8年、あるいは10年ほどあとになるが、その瞬間を私は覚えている。高校生だった。ある日、茶の間のテレビに映る少年合唱団を見て「これだ」となぜか思ったのだ。それからレコードを探して買った。クラシックだし、上品な趣味だと思うので悪いことではないと思うが、母はよく思っていなかったようだ。彼女もクラシックが好きな人だったのだが、少年合唱に取り憑かれている私の様子が異様だったのかもしれない。
その少し前、アメリカではオズモンズとかジャクソン5、日本でもフィンガー5がヒット曲を飛ばしていた。ルネ・シマールという少年歌手もカナダからやってきた。
増山には「それじゃないのよ」と指摘されそうではあるが、様々な方面から「少年愛好」的な文化の素地がじわじわと少女の間に染み通っていっていたようにも思う(私は研究者ではないのでエビデンスもデータもなにも持っていない)。
古代ギリシャ・ローマ時代からあったであろう少年を愛でるという文化は、増山たちの熱心さによって、いささか奇妙な(と言っては失礼だが)形態をとって世の中の少女たちに広がっていったように思う。「そこ」から始まった人もいれば、私のようにほんのりと芽生えていた「なにか」によってそこにたどり着いたという人もいるだろう。そこに行ったら、あれこれ語る人たちがいて、そのなかに自分のお気に入りがあり、またそれらを補完し成長させてくれる新しい情報があった。
すでに書いたが、少年合唱しかり、ヘッセしかり、「ベニスに死す(これは感染症の話として今読むことができる)(トーマス・マンの小説をルキノ・ヴィスコンティが映画化。美少年役のビヨルン・アンドレセンが注目された)」、書籍、映画、クラシック音楽、ピアノ、ヴァイオリン……。
私の通う大学に、ドイツ文学の講義で高橋健二先生(ヘッセの翻訳家/1902〜1998)が来ておられるという情報を得て、さっそくその講義を受講することにした。もちろんテキストはヘッセだった。先生はヘッセといっしょに撮った写真を見せてくださった。私はヘッセ全集の一冊にサインをしていただいた。
私の家には、グランドピアノとヴァイオリンがある。
増山法恵のおおよそは「ヴィレンツ物語」でできいて、私のおおよそは「増山法恵」でできている。そう敢えて言いたいのは、そしてこの萩尾の本を読んでゾッとしたのは、そういうことなのだ。
「おおよそ」と言ってももちろん、私の「一部」であり「いっとき」だったのかもしれない。けれどもある時期までの私はまさに「そのもの」だったし、なんだったら60歳を過ぎた今でも、何かの折にその価値観をベースに理解したり判断したりしていることもあるだろう。すなわち『そのおおよそが「ヴィレンツ物語」でできている増山法恵のおおよそ』が、私の教養を支える一部となっているのは確かだ。
『ある意味、増山法恵さん、あなたのおおよそをつくっていた「ヴィレンツ物語」(象徴的意味で)は、とてもたくさんの少女たちに伝わり浸透して人生に大きな影響を及ぼしましたよ』というのがこの本を読み終えた直後の感想のおおよそです。
萩尾望都と竹宮惠子、大泉サロンがどうのこうのよりも、この本は私に「増山法恵という私の人生のなかにある(いる)のに今の今までいっさい姿を見せていなかった新たな登場人物」を衝撃的にあぶり出してくれることとなった。
およそ40年ほどの間、私がその存在を全く知らなかったその人は、萩尾望都と竹宮惠子の背景にひっそりと佇んでいたのだった。
ゆえにこの人のことを詳しく知りたくなったのだった。まるで実の親が他に居ると知った子どものように。
(すでに既知の人もいるだろうが、とにかく私はそういうことなのです)
萩尾にも竹宮にも、増山のエッセンスが注入されているのは疑いがない、と私は思っている。もちろん彼女たちの作品はオリジナルだが、影響を受けた諸々のなかに増山法恵もある。
あるファンから来た手紙には「『暖炉』と『11月のギムナジウム』は、同じ事件の前編と後編のように読めますね」と書かれていました。それを読んで増山さんは「そうよ、あなたたちに同じを本を読ませたんだもの」と楽しそうに満足そうに笑っていました。
(P96)
ちょっとスティーヴン・キングっぽい。
萩尾望都は、あのことがあった1972年から竹宮の作品はまったく読んでいない、という。そのきっかけとなった出来事も封印してきた。
この読書エッセイ①の冒頭で書いた「私も封印してきた」について、ここでようやく説明を加えることができる。
私自身、おそらく1990年代前半だと思うが、萩尾作品も竹宮作品も封印した。ある条件が整えば(心の余裕かな?)また読もうと思っていたが、これらの作品はもう手元にない。
クラシック音楽は封印などする必要もないのだが、もう十数年前から好んで聴くことはない。個人的にある出来事があったことも理由のひとつだが、そもそも音楽をほとんどまったく聴かなくなった。興味が他にいっている、と言えようか。
極端な言い方をすれば増山法恵エッセンスは封印されてきた。とはいえ、それらは私の教養部分の血潮として脈々と体内を流れ続けていたのだ。
そして、その「正体」を2021年4月に知ることとなったのです。
競争が嫌いだと言っていた増山法恵。萩尾望都もそうだという。私もそうだ。競争は人間の心をさもしくし、貧しくする。
今はどのような心持ちでおられるのだろう。
そして、増山ワールドは美しく表現され、世の中で読みつがれているというのは、なんともミラクルだと言うほかない。
私の「一度きりの大泉の話」読書エッセイは、とりあえずこのあたりで終わりにします。
増山さんの言うような少年愛というのはわからないけれど、少年だったら、女の子より、社会の制約を受けずに自由に動かせるかもしれない。
(P91)
「100分de萩尾望都」でも、ヤマザキマリが「トーマの心臓」を読んで「少年になりたいと思った」と発言していた。小谷真理(SF・ファンタジー評論家)は「これが少女たちの物語だったら相当きつい」とも言っていた(性暴力など)。
萩尾自身も、少年を描いたら「自由に」動かせてびっくりしたとインタビューで答えていた。
これもけっこう深いテーマだ。
BLやジェンダー問題、母娘の葛藤、自己との対話、感染症、多様性……萩尾作品には先見性があり、それは人類の深淵と神秘を捉える審美眼によるものなのではないか、と今、この年齢になった私は思ったりしている。
萩尾望都のファンで良かった。