ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「おかえりモネ」で利他を考えてみた〜おまけにすこしばかりの恋愛違和妄想も〜

「おかえりモネ」NHK朝ドラ 2021年前期

脚本/安達奈緒子

出演/清原果耶 蒔田彩珠 坂口健太郎 内野聖陽 鈴木京香 他

 

 モネこと永浦百音(ももね/清原果耶)は、最終週で気になるセリフをつぶやいた。

「救われた」と。

 

 そのシーンは、モネとその恋人である医師の菅波光太朗(坂口健太郎)が、自分たち二人の結婚のあり方を説明して許してもらうために、モネの実家を訪れていたときのことだった。

 モネの妹である「みーちゃん」こと永浦未知(蒔田彩珠)とみーちゃんがずっと好きだった「りょうちん」こと及川亮(永瀬廉)、二人の関係が実ったというメールがモネのスマートフォンに入ってその文面を読んだモネは「二人は気持ちが通じ合ったようだ」と両親に伝えたあと、ちょっと固まってしまう。その呆然とするようなモネの表情が画面いっぱいに映し出された。それは「え?どうしたの?」と視聴者の感情を一瞬迷わせる。

 戸惑っているモネに菅波が寄り添う。

菅波 だいじょうぶ?

モネ うれしいんです。すごく。

   でも、先生これは、自分が救われたから。

菅波 いや。

モネ 大事な人たちが幸せになる。こんなにうれしいことない。

   よかった。

 

 亮は、実はモネのことがずっと好きだった。けれども、津波で死んでしまった母親、その悲しみから亮と亮の父親は10年の時を経てもまだ抜け出せないでいた。大切な人が突然いなくなるかもしれないことを考えると、恐怖で素直に好きだと言えない亮。

 東京で亮は、自分の気持ち分かってるよね、とモネに迫ったこともあった。モネは菅波のことが好きなので、毅然とした態度で亮と向き合った。

 未知は、亮がモネのことを好きなことを知っていて、事あるごとにモネに嫉妬してきた。どうしておねえちゃんばっかり……、と。

 東京で気象予報士としてテレビで活躍していたモネは、年月を経て実家に戻った。未知と亮の様子を観察したモネ。二人は恋人同士には見えない。けれども実はお互いを大切に思っていることを見抜き、それを二人に分からせようとした。

 未知の切ない気持ち。亮のモネへの気持ちと未知への気持ち、そしていまだ癒えない恐怖と自己不信。

 

 そのような経緯もあったがゆえに、モネは「救われた」と思ったのだろう。

 

 モネは正直だ。「うれしい。でもそれは自分が救われたから」と自分の気持ちを言語化した(菅波には素直になれるのかも)。彼らが救われたからではなく、自分が救われたからうれしい、と。その自分の内側からにじみ出てくる不可解な感情に、メールの文面を読みながらはっと、いや、ぐっと奥深く気づいたモネ。

 こういったシーンの解釈は視聴者それぞれだと思うが、私はそのように受け取った。

 言ってしまうと興ざめかもしれないが、すなわち、亮の気持ちに応えることができない百音、未知の恋が実ってほしい百音、その二人の百音が、亮と未知から解放された瞬間だったのではないか。

 

 このシーンを観たとき、ふと「利他」という概念が私の心をよぎった。今年(2021年)は、利他について考える機会が多かったこともある。ちょうど「利他とは何か(伊藤亜紗 中島岳志 若松英輔 國分功一郎 磯崎憲一郎)」という書籍を読んでおり、加えて「おかえりモネ」が最終回を迎えたあとには「思いがけず利他(中島岳志)」という本にも出会った。

 

 そもそもモネは、人を助けたい、欲を言えば人が困った状況になる前に、そうならないように先回りして助けたい、という気持ちを募らせて気象予報士になった。すなわち天気は未来を予測できる、と。それは、東日本大震災を体験したから。しかもその日、モネは高校受験のために故郷の島を離れており、家族や友人のために何もできなかったという負い目を抱きつづけていたので。

 友人や家族の役に立ちたい、助けたいという執着ともいえるほどの強い願いと信念がモネにはあった。それはドラマの要所要所で散見される。加えて、家族や友人、誰か知人が事故や困難にあってしまうことを極度に恐れてさえいた。

 

「利他」というのは、実は深く考えていくと非常に難しい行為だ。「利己」ではない、ということは分かる。じゃあ、それこそ「利他とは何か」?

 誰かの役に立つこと?助けること?与えること?無償の愛?

 

 仏教に「利自利他」という言葉ある。

自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすこと。この二つを共に完全に行うことを大乗の理想とする。自益益他。

コトバンクより)

「自分自身が学んだり修行したりして、そのことが誰かを助けるためになる」ということだ。

 モネの場合は、気象予報士の国家資格を獲得するために勉強した。そして資格を得て、自らの知識や経験を使って島の人たちを助けることができる、そのような方向でモネの人生は動き出していた。

 

 私たちはともすると利他的行為を、極めて利己的な思いからしていることがある。すなわち、見返りを期待したり、称賛など周囲からの視線を気に掛けたり、今で言うところの「いいね」を求めていたりする。承認欲求や利己的利他は無自覚に行われていることが多いのかもしれない。

 計画的に為されることもある。例えばボランティアに参加したという実績が、入学試験や入社試験の際に加味されることがある。実際に私も、点数稼ぎのためだけにボランティアをやっているという人の話を聞いたことがある。まあ、何もしないよりは良いと考えることもできるが、でも逆にもしかしたら、何もしないよりも良くないのかもしれない、とも思う。

 

 とはいえ、どこまでも純真な利他というものはこの世に存在するのだろうか。

 

 モネの場合は、家族や友人、島の人たちを助けたいという気持ちが有り余って、その自分の理想のようなもの、つぐないのようなものに取り憑かれているようだった。

 未知と亮、二人のためを思う気持ちは確かにその通りなのだろう。けれども一方で、この二人がバラバラのままだったら、やるせなく浮かばれない状態がずっと続くことになるに違いない。自分自身の気持ちを収めるためにも、未知と亮の間柄が通じ合ってくれることを願い、応援するしかない。

 そこまでは無自覚だったのかもしれない、ただただ一生懸命だったのかもしれない。が、あのメールの文言を読んだ瞬間に「救われた自分」「ほっとしている自分」を自覚してしまった、その瞬間の数秒のシーンだったのではないか。そして「大事な人たちが幸せになることはうれしい」のだが、そのうれしさのなかに「救われた自分」がいる、というその自己救済的安堵の感情を無視することはできなかったのだろう。彼らのためではなく、自分のためだったのか?

 モネのように自分にやってくる感情にセンシティブに気づくことのできる人は、あまり多くないとは思う。モネは自然のなかで微妙な風の音を聞き分けることができる(ドラマ序盤でそのようなシーンが出てきたとき、これはもしやスピリチュアルな内容になるのか?と思ったが、そうしたことは全くなく、極めて泥臭いほどにモネと周囲の人々の物語が描かれていた)。それほど感性が鋭いので、良くも悪くも種々雑多を引き受けてしまうタイプの人間なのだろうと想像する。

 

 マイナスなことが周囲に起きてその辛さを感じるとき、そしてそれに対して何もしてあげられないとき、モネの心には焦燥と重圧がやって来る。

 それについて、モネが救われた、いや、俯瞰的思考のできる自分自身へ向けての新たな一歩を踏み出したであろうシーンがあった。

 島が台風被害を受けたとき、東京から駆けつけたモネ。

 すると、家族も友人も知人も笑いながら楽しそうに片付けをしていた。おそらくモネは、悲劇的な、あるいは困惑している家族や知人たちの姿を想像していたのだろう。だが人は強い。冗談を言い合いながら大きな声で笑っているみんなの様子を前に、モネの足は一瞬止まる。

 この瞬間のモネは、いささか門外漢、自分だけ締め出されているかのような感覚を味わったのではないだろうか。実際にそのようなセリフはなかったが、清原果耶の真に迫る演技がそう語っているように私には見えた。

 モネはおそらくこう思ったのではないか「私がいなくても大丈夫なんだ」と。それは、少しばかりの落胆を秘めた安堵だったかもしれない。

 

 中島岳志著「思いがけず利他」のなかに、次のような一文がある。

「利他」行為の中には、多くの場合、相手をコントロールしたいという欲望が含まれています。

(「利他が支配に変わるとき」P107 )

 これは、贈与という行為について、与えた側が与えられた側の優位に立つことがある、という現象についていくつかのエピソードから説いている一節。

 確かに、私たちは何かをいただくとお返しをしなければ、と思ってお返しをする。その面倒もあるゆえ「いただきもの」を忌み嫌う人もいる(私がそうです)。

 何かをプレゼントするときも、相手が気を使わなくてもいいように高価なものを避けたりすることもある。ところが、裕福な方々は、安物を贈るわけにはいかないと考えるので、高価なものを贈る。貰ったほうは、同等のものをお返しできればよいが、そうでない場合、あるいはお返しができなかった場合は、どうしたってその贈り主のほうが立場的に優位に立つことになる(本当は与えきりの贈与が尊いのだが)。

 

 モネの場合は、こういった贈与における問題とは完全に一致するものではないが、このときモネが抱いたであろう感覚のなかの一部が、この著書にある「利他が支配に変わるとき」と私のなかでつながった。

「私が助けなきゃ、と思って血相を変えて戻ってきたのに、なんと、みんな元気で力強くやっている。私なんか必要じゃないじゃん」(すべて私の妄想です)。

 繰り返すが、このシーンを見たとき私はモネの表情に「疎外感」を見て取った。みんなとは違う立ち位置にいることの寂しさのようなもの。それは「おねぇちゃんは津波見てないもんね」と妹のみーちゃんに言われた、あの震災のときと同じだ。でも今回は、大急ぎで戻って来て、そして何らかの力になれる。気象予報士なんだし。帰って来てくれてありがとう、助かる、ときっとみんな言ってくれるだろう(いや、そこまで単純ではないか)。

 ちょっと躊躇しながらも、ぴたりと止まっていた足を一歩一歩踏み出して、みんなの前に姿を現したモネ。もちろん、家族や知人たちは、わざわざ来てくれてありがとう、とモネを受け入れてくれた。

 実は私は、もしかしたらモネは家族や知人たちに声も掛けずに東京へ戻ってしまうのではないか、とドラマの最中に想像した。違和感となった予想外の光景が、モネと島の人々の間に横たわっていたように私は感じた。このシーンに私のような感想を持つ人は多くないかもしれないが、私としては、主人公モネ(清原果耶の演技力)がここまで私を連れてきて、それほどの感想を私に持たせてくれたのだろうと思っている。

 

 一方で、気象予報士として仕事をこなしているモネの心に、私「が」助ける、という自己本位の心づもりがちょっとでもあったのかな、と感じた。「私が助けなきゃ」と。さらにうがって言えば「私に助けさせろ」ということかもしれない。それを私は「利他が支配に変わるとき」に近いのかな、と思った。助けたい人からすれば、相手が困っている姿が当たり前で、さらに言えば、みんなが困っていてくれないとこちらも困るし、拍子抜けするなんてこともあるのではないか。けれどもそれはそれでいい、人は困らないほうがいいのだから。ときに(大きすぎる)愛は、コントロール欲を目覚めさてしまう。コントロールできたほうが、安心だからだ。

 同時に、モネはこの経験から学びを得たように思う。そのうえで、自分には何ができるのか、ということを客観的に考えることができるようになったのではないか。

 

 モネの場合は、心配が有り余ってということであって、ボランティアを数字や成績に換算している人たちとは全く違う。モネは、そんな気持ち、さらさら持ったこともないだろう。打算はなくても、純真で一筋な思いというものは思い入れが強すぎて、ときに暴走したりしてしまうことがある。

 

 誰かの為を思っての行為が実は自分の為だった、ということは、意外と自分の周りにもたくさんあるような気がしている。意識的にせよ無自覚にせよ(利他については別の記事でまた書きます)。

 

 最後に、

 未知と亮の関係はどう回収されるのかな、と脚本家のお手並み拝見だと私は思っていたのだが、まさか、こんな結末になるとは……。

 未知と亮が結ばれるにしても、じゃあ、亮のモネへの恋心はどう収まるのか。未知と亮が結ばれて、じゃあ、モネと未知、モネと亮は同じ島で暮らすことができるのか。私としては、未知と亮が恋人同士になるということは有り得ない展開だった(私は恋愛音痴なので)。未知には気の毒な展開になるが、亮には漁師以外にやりたいことがあったので島を離れて行く、というのが私の脚本だ。それが「みんな島に束縛されてるんじゃないか?」という問い掛けへのひとつの回答にもなる。

 安達奈緒子脚本の回収方法は、未知にとっては良かったのかもしれないし、上に書いたようにモネの救いにはなったのかもしれない。が、この亮という青年の人物像が私にはいささか腑に落ちないところがあったので、なんとなくしっくりこない結末だった。

 モネと菅波の、互いにやりたいことがあるので島と東京で離れ離れに暮らすという選択も、なんだか変だ。

 そもそも未知は、亮と気持ちが通じ合ったのはいいが、東京の大学で研究をつづけることになったのだから、島で漁師をつづける亮とは離れ離れだ。

 これは、各々が自立している新しいカップルの生き方の形というメッセージなのか。

 でもものすご〜く穿った空想をすると、最終話から先、モネ、菅波、未知、亮のうち、結局島に居るのはモネと亮だ(亮が漁に出ている日数が長いとはいえ)。これがかつての昼ドラだったら、どろどろのメロドラマになる可能性が……なきにしもあらず。

 余談でした。

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