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罪悪感の罠 秘密を語る①〜人生の回収⑤〜「老い」の哲学〈+α〉タロットカード「カップ6」

 河合隼雄の『「老いる」とはどういうことか』という著書のなかに、「秘密の功罪」というタイトルのコラムがある。とても興味深いので、長くなるが引用する。

 河合はまず、名古屋で精神科を開業している大橋一恵という医師が、老年期について論じているなかの一節を取り上げる。

70歳の女性が50年前に人を傷つけるような行為をしたため、最近になってそのことを人から責められて困る、という訴えで来診された。

「人から責められて」というのはこの人のまったくの思い過ごしで、他人の行為を勝手に自分で解釈して悩んでいるのである。老人になってこのような「妄想」に苦しめられることは、ときどきあることだ。

50年前の悪事というのも大したことではなく、近隣の人ともめごとがあったときに無記名の手紙を出したということだった。

しかし、この人はそれを自ら恥じて、その後もこのことを何度も思い返しつつ誰にも言わずに生きてきたが、この年になって耐えきれなくなったのだ。

治療者の慰めと励ましによって、この人はその秘密を夫に話された。

「夫は聞いてくれただけでなく、夫の苦しみなども聞く機会になった。夫婦でいながら互いにやはり一人一人苦しみを背負った人間だと思った」と話され、よくなられた。

 これを受けて、河合は次のように書いている。

人間にとって秘密というものは不思議なものだ。それをかかえて頑張ることが支えとなるときもあるし、それを誰かに打ち明けることによって支えを得ることもある。

ただ、いつ、どこで、誰にというところがむずかしいことのようである。

(『「老いる」とはどういうことか』P238〜239)

 上記の文面から、自身の過去の出来事に思い当たった人もいることだろう。

 

 私は、先の記事で老年期の「恋愛打ち明け話」「過去の気になっている事(思い出 秘密)」について随想(考察と言いたいところだが、そこまでまとまった論考ではないので遠慮する)してきた。「恋愛秘話」については、配偶者に語ることは避けたほうが無難だということも書いたし、私はそう思っている。

 ここに登場している70歳の女性が抱え持っていた秘密は、自身が罪と感じつづけていて解消できていない事柄だ。このような心情のとき、うっかりするとその相手を探し出して謝罪に行くという衝動に駆られたりする人もいることだろう。これについては前の記事で既述しているが、簡単に言えば「そんなことはしないほうがいい」である。

 この女性は「人から責められて困る」と言って精神科を受診したというので、これはいささか心痛が大きい。空想や思い込みで内容の一部が盛られてしまった「罪の記憶」となっている。そして実は「この女性を責めているのは“誰か他人”ではなく“自分”なのだろう」と思う。

 耐えきれなくなる思い出、というものは誰にでもあるだろう。それは当たり前だが、嬉しい思い出とは正反対の思い出だ。

 この女性は、医師のすすめもあって夫に語ることで癒やされていった。理想的な例だ。前の記事に書いたが、私も思わず知らずの好機を得て、これまでくすぶり続けていた感想を夫に話した。話すというよりも勢いで返答した、といったところだろうか(年を取ってくると、そういった場面が多いことに最近気づいた)。そして、自分を責めるのをやめることができた。

 

 河合によると、秘密には両面、あるいは2種類あるようだ。抱え持つことによってそれが心の支えになる場合と、打ち明けることでその打ち明けた相手が自分の支えになってくれる場合。

 心の支えになるような類いの秘密というのは、おそらく誰かに言ってしまうとその重要性が木っ端微塵に吹っ飛んでしまうようなそのような内容だろうと思う。

 自身の胸の内にあるとても意味深い事柄が、言葉になった途端に薄っぺらいものになってしまう。それは、話す側の表現力と伝え方の問題もあるし、また聞く(聞かされる)側の受けとめ方、理解の度合いにもよる。そこで「言わなきゃよかった」と思ったことのある読者諸氏も少なからずいるのではないだろうか。なので、感動が深い思い出ほど誰にも語らないほうがいいときもある、と私は思っている。

 辛いことがたくさんあるなかで、そのたったひとつの思い出だけが自分の生きる支えとなっているようなそのような事柄もあるだろう。

 

 この女性の秘密は、抱え持つことでそれがパワーになるようなものではなく、ずっと苦悩のもとになってきたものだった。そのうえ本人の悪事なので、誰にも言えなかった。もちろんなかには、ネガティブな思い出をジャンプ台にしてしまう人もいるが、この女性の場合は、抱えながらどんどん自分を追い込んでしまっていた(こういうストレスは老年期の心身には耐え難い。他の病を引き起こす確率も高い)。そしてついに精神科を受診し、さらに夫に話してみると、夫も自分が抱え持ってきた苦しみを話してくれた。良い夫さんで良かったですね。

 河合が言うように「ただ、いつ、どこで、誰にというところがむずかしい」。

 夫がみんな、この女性の夫のようにはいかない。その態度によっては、もっと傷ついてしまうかもしれない。友人、知人、家族、親類などは意外と要注意だと私は思っている。精神科医心療内科医でも、みんながみんな良質ではない。精神科に行ったらよけいに具合が悪くなった、という話もよく聞く。「いつ、どこで」も大事な要件だが「誰に」を間違えたくないものだ(その選択は決して簡単ではないが)。

 さらにその「秘密」がどのような種類、性質のものであるのかも重大要件だ。繰り返すが「恋愛秘話」は、配偶者に知らしめる性質のものではない、と私は思う。

 私が思うに、もうひとつのケースがある。「話す」という行為そのものが自ずとヒーリングとなる、ということだ。もちろん話す相手によってはネガティブな状況を招いてしまうのは河合の言及と同じなので、相手を厳選できればそれにこしたことはない。だが、相手の反応が気にならない、反応も必要ないということであれば、とにかく話す、言語化する、という作業それ自体が心を解放してくれるだろう。

 

 それでも例えば本当に善良な人たちばかりが集まっているグループだったら、私もぜひとも打ち明け話をしてみたいとは思う。が、身も蓋もないことを言ってしまえば、現実の世界ではたぶんそんな理想郷はまずない。ゆえに、宗教団体の存在が有益になってくるかもしれない。キリスト教ではそういった集会もけっこうあるように思うが、日本だとどうしてもカルト教団化しやすい。くわえて宗教的平和的グループであっても、そこに集っているのはごく普通の人間なので、みんながみんな適切な人ではない、という一抹の寂しさもある。修行を積んだ聖職者もやはり人間なので、精神科医同様その人格よって差があるのは否めない。

 

 NHK朝ドラ「おかえりモネ」(2021年前期)では良いグループの良い打ち明け話の場面がよく出てくる。例えば、気象予報会社で4人の若い男女がひとりの話に触発されて、つぎつぎ自分が抱えているネガティブについて語り合うという場面があった。人には言えない心の傷、苦悩は誰にでもある。ただ話していないだけと彼らは理解し合う、という美しいシーンだった。

「本当に善良な人たちばかりが集まっているグループだったら、私もぜひとも打ち明け話をしてみたいとは思う」と書いたが、おそらく私はしないだろう。これまでけっこう痛い目にあってきた身としては、どうしても斜(はす)に構えてしまう(そういった経験があったからこそ占い師としての私の今がある)。余生にいまさらの後悔を持ち込みたくない。だからといって嘘を述べたわけではない。本気で信頼できる人、人たちであれば、猜疑心旺盛な私だって秘密を語ることにやぶさかではない。むしろ、そういった人々との邂逅を願うばかりである(残りの人生時間も限られているので、そのチャンスはほとんどなさそうだが)。

 自分自身が打ち明け話をする立場についてばかり述べてきたが、反対の立場になることだってある。老齢期の人間にはむしろそちらのほうが多いだろう。誰かが話そうとするときに、聞き役として選んでもらえる人間でありたいと思う。

 良い聞き役となるための条件は、その語られる内容に対して評価しないこと、教訓めいたことを言わないこと。肯定はしても否定はしないこと。後で誰かに言ったりしないこと。相手の話を取って(遮って)自分の話をしないこと。すなわち、ただひたすら耳を傾ける。打ち明け話をする人の多くは、答えを求めているわけではないので。

 ただし、なにか問い掛けられたり、助言を求められたりした場合は、謙虚な態度で応答しましょう。

 

 上記の「おかえりモネ」のワンシーンでは、誰もが良き語り手であり、良き聞き手であったように思う。

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