さて、人生回収(総括 統合)についてここまで随想してきた私はこう思った。
たいていのネガティブ記憶は「相手のせいにしちゃおう」「あの人がいけなかったんだと解釈しよう」と。私の場合とくに、本音と建前というものを上手に使い分けることができない性質(たち)なので、意外と辛い記憶を数々持っていたりする。
ここは「60歳からのわがままタロットセラピー」である。たとえ過去のネガティブな出来事を全部自分本位に理解してポジティブに捉え直しても、今更それで誰かが困るわけでもない。あの人のせい、あの人が意地悪、邪悪だったんだと批評しちゃう。自分があまりにバカだったのなら、本当にバカだったな、と一瞬恥じ入って忘れる。あるいは、それも私なんだ、と認めて許してあげる。
そして、良いことのみ思い出そう。
ただし、過去の栄光に浸るのも罪悪感を抱きつづけるのも、そのネガティブさ加減は変わらないので、良い思い出に執着しすぎると今を生きることができなくなる、ということも忘れないようにしたい。過去の良き思い出は、ただ浸るのではなく、今の自分へのエールにして、同じような良きことを引き寄せるエネルギーにしていこうと思う。
西村博之(ひろゆき)が、自己肯定感が高いとか低いとかいう話題のなかで、次のようなことを言っていた。これは人生の回収とは少し違う目線だが、心の態度が同質だと思うので参考になると思う。
(略)
あなたの価値は、あなた自身が決めればいいだけです。仕事の評価や恋愛でフラれるなどの評価であれば、相手が決めることかもしれません。でも、そうではない場面において、あなたの価値を決めつけられるようなことは、あってはならないと思います。
(略)
そのための口グセとして、おすすめがあります。
それが「こういう人もいるんだ〜」です。
あなたが良かれと思ってやった行為に対して、「余計なお世話だ!」と言われたとしましょう。自己肯定感の低い人は、怒られたことに対して「自分が悪いんだ」「怒らせてしまってどうしよう……」と悩みます。
でも「こういう人もいるんだ〜」とつぶやいてみてください。するとあなたのおせっかいを無碍にした相手のほうが悪いような気がしてくるはずです。とはいえ、「あいつが悪い!」と考えてしまうとイライラしてきます。
だからこそ、「こういう人もいるんだ〜」という発見するスタンスがベストだと思います。「おせっかいを嫌がる人もいるのか。へ〜」と、観察するような態度で考えるといいと思います。
「あいつが悪い」と思ってしまうと心が乱れるそうなので注意したほうが良さそうだ。
私が上に書いたのは、自身の過剰で不必要な罪悪感から逃れるための意図的な方法なので、この誰かのせいにしてしまう批評によってかえって不快感を得てしまうということはないと思うが、万が一怒りが募ってしまうような場合には、いったんそこから離れましょう。
普段の暮らしのなかでも、人生回収中でも、「こういう人もいるんだ〜」は使ってみる価値があるように思う。ときどき挨拶しているのに無視して返さない仏頂面の人がいて、なんだこいつ?挨拶して損した、なんて思うことがあるが「こういう人もいるんだ〜」とつぶやけば心が楽になりそうだ。
ひとつハッピーエピソードを。
もうずいぶんと昔のことだが、仏頂面で人の挨拶を無視する人が同じマンションにいたのだが、会ったときにはかならず「おはようございます」「こんにちは」と言い続けていたら、ある日、その人が挨拶を返してくれたことがあった。そのときは嬉しかった。心が解けてくれたのかもしれない、とすら思った。ちなみに、無視されても私が挨拶をし続けたのは、そういうことを期待したり求めていたからではなく、単純に誰かに会ったとき、すれ違うとき、無視をするということができない、俗世間的に言えば損な性分だからです。
こんな小さな出来事でも、心を揺れ動かすことは否めない。
無視されれば、私なにか悪いことしたかな?失礼だったかな?などとあれやこれやと思考を巡らせてしまうことだってある。それこそ、挨拶を返さないほうが悪いのに、自分に何か非があるのではないかと我が身を振り返ったりしてしまう。これはきっととても時間と労力の無駄遣いなのだ。
もうひとつ、ここまで人生回収の思い出について随想してきて分かったのは、ネガティブな「思い出」「秘密」には2種類ある、ということだ。
すなわち「他人を責める思い出」「自分を責める思い出」。
後者は「後悔 無念」、前者は「怨念 憎悪」となる可能性がある。
前の記事で紹介した、精神科を訪れた70歳の女性のケース、モネの母親と妹の「心の秘密」は「自分を責めてしまう出来事、思い出」だった。
これは、人と時と場所を選んで「話す」ことが、心の回復となる。逆に誰かの打ち明け話を「聞く」ということも癒やしになる。もし近くに誰も見つからなかったら「書く」ことをしてみる。あるいは旅に出る(出会った通りすがりの人に話す)、占い師のところへ行って話す、心療内科へ行く……などの方法がある(これをここまでの記事のなかで導き出してきた)。
一方で「誰かを責めている思い出」では、怨んだり憎んだりという気持ちが、もしかしたらずっと続いているかもしれない。
あなたにそこまで屈辱を与えるような人は、「こういう人もいるんだ〜」的な人間だろうと推測できる。いわゆるイジメやハラスメントもそうだ。それこそトラウマになっている人も多いのかもしれない。その状況でうつや心身症になってしまう人もいる。
そう考えると「他人を深く責めてしまう」思い出に悩まされている場合は、誰か周囲の人に話すよりも心療内科や占い師のところへ行ったほうがいいかもしれない。なぜなら、友人知人に話すと、ただ悪口を言っているように聞こえて、あなたのほうが悪者になってしまう可能性があるからだ。つまり「憎悪」という感情は良い悪いで言えば悪い感情なので、その悪い感情を持っているあなたは邪悪だ、と判断されかねない。不思議なことに人というのは、正義の剣を振り下ろしたい願望を持っていたりする。ゆえに、今回のコロナ禍でもそういった出来事が様々あったのは記憶に新しいかと思う。自分を正義だと思っている人の行動や言い分は短絡的で紋切型だ。
例えば「娘や息子を嫌っている親などいない」という、いかにも正統派な言い分があるが、今で言うところのいわゆる「毒親」は確かに存在している。そうしたステレオタイプな価値観を持っている人に、親子関係について相談しても埒が明かない。いや、それどころか「親不孝はよくないよ」などと、慰めにも応援にもならない頓珍漢な戒めを受けてしまうことになる。
老年期の人生回収プログラムとしては、自分自身の性格も鑑みて、自己処罰観念が強い人は「誰かのせいにする」「こんな人もいるんだ〜」作戦で乗り切る。そしてもともと他罰的な人は、ちょっと我が身を振り返る時間もあったほうがいいのかもしれない。
出来事を解釈するにせよ、思い出すにせよ、できるだけ良いことに焦点をあてて余生の大切な時間を生きていくようにしたいものだ。
さらに、人生にとって何が大切なことだったのかを選り分けて、実はたいして価値のなかったものは捨て去っていく、というワークは必要なのではないか、とあらためて思っている。
タロットカードNo20「審判」がまさにそれだ。
このカードも解釈は占い師によって違いはあるが、私は私の師匠から伝授された解釈がしっくりくる。
復活やコーリング的な要素は、「目覚める」という意味ではそのワードも生きてくるだろう。
私は「あなたはどうしたいのですか?」と問い掛けてくるカードとして第一義的には捉える。どうしたいのか分からなければ、道も進めないし、扉も開かないし、ましてや誰も(天使も含めて)あなたを助けることができない。
さらに大きな意味として、人生の終わりが近づいて自分の人生を振り返ったときに、そこに見えてくる様々な出来事の数々を眺め、それらが善悪でどう判断されるのかを見極め、そして人生にとっていちばん大切なものは何であったのかを認識する。それは、俗世での生活のなかで自分が正しいと思っていたことが実は違うのだ、ということに気づくことでもある。例えば大切な物事は、大きい家や高級な車や高い地位、財産、肩書などではなく、実は目に見えない愛や勇気、謙虚や親切であったと分かること。
まるで三途の川を渡るときのような心境かもしれない。
自分のなかにあったネガティブと向き合って、それらを処理することによって私たちは解放されていく。そのプロセスが「思い出」の浄化作用となっていく。
それは自分が生きてきた道のりを精算するワークとなる。こちらで書いてきた「人生の回収」だ。
私は何がしたくて、何をしてきたのだろう、してこなかったのだろう、ということに思いを致せば、自分の「ほんとう」が見えてくる。
ゆえにこのワークは、閻魔大王の前でするのではなく、老齢期に入ったらできるだけ早い時期に辿ったほうがよい。余生がわくわくしてくるはずだ。そういう意味で「復活」である。そしてコーリング(天命 使命)を知る。できていなかったら今からすればいいし、できていたらさらに発展させればいい。いや、もうひとつ何かすべきこと、し忘れていたことがみつかるかもしれない。
自分の「ほんとう」は、人生回収の最中にも見つかる可能性が高い。それは伏線のなかにあって、ユング的に言えば「布置」であり「シンクロニシティ」だ。
人生のヒント、道標は、人生の途上のあらゆる場所に置かれているので、リアルタイムでそれらに気づければ良いのだが、生活に追われているとなかなか難しいかもしれない。もちろん都度気づいていける人もいる。
ゆえに、老齢期に入ってできた時間の余裕によって、それらを回収することができるのだろうと、今私は思っています。