ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

人生の回収④〜タロットカード「カップ6」〜秘密は過去に存在している〜「老い」の哲学〈+α〉

「秘密」というのはどこに存在しているかというと「過去」である。すなわち「思い出」「記憶」のなかだ。

「秘密」などと言うといささか大げさに聞こえるので、単に「思い出」と言えばそれで済むかもしれない。

 

『「老いの哲学(3)」人生の終わりの厄介な恋愛秘話〜思い出カード「カップ6」』と少し重なる随想にはなるが、ここで再びタロットカード「カップ6」に登場してもらうこととする。

カップ6」はとても明るいカードであるという解釈のほうが世間一般に広がっているように思うが、私には、ただ単にほんのりとした思い出という印象はない。それは相談者さんとの対話を通して得てきた感覚である。

「思い出」は良いことばかりではない、良い思い出もあれば、良くない思い出もある、という解釈に異論を挟む人はおそらくいないであろう。

 私が(拙くはあるが)占いをするなかで得てきたインスピレーションだと、どうも良くない事象のほうが優先して出てくることがほとんどだった。それはトラウマになっていたり、過去への執着、過去からの束縛の強さを表していた。

 占ってもらおうしてやって来る相談者さんたちなので、解決できない問題や悩み、不安などを抱えているのであろうからそういうことになる、とも言える。が、どれほど幸せいっぱいに生きている人でも、ネガティブな思い出をひとつも持っていないという人は皆無だろうと思う。もしそんな人がいたら、それは逆に自分自身と向き合い直してみたほうがよい。

 ネガティブな思い出なら「手放したほうがいい」と言うのは簡単だが、人はなかなかどんな思い出でも「思い出」を切り離すことができない。なぜなら、その「思い出」に苦しんでいるにもかかわらず、その「思い出」を愛でているからだ。たとえ後々までネガティブな影響を及ぼしている記憶であっても、それはいわゆる「思い出」「自分の人生の1ページ」であって、その体験のなかには、なにやら一つの小さな小さな光の粒のような残像が漂っていることがある。それはまた、ときに温もりとしてほんのりと思い出される。もしかしたら「幸せの感覚」は、そうしたところにぽつぽつと存在しているのかもしれない。

 一方でものすごく不快で激しい嫌悪感、恨み辛み悔しさ、後悔などを伴う場合は、当時の感情がありありと蘇ってどうにも対処できないようなこともある。そうした感情の再生には、思い出の新旧にかかわらず誰もが思い至ることだろう。そこには、上に書いたような温もり的スポットはまずない。

 

「秘密」とタイトルに書いてはいるが、「老いの哲学(3)」で言及した「恋愛秘話」のような本来なら隠匿性の高い(隠しておいたほうが良い)事柄ではなく、「老いの哲学〈+α〉人生の回収④」では、個々人のなかに存在しつづけてきた人生を彩っている数々の出来事のなかで、明確にしてこなかった自身の感想や評価をはっきりとさせることによって自分自身が癒やされるという類いの事柄(秘密)だ(もちろんそこには恋愛も入ってくるだろうが)。例えば、いわゆる毒親による仕打ち、教師による誤った評価、勤務先の体質や誰かから受けた理不尽さ、あるいは自身の虚勢(たとえそれが相手への思いやり、自分の正義だと思い込んでいたとしても)や世間体に基づいた態度など、違和感があっても内に秘めて我慢している(してきた)経験、記憶である。

 近くに受け止めてくれる人がいないがゆえに、誰にも話したことがない「本心」を持っているという人は多いだろう。話したことがあっても、否定されたり、逆に自分が悪者扱いされたりということがあると益々内側に沈めていくしかない。

 

 そういったマイナス要因を表出、言語化するのを、老齢期の人生回収作業のひとつとすることができる、と私は思うようになった。

 とはいえ、なにも高齢者になるまで秘めている必要はないわけなので、人生のどこかの時点で回収というよりも解消してきた人もいるだろうし、事柄によっては自然と(あるいは良きアドバイザーがそばにいて)昇華された事もあるだろう。願わくば、あるいは出来得るならば、老齢期より前に解消できているのが理想だ。

 老年期に回収できるのは、50年60年とくすぶり続けてきた「思い出」である。繰り返すが、回収「できる」のであって、回収「しなければならない」というわけではない。

 このワークの利点は、ネガティブに感じていた思い出をポジティブに変容させることができるところだ。本当はポジティブなのに、自分の思い込みでネガティブという装飾をつけているものもあるし、実際ネガティブな出来事でも、それを消化し昇華させることでポジティブに変容させることができる。

 

 私の例で恐縮だが、つい先日、年金手続きについてあれこれ準備していたときのこと。私がはるか昔にほんの数年間勤務していたとある貿易会社のことを「あそこはヤ○ザまがいのことをしてたんだよ」と、思わず知らず言ってしまっていた。「ヤ○ザまがい」あるいは「詐欺まがい」?失礼かもしれないが、私にはそれに近く見えた。詳しいことはご想像にお任せするが、気味の悪い拝金主義の会社だった。もちろんそこで学んだこと、学ばせてもらったことはいくつかあるので感謝はしている。が、それ以外はかなり毒性をはらんでいた。上流階級気取りの社長夫婦(皇室の人と御学友でもないのに御学友と思わせたり、本来は政治家になるべき人間だったと豪語したり、その他にも挙げればきりがない)とその取り巻き社員たちの価値観に、不器用な私は合わせることができなかった。大人(いわゆる)になれよ、と言われればそれまでだが。経理の女性が自殺してしまったのは悲しくてショック過ぎた。その前後に社長の口から発せられていた言葉が私には残酷に聞こえた。人非人、ひとでなしを感じた。当時の私は心のなかでなんとかバランスを保っていたと思うが、この社長の言葉が引き金のひとつだったことは明瞭だと、今ははっきりと分かる。

 老齢期、すなわち人生の秋になった今、上記のような評価を言語化することができて、とてもスッキリした。なぜ私がそんなセリフ(ヤ○ザまがい)を反射的に発することになったのかというと、企業年金連合なるものから特別支給の老齢厚生年金(本気で微々たるものだが)を受け取ることができるという知らせを得たとき(この辺りの仕組みは素人の私にはよく分からないので情報が間違っているかもしれない)、夫が「その会社優秀だったんだね」と言うので「あの会社が優秀だったんじゃなくて〇〇〇(大手有名百貨店)が優秀なんだよ」と思わず反応した流れである。勤務していたその会社を客観的にようやく評することができた瞬間だった。企業という仕組みを詳しくは知らないが、有名百貨店の関連会社、傘下にある会社だったので、私たち社員はその有名百貨店の社員とほぼ同じ扱いだった。社販もあったし、健康診断も受けることができた。

 なんとなく心に引っ掛かっていたことだったので、ある意味回収されたと思う。気持ち悪く感じていたのは、私のせいではなく会社に問題があったのだ、とはっきり自覚させることができた。いやいや、それって自分に甘いんじゃない、と思われる読者諸氏もおられるかもしれないが、このシンクロニシティはこれで良かったと思う。スピノザのコナトゥス的に更に言えば、そもそもそこの社風と私は合っていなかったのだろう。でも若年の私はそんなことに気づかない。当時はスピノザのコナトゥスもバシャールも知らなかったし。こういうことは年を取ってからだってなかなか気づきにくいものだ。日本では根性論が美徳であり、上の人はいつでも正しく、黙って服従することができない人は冷遇され、そして自分を駄目な人間だと思わされていく。

 以前にも書いたが、居場所を間違っているのに、そこに居づらいのは自分のせいだ、自分に能力がないからだ、とたいていの人は自分を責めたりしてしまう。日本では、ちょっと意見を言うと忍耐力がないとか言われたりして、うつを発症してしまう人だっている。合わないのは仕事なのか、環境(人間)なのか、そのあたりは個別に判断しなければならないが。

 

 もちろん、自分自身に非があると反省し続けていることだって、人生のあちこちにある。しかし、それもどうしてそんなことをしてしまったのかを突き詰めていくと、それなりに理由はあるもので、一方的に自分が悪いということはそうそう世の中にはないのかもしれない。それでもなかにはひとつふたつ、それは私が悪い、ということはある。

 罪悪感や自己卑下を持ったまま死んでいくのは実はしんどいことだ。できれば回収し、解消しておきたいが、そうできないこともある。それはもう、勇気を持って認めるしかない。そして天に向って謝るしかない。そのネガティブを凌駕できるような善行をどこかでしようと心がけるしかないのかもしれない。もしかしたらすでに、人生のどこかで因果応報を受けているかもしれない。

 心がけるしかない、と書いたのは、死ぬまでの間にそれに見合った善行ができるチャンスに恵まれるかどうか分からないからだ。無理やり行動を起こしてもろくなことはない。天に謝罪したら、できるだけ心のなかから排除していくようにしたほうが、穏やかな死のためには健全だ。相手に会いに行ったり連絡を取ったりするのは、よほどそうすることに大きな意義でもない限り、やめておいたほうが無難だ。それは謝罪のみならず、どうして私にあんなこと言ったのか、したのかという疑問も直接投げかけないほうがよい。答えを知りたい気持ちは分かるし、私もときどき本気で尋ねてみたくなったりする衝動に駆られることもある。理不尽を感じている事柄こそ、そういう気持ちになる。が、回収するなら自分のなかで回収することがベストだ、と私は思っている。

 遠慮のない正直な気持ちを表出、言語化することは、セルフケアになる。誰かに話すだけがケアではない。「書く」という行為もある。それならひとりでできる。それもできそうにないのなら、できるだけ忘却の彼方へ投げ飛ばしておく(しかない)。

 

 ご法度は、夜の寝床のなかで考えることだ。夜というのはネガティブにエネルギーを注ぐのが大得意なので、よろしくない。人生の回収は、すなわち自分の人生がいかほどのものだったのか、自分は何者だったのか、という振り返りをする作業でもあるので、老齢期の場合、ときにそれは「自分の人生は成功だったのか失敗だったのか」という相対的で結論的な自己批評に結びついてしまう可能性がある。

 ああしておけばよかった、なんであんなことしちゃったんだろう云々と考え出して、自分の人生を失敗だったと断罪してしまうのは最悪だ。でもきっと朝になれば気分は戻っているはずだ。夜というのは誰でもネガティブになりやすい。

 破れた夢とか、やりたかったのに何らかの理由でできなかったこと、後悔していることは誰にでも多かれ少なかれあるだろう。全部うまくいったという人はまずいないはずだが「老齢期の今を満足」できているのなら、おそらくは若い頃のネガティブも失敗も寛容に受け止めることができるだろうし、夜眠れなくなるほどの心痛を味わうことはないのだろう。

老化した自己の全体像(略)、この新しい自己像を受け入れることがこの時期の困難な課題である。(略)

このことには個人差が大きい。気質、健康、社会的条件、経済的条件によって(略)

神谷美恵子「こころの旅 人生の秋」P148)

「気質、健康、社会的条件、経済的条件」というのは、老齢期の安寧に大きく関わってくるというのは避けて通れないのだろう、と私も思う。先に書いた「老齢期の今を満足」というのは、このことだ。

 資本主義社会においては、経済的ゆとりはいちばん大きいのかもしれない。そして健康。私自身もいささかの体調不良を経験してから、健康の大切さが身にしみている。もちろん老齢なので体力も落ちる。ゆえに若い時そのままになんでもできるはずもないので、自分の身体との付き合い方に工夫は必要だ。

 やってきた仕事に対する世間的評価が高ければなおさら満足感は大きいだろう。

 仕事や地位や健康や気質は隠遁生活で取り戻したり、満足させることはできないが、経済的ゆとりは国、行政の仕事でもあるので改善できる。ゆえにそこは自助ではなく、公助が物を言うはずなのだ。北欧がすべてうまくいっていると言わないが、すくなくとも日本よりは優しい政治であり、社会のようだ。日本の場合は、国のあり方を変えていく必要がありそうだ。経済的余裕(十分な年金)があれば、若いときにできなかったこと、諦めたことを老齢期に入ってからできる。80歳を過ぎてもまだ生活費を稼ぐための労働をしなければ生きていけない社会の仕組みだと、そうした満足を得るのは不可能に近い。

 実は上記の条件は、老人だけではなく、若い人たちにとっても同様の影響を及ぼしているのではないか、と私は思っている。生活、衣食住のために賃労働をしなければならないのでやりたいことを諦める、という人は想像以上にいる。占いの現場でも、そのような相談は多い。経済的余裕(富裕である必要はない)があれば悩まなくてもいい、そのような状況選択である。

 これは人権の問題でもあり、全世代の市民が幸せに暮らし、より良く生きることができるのか、という根源的な社会への問い掛けでもある。

 若者と老人の分断のようなことも言われている昨今だが、老人たちにとって優しい社会は、そのまま若者たちにとっても生きやすい社会だと、私は思っている。

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