ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

萩尾望都「一度きりの大泉の話」①〜夢中になって読んだ〜

 私も封印していた(何を封印していたかは③で→)。

 

「一度きりの大泉の話」
萩尾望都河出書房新社

 

 タイトルを見ただけでは、いったい何について書かれているのか分からない。

 この本の発売について全く情報を得ていなかった。もしかしたらどこかで目にしていたかもしれないが、気に留めていなかったのか。なにしろタイトルがピンとこない。しかし内容を知れば、それはピンポイントな題名だ。「そのこと」が気がかりだったファンには明瞭だったのかもしれない。

 私は、社会運動を研究している富永京子(立命館大学准教授)のツイートを読んで「え?」となった。

読んだ。人間関係から切り離された著者の自責の感覚がとにかく辛い。かつ、実際にあったことを「レジェンド」として消費するオーディエンスの無邪気さは罪だと改めて思ってしまう。思い出にも当事者がいる。
 一度きりの大泉の話 萩尾望都

 え?なになに?「とにかく辛い」ってなに?

 本の検索をして、そして即購入した。ちょうど発売日だった。

 読書をはじめてすぐに、映画評論家の町山智浩のツィートも見つけた。

萩尾望都『一度きりの大泉の話』読了。長年の謎だった『ポーの一族』の連載途中でエドガーが突然顔が変わり(過剰にまつ毛が多くなり)、また元に戻った謎が解けた。

 あ、町山智浩も読んだんだ。ヤマザキマリも読んだかな。

 そんなことを思いながらページを捲っていく。なんだか、ドキドキした。

 夢中になって読んだ。そして半分が過ぎ、次第にページ数が残り少なくなってくると寂しくなってきた。もうすぐ終わっちゃう。

 読書好きの人はそんな風に感じると昔聞いたことがあったが、私はこれまでそのような感情を抱いたことがなかった。この本がはじめて。

 私の場合は、残りのページ数が少なくなってくると逆に嬉しい。はやく読み終えて、そして次の本へいくか、考え事をしたいからだ。

 それから「夢中になって」本を読むというのも、これほどの感覚は生まれてはじめてかもしれない、と言っても過言ではないかもしれない。

 中学生のとき、ヘッセの「車輪の下」を読んでいて部屋が薄暗くなるのに気づかなかったことがあったが、それ以来かもしれない。

 読み終えてしまうのがもったいないのに、なのに夢中になっているので、4〜5時間ずつ2日で読み切ってしまった。

 1日目は「え〜、あ〜、なんてこった、これはすごい、何がすごい?」2日目は「なんというか、ハードだった、でも夢中になって読んだ、つかれた」とスケジュール帳にメモっている。

 

 さて、どこからどう書けばいいか……。

 萩尾望都の繊細な驚くべき真実と、そして私自身の個人的な思い出があれやこれやと交錯している。自分自身をどう捉えて回収していったらいいのだろう、とさえ思う。この歳になって。

 とにかくものすご〜くよく理解できたことがひとつあった。もしかしたら私のようなファンには、それがすべてと言えるかもしれないのではないか……と想像したりもするのだが……それはあとで書く。たった一言で済むのだけれど、それを書いたらこの読書エッセイはそれで完結しそうだから後回しにするのだ。

 

 2021年1月2日。NHKEテレで「100分de萩尾望都」が放送された。とにかく、それを再視聴しようと思った。この本を読んでから観ると、いささか私の受け取る器に変化があった。それに当初の視聴では、なんとなくドキドキして心が浮き立っていて、冷静ではなかったと思う。ヤマザキマリも出演するので、楽しみに観たのだった。ちなみにヤマザキが取り上げた本は「半神」「イグアナの娘」だった。

 それから、「思い出を切り抜くとき(河出文庫)」という文庫本を書棚から取り出して読み返した。私はこれを2018年6月に購入している。マーケットプレイスで「5円+送料」で買った。その納品書が文庫本に挟まれていた。どうしてこの本をわざわざ探し出して買って読もうと思ったのだろう。たった3年前のことなのに記憶にないとは。様々な情報を経由してのことだったのだとは思う。「イグアナの娘」をテレビドラマで観て、それから母娘の葛藤について何か言ってやしないかと萩尾望都のエッセイに関心を寄せたのだろうか。けれどもBSだったかCSだったかで「イグアナの娘」を観たのは2016年なので、ちょっとずれている。……分からない。

 それからさらに、先日(2021年3月31日)発売されたばかりの「ヤマザキマリ対談集(集英社)」でヤマザキ萩尾望都が対談しているので、それも再読した。「ヤマザキマリ×萩尾望都」は、正確には対談ではなく「2020年4月23日から5月2日にかけて両氏が交わしたメール往復書簡をもとに再構成した」もので、リモート対談でもない。この対談集でヤマザキは11名の著名人たちとスポーツ談話を交わしている(オリンピックとヤマザキの連載中の漫画「オリンピア・キュクロス」にちなんで)。

 この対談集には、内田樹(思想家・武道家神戸女学院大学名誉教授)も登場している。内田は竹宮惠子と「竹と樹のマンガ文化論(小学館新書)」という本を出版している(内田樹の本は15〜20冊読んでいるが、これは読んでいない)し、対談もしている。竹宮は京都精華大の学長だった。2018年4月から学長に就任したのは、アフリカ出身のウスビ・サコ。内田が「サコ学長、日本を語る(朝日新聞出版)」を紹介していたので私はそれを読んでいた。なかなかユニークな大学のようだ。サコ学長の前の学長が竹宮だ(現在の肩書は。元学長で名誉教授)。竹宮学長のときに内田は京都精華大学客員教授を引き受けている。そんなつながりから私は竹宮の近況を知り得ていたので竹宮惠子は大学の学長にまでなってすごい人だな、と近頃は思っていた。

 

 もちろん、萩尾望都竹宮惠子が無関係ではないことは知っていた。

 私はここで、この二人の関係性とその是非について問うつもりは全くない。

 ただ、この二人はずっと仲良しなのだと思い込んでいた。

 

 私と二人の漫画との出会い。

 まず、竹宮惠子の「風と木の詩」と出会う。出会ったときはかなり話は進んでいたが、まだ連載中だった。最後まで全部読んだかどうか記憶が定かではない。

風と木の詩」を読んでいる最中に「トーマの心臓」と出会う。それから「ポーの一族」「11人いる!」と、のめり込んでいった。

風と木の詩」と出会ったきかっけは全く記憶にない。理由はたぶん、私がウィーン少年合唱団が好きだったからだと思う。

トーマの心臓」は、「風と木の詩」について語る私に誰かが教えてくれたのだと思う。それとも自分で本屋の棚で目を惹かれたのかな?そのあたりもあやふやだ。このとき私は予備校生だったのだが、そこで知り合った誰かが教えてくれたように思っている記憶のほうが正しいような気がする。

 それから私は、「風と木の詩」は連載中だったので、すでに完結している萩尾望都の作品のほうに夢中になっていった。「トーマの心臓」は常に枕元にあって、毎晩眠る前に読んでいた。私にとっては言ってみれば聖書のごとくだった。「ポーの一族」では「ランプトンくん」の絵を探してそのポスターを買った(強く求めているものってシンクロする。プラプラ歩いていて偶然見つけたのだった)。そのうえ、マンガのなかにあるエドガーがモデルのランプトンの複数ポーズの絵が本当に存在すると思い込んで、友人にもそんなふうに言っていたと思う。友人からは「あれは漫画のなかだけ」と呆れられた。

 大学ではアニメやマンガのファンの人がけっこういて、アニメ制作の視点から、あるいは哲学的視点からとさまざまに語り合えた。「11人いる!」のタダトス・レーンを見て「やっぱり地球人っていいよねぇ」なんて言っていた。私はフロルが好きだった。そういえばこれ、感染症のエピソードでもあったんだな。忘れてた。

「100分de萩尾望都」のなかで、ヤマザキマリが言っていた。「トーマの心臓を読んだとき、少年になりたいと思った」と。私も、いや私と友人たちもそうだった。この番組の日のヤマザキは、かなりおしゃれではあったが「ギムナジウム」の制服を意識したようなファッションだった。私も友人とともに、ジャケットとリボンタイを新宿伊勢丹で買った。そしてしばらくその服装を楽しんだ。ギムナジウムというのは、大学へ進学する生徒たちが通うドイツの高等学校(日本で言えば小4〜高3くらいまで)。

 そして私はドイツ語を勉強した。のちにゲーテ・インスティトゥートに通ってしっかり学んだ。そして貿易会社で働いていたときには、ゲストドイツ人の通訳までやらせてもらった。

 はじめてドイツを訪問したときには「トーマの心臓」に出てくる地名に、いちいち反応したりした。カールスルーエとかヴィースバーデンとか。列車に乗ったり、時刻表を見たりするときやたらと感激した。

 ザンクト・フロリアンというオーストリア修道院へ行ったとき、とてもよくしてもらった。そこには修道院づきの聖歌隊すなわち少年合唱団が住んでいた。2人の団員ゲオルクとヨーヘンと親しくなってしばらく文通が続いた(ゲオルクの父親はオペラ歌手だった)。日本公演のときには東京で再会できた。ゲオルクがプログラムにメンバー全員のサインをもらってくれた。

 日本でいっしょに仕事をした「ワインの女王」と仲良くなって、のちに遊びに行かせてもらった(フランクフルトの近くの女王だった。ワインの女王ってあちこちにいるのだ)。その他にもドイツ(人)とは縁の深い時期が続いた。それもこれも萩尾望都の影響が多大だったと思う。

 

 萩尾望都はたいへん繊細な人だ。そしてものすごく哲学的な人のようだ。この本を読んでその確信を得た。

 哲学的という表現を誤解されては困るが、いわゆる哲学史や哲学用語や哲学者をよく知っているという意味ではない。本人が哲学者なのである。すなわちよく思索する人、自己と対話する(できる)人。

 思想家はそれを言語化して物するのだが、萩尾はそれを漫画で描いてみせる。

「100分de萩尾望都」の論客たちも、萩尾が作品に託した思いを読み解こうと語り、語り合う。

 思想家は事細かく執拗に言葉を尽くす。誤解がないようにと。それでも、あるいはそれゆえ、ややこしくて難解な学術論文のような著述になっていることが多い。読み解きやすい簡単な表現はプライドが許さないのかもしれない。読者に広く理解されなければ研究の成果もいかばかりかと、私などは思うのだが。

 物語にしてもらうと分かりやすくなる。が、萩尾の作品は違う。学術論文のように難解で退屈というのではない。「深い」のである。そしてたぶん、時代を先取りしている。それは「それ」について感じている人は昔からいるのだけれど、「それ」について語る人がいなかった、という意味である。

 例えば「イグアナの娘」は、今では大変メジャーとなっている「毒親」の話だ。発表は1992年。ドラマ化が1996年(主演・菅野美穂テレビ朝日)。私には萩尾作品の全てを論評できる知識が全くないのだが、「イグアナの娘」以前から萩尾が多少なりとも書いてきた家族というテーマのひとつではあったのかもしれない。しかしこれ以降、毒親の存在は確実におおっぴらに明るみに登場し、毒親を持つ娘息子たちが世間で語りはじめる。

 母娘(親子)問題はそれまでにもあった。あったがあからさまな毒親という観念はほとんど誰も持っておらず、いや持っていたとしてもそれを口にすれば親不孝で片付けられてきた(今でもそういう意識の人はまだいるが)。が、人々は次第に正直に親子問題、家族問題に向き合うようになった。そして「イグアナの娘」は、親との関係に苦しんでいる人たちの解放の一助となっていったのではないか。すなわち親が毒なんだという気づきによって、娘息子たちが自己処罰的観念から解放されていく(それで一件落着ではないが)。信田さよ子(心理学者・臨床心理士)も、子育ては親の責任だと言い切っている。あなたたちは何も悪くない、と。

「半神」では、家族、姉妹間の葛藤が描かれつつ、自己のなかの善悪の葛藤へと落とし込まれていく。ちょっとホラーな雰囲気も漂う。

 一方で、萩尾望都の真骨頂はSFにもあらわれている。

「11人いる!」の世界観は「スター・トレック」を彷彿とさせる、多様性の世界。

「100分de萩尾望都」で紹介された「バルバラ異界」を恥ずかしながら私は知らない。複雑で壮大な物語らしい。ヤマザキマリ曰く、ハリウッドで映画化するんじゃないか、と。いや、ぜひしてほしい。

「半神」も「トーマの心臓」も「ポーの一族」も、ハリウッドなら上手につくってくれそうだ。人間のシビアな部分や社会問題をしっかり描くことのできる土壌があるからだ。日本だとそうはいかない部分や暗黙のルールがあるらしく、いつも中途半端だ。

 話はいささかずれるが、NHK朝ドラ「スカーレット」も「おちょやん」も、いい話で回収されているが、どちらも実は主人公の夫がクズな物語だ。さすがに朝のドラマはさわやかでなければならないというコンセプトがあるのか、クズのあたりはあっさりと通り過ぎながら、良い人の域を逸脱しないようにしている。女性蔑視と夫の女癖の悪さを隠さなければハリウッドに持っていけると思う。「天才作家の妻」「メアリーの総て」みたいな感じで。

 このような社会性を含む物語の場合、日本では一番大切なところを描かない癖があるように私は感じている。描かないのか、描けないのか分からないが。そう考えるとテレビ朝日の「イグアナの娘」は、なかなか健闘していた。

 

「一度きりの大泉の話」を読むと、萩尾望都という人物が非常に敏感な精神を持って生まれたことが分かる。そしてどうやら、そのことを親は理解してくれていなかったようだと読み取れる。話が通じなくて、自分は宇宙語を話しているのかもしれないと思った、とNHKのインタビューで話していた。私自身、自分はもしかしたら宇宙人なんじゃないかと、子どものころ同じように思っていたことがあったので、較べては失礼だがなんだか嬉しい。

 萩尾望都のすごいところは、家族に否定されても、編集者に拒否されてもめげないところだ。へこんだり、あれこれ反省したりはするが「自分は間違っていない」というところへたどり着く。高い能力と、そうせずにはいられない使命とも言うべき天性が、ある種の遠慮を無用にさせているのかもしれない。

 

 その萩尾が、苦しんだ出来事。それは大泉で起きた。

大泉に住んでいた時代のことはほとんど誰にもお話しせず、忘れてというか、封印していました。

しかし今回は、その当時の大泉のことを初めてお話ししようと思います。

 と本著の帯にある。

 

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トーマの心臓 ©2021kinirobotti