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映画「名もなき生涯」〜頑迷な殉教の選択という哲学的命題〜地球が壊れないために〜

 けっこう受け止め難かった。

 

「名もなき生涯」2019アメリカ・ドイツ

監督脚本/テレンス・マリック

 

 映画評論家の町山智浩が称賛していたし、いわゆる有名なヒーローでもなんでもない人間の人生が描かれているということで、観たいなぁと思い、期待していた。

 W0W0Wで放送されたので録画していたが、しばらく観る機会がなかった。

 

 その間に、「ゲド戦記」の翻訳を手掛けてきた清水眞砂子(児童文学評論家・青山学院女子短大名誉教授)のエッセイを読む機会を得て読んだ。

 そのなかで「名もなき人々」のエピソードがいくつか語られていた。

 私の言葉でまとめさせていただくと、世の中にヒーローとして広く認知されているような人ではなく、例えば戦争中だったらアンネ・フランクの家族をそっと助けた人たちとか、日常生活のなかでふっと手を差し伸べてふっと立ち去っていく人とか、マスコミは押しかけて来ないけれどそれこそ人知れず善なる活動をしている人とか、そういう人たちがいるから世の中、世界、地球は腐らないですんでいる、そういう話を清水がしていた。

 そういう人たちの何人かはいずれ世間に知られるようになることもある。例えばスーパーボランティアの尾畠春夫さんは、記憶に新しいところだ。

 また清水は別の観点からも語っている。かつて「魔女狩り」が行われていた時代にもし自分がいたら「魔女を殺せ!」と「叫ばない側」に自分が立てたかどうか分からない。多数派の悪のなかで誰も言わない(言うことができない)善を表現できるのか、ということだ。

 

 ちょうど「名もなき人々」の善意や世間に広がる悪に従わないでいられるのかどうなのか、ということを考えていたこともあって、いよいよこの映画を観ようと誘導された。なにしろ173分、3時間近くの長編。時間も必要だし、ある種の覚悟も要る。

 

 町山智浩が言っていた通り、映像が美しい。ライトをいっさい使わず自然光のみで撮影しているとかいうことだ。そうしたカメラワークや技術的な面からすれば、たくさんの賞賛と学びがあるのだろうが、私は映像技術には素人である。ゆえに、そちらの側面からの批評は全くできない。

 ただ、素人が観ても映像はほんとうに美しい。まるで絵画のようでもある。ところどころに挿入されるヒトラーとナチの実際の映像が対象的で、それによってあの戦争についての物語なんだな、と分かる。

 

 ヒトラーに抵抗して殺されてしまった人の話というように聞いていたので、レジスタンス的なものを想像していたが、これは全くそうではない。

 だからなのか、なんだかとても受け止めきれないものを私はこの映画から感じてしまったのだった。

 そういう意味ではハードだった。

 私事で恐縮だが、ここひと月ほどの読書がハードなものばかりだったので、ちょっと重たくなってしまった心をほぐそうと映画を観ることにしたのに、かえって重たくなってしまった、というのが正直なところだった。

 

 この映画の根底にはキリスト教と受難(殉教)というテーマが横たわっている。いわゆるレジスタンスとは違うのだ。バッハのマタイ受難曲が流れるシーンがあったので、あ、そうか受難劇なんだ、と思った。

 

 主人公フランツと神との関係、それを基軸に物語が動いていく。

 ヒトラー、ナチ、人を殺すことは「悪」だからできない。徴兵を拒否する。

 その言動によって家族全員が村八分にされるのは当たり前だ。日本でもそうだった。

 

 この映画をずっと観ていくと(途中眠くなってしまったが)、フランツのこの頑迷な態度に私は反発心さえ抱いてしまった。そこまでするか?

 

 日本でも戦争中、国に従わない人間は捕まったりした。ゆえに我慢した。いつまで続くかは分からないけれど耐えた。みんながみんな監視役だったわけではなく、みんながみんな悪の側だったわけではなく、善なる心を秘めて耐えている人たちも少数派だったかもしれないがいた。そういう人たちは、こっそりと困っている人を助けてくれていた。どうしても戦地に行くことが苦痛で、逃げ出したり、自死したりする人もいた。妹尾河童の「少年H」では「オトコ姉ちゃん」が徴兵拒否して自殺してしまった(このシーン、私はオトコ姉ちゃんの母親が不憫でならなかった)。一方で病気などで戦地へ行けないことを恥じている人もいた。そして兵隊さんを出していない家は近所から白い目で見られたりした。そんななかで、今の状態がおかしいと感じている良き日本人たちはなんとか生き延びようとしていた。

 

 兵役がいやなら病院で働くことができると勧められたのにフランツは、それはヒトラー服従することになると言って断っている。このときこの話を受け入れればよかったのに、と私は思った。そうすれば死刑にならず、戦争が終われば、妻と娘たちと暮らすことができたのに。あと1〜2年だったのに(歴史を知っているから言えることだが)。

 

 神は応(答)えてくれない。遠藤周作の「沈黙」もそうだった。その視点から思考を展開すると終われなくなる。

 

 ということでこの映画は、私にとっては納得のいかない映画だった。他の登場人物が言っていたように、信仰は心だと思う。致し方のないときには、致し方のない対処をすることを神様だって分かってくれるのではないか、とは不敬な考えだろうか。

 フランツのこうした行為が世の中を変えることができるのか、と問われるシーンがあったが、それはまさに「名もなき人々」の人知れずなされている行為のことであろう。劇的に何かを変えることはできないだろう。だが、着実にその行為によって助けられている人たちがいるそういう行為だ。あるいは、誰かの勇気ある行動、それに賛同し追従する人たちが現れる、そういうこともある。

 

 この映画は実話に基づくもの。収容されているフランツと村にいる妻の間で交わされた手紙が残っていた。それは映画のなかでしばしば朗読される。

 町山情報によると、1980年代くらいからオーストリアでこの夫婦の存在が話題にのぼっていき、二人の往復書簡がどんどん有名になり、2007年にローマ・カトリック教会がフランツを殉教者として正式に認めた、という。

「名もなき人」もどこかで世間に知られるときがくることがある、と先述したが、これもその一例だ。そして、フランツの態度、行為が何か変革をもたらすことがあるのか、と今問われれば「あった」と言えるのかもしれない。

 

 この映画の捉え方は様々だと思うが、フランツの短い生涯と残された手紙があったからこそ、こうして映画となって世界中の人に何かしらの思いを届けることになった。そしてやはり、戦争がいかに残酷な悲劇であることかを伝えるひとつのストーリーであることは、他の戦争映画に引けを取らない。

 と同時に、監督のテレンス・マリックハーバード大学で哲学を専攻したそうなので、ある種の哲学的命題をも観客に投げかけているのかな、とも思う。すなわち、そこまで頑固に?と私の思考が拒絶反応を起こした部分だ。

 

 映画の最後にジョージ・エリオットの言葉が出てくる。

歴史に残らないような行為が世の中をつくっていく。

名もなき生涯を送り

今は訪れる人もない墓にて眠る人々のお陰で

物事がさほど悪くはならないのだ。

 これは先述した清水眞砂子が言っていることと同質だ。清水は英文学者なのでこの言葉を知っているのだろうとは思うが、私が読んだエッセイのなかにエリオットの名前が出てきたかどうか記憶が定かではない。

 

 巨大な悪がはびこる世の中で、人知れず善意が繋がれていけば、地球の破壊は免れていくのだろう(昨今の気候変動などを考えるとそれも怪しくなってきたが)。

 そういう意味でこの映画の意義も大きいのだろうと思うが、哲学的命題は依然として私のなかには残る。

 またそれも含めて主人公の人生の選択は、人類への大きな問いかけとなっているのかもしれない。 

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