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「35歳の少女」〜タイムワープの妙技〜

このドラマが描く世界観は……

 

「35歳の少女」日本テレビ 土曜夜10時

脚本/遊川和彦

柴咲コウ 坂口健太郎 

鈴木保奈美 橋本愛 

田中哲司 竜星涼 

 

希望(のぞみ・柴咲コウ)は、10歳のときに自転車事故で意識が戻らない状態になった。生命維持装置を外す決心を希望の母・多恵(鈴木保奈美)がした日、希望の意識が戻った。25年が過ぎ去っていた。

10歳で時が止まっている希望は、家族の容貌の変化、そしてなりより35歳になった自分の姿を見て戸惑う。

そこから物語がはじまる。

 

遊川和彦の脚本で「意識が戻らない」人物の物語は他にもある。昨年(2019年)日本テレビで放送された「同期のサクラ」、2012年のNHK朝ドラ純と愛

純と愛」では純の良き理解者で夫の愛(いとし)くんが、物語終盤で脳腫瘍に倒れる。手術をするがそのまま目を覚まさない状態に。ちなみに、いとしくんの母(若村麻由美)の名前は多恵子。希望の母が多恵。

「同期のサクラ」では、サクラ(高畑充希)が、隣人の子どもを助けて交通事故に合い、脳挫傷で意識不明となる。

 

サクラは事故から9ヶ月後に目覚めた。そこまでの物語も痛快だった(世の中の理不尽さとの対峙も含めて)が、眠りから目覚めたあとの最終話でも、サクラはやってくれた。

いとしくんもなかなか率直な意見を持っている人だったが、最後に眠ってしまい、そのあと目覚めないまま物語が終わるという、なんとも言えない歯痒さも残った。これをもって遊川は何を訴えかけようとしていたのか、実はいまだに首を傾げている。なぜなら、そこまでは、夢と理想を持ち続けて諦めない思いが苦難困難のなかでもシンクロニシティを引き起こしてくれるという神秘的なポジティブが描かれていたからだ。確かに(朝ドラにはふさわしくない暗い展開だという声もあったほど)純といとしくんに降りかかる苦難困難がけっこう半端ないのではあるが、いとしくんの病と意識不明は、その最たるものとなった。もしかしたら「純と愛」は、中途半端に終わったのではないか。

ゆえに「同期のサクラ」では、サクラが眠っている間にそこまでの10年間の仲間たちとの物語が語られ、さらに目覚めてからの続きがあった。

そして「35歳の少女」の希望(のぞみ)は、眠っていた期間が25年と長く、浦島太郎タイムマシーン状態ではあるが、とにかく目覚めてくれた。

背景は違うけれど、この3作品には関連性があるのではないか、と恣意的に感じている。

 

さて、別の側面をもうひとつ。

希望は浦島太郎状態だと先に書いたが、ある種の異世界ものとも言えるのかもしれない。

35歳で目覚めた希望は、姿形はりっぱな大人だが、心は純真な子どものまま。いきなり「大人の世界」すなわち「俗世」を生きていかなければならない。

いわゆる汚れを知らないキャラクターがこの世のあれこれを体験してゆくという物語でもあるのかもしれない。

例えば、岡田惠和脚本の泣くな、はらちゃん(2013年日本テレビ)」とか、木皿泉脚本のQ10(キュート・2010年日本テレビ)」

泣くな、はらちゃん」は、マンガのなかから出てきたはらちゃん(長瀬智也)が、世間には悪い人もいる、戦争で人が殺したり殺されたりすることを知って心を痛めたり、人々に素直で率直な気づきを与えたりする。「Q10」は、Q10前田敦子)がロボットなので世間のことが分からず、それを戸惑いながら教えていく主人公の平太(佐藤健)が、同時に自分自身や社会を見つめ直していく。

すなわち、異質で純粋な存在によって、世間擦れした人間たちが刺激されていくという物語。

「35歳の少女」にもその要素があるのかもしれない。まだ2話までしか見ていないので分からないが。

さらに言えば、やはり遊川和彦脚本の過保護のカホコ(2017年日本テレビ)」も、その類いと言ってよいだろう。過保護に育てられすぎた加穂子(高畑充希)の世間知らずな言動が正論でポジティブゆえに、周囲は戸惑いながらも助けられていく。

 

「35歳の少女」。キーパーソンは4年生のときの同級生で初恋の相手で、事故に合ったせいで返せなくなっていた「モモ」を貸してくれていた結人(坂口健太郎)だ。

第1話では、「モモ」を返したいという希望の思いを汲んで、多恵が結人を家に呼ぶ。

そこで結人が言い放った心の叫びが、現代社会を反映した正論なのだ。言ってみれば女王の教室遊川和彦脚本/2005年日本テレビ)」の阿久津先生(天海祐希)が生徒たちに淡々と言い放った、夢も希望もないお説教と似ている。

 

21世紀は戦争や差別もなくなって、みんなが仲良くなるって信じてる。

これは希望が4年生のときに書いた作文。

ハルマゲドンだ、ノストラダムスだと言われながら、20世紀には私もそう思っていた。こう思っていた人は実は多いのではないか。

ところが21世紀は、時代が逆戻りしたかのようになってしまった。非民主的独裁と差別、カルト的マインドが世界に蔓延しはじめている。そこへ資本主義の最後のあがきが人類を苦しめ、地球に悲鳴をあげさせている。

より良い世の中になると信じていた未来に行ってみたら、破滅寸前の世界になっていたとしたら?そんな世界を私たち地球人は今生きている、ということになるのだろう。

 

結人の夢は教師だった。教師にはなったが、いろいろあってやめた。今は代行業をやっている。

自分の教師の夢と教師像、そんなの嘘だったと言う結人。

そして、結人はついに言う。

おれはもう教師なんてやってません。ばかばかしくてやめました。今のガキは大人のことなめてるし、保護者はどいつもこいつもガーガーうるせぇし。

わりぃな、ご期待にそえなくて。

(略)

おれはもう、おまえが思ってるような結人くんじゃねぇんだよ。夢とか愛とかあまっちょろい言葉聞くと虫唾が走るし、おれは毎日ぶらぶら楽して生きられればそれいいんだよ。

ついでに言うとな、今はおまえが夢見てたような未来じゃねぇんだよ。

温暖化やら差別やら原発やらいっぱい問題があんのに、そういうものには目をつむって、みんな自分が得することばっかり考えてんだよ。おまえもさ、ずっと寝たまんまのほうがよかったんじゃねぇの!

あと何年もつかわかんないこの星で、生きていく心配なんてしなくてよかったもんな!

これを聞いた希望は、子どものように泣きじゃくる。

結人の言うことは尤もだ。ごく自然な流れのなかで年を重ねていった人々からすれば、悲しいかな、子どものころの純真な気持ちでは生きていけないことをみんな知っている。

個人的なことだけではなく、社会の不具合から気候変動までを訴えかける結人は、絶望を感じているのだろう。こんな壊れていく地球なんか知らなかったほうがよかった、と希望にも自分にも言っているのだろう。

 

街なかは、25年前と全く様相を変えている。

しかし、図書館だけは以前のままだ。結人もそれに気づいて驚く。

 

 「長いこと眠っていた。もう誰もいない。すべては過ぎ去った」これは「モモ」の一節。図書館で希望がつぶやく。

自分の顔も身体も声も嫌だと言って泣く希望。目が覚めなければよかった、と。

結人は、この前言い忘れたことがあると言って話しだす。

誰とでもすぐ親友みたいな口きいて、テストでいい点取ったやつがいたら、やったじゃんて自分のことみたいに喜んだり、リレーでバトン落としたやつがいたら、悔しいよっていっしょに泣いてるおまえ見てたら、

世界中こんなやつばっかりだったらどんなに素晴らしいだろう、って思った。

ときどき乱暴な口調と意地悪な顔つきになる結人が、実はパターナリズムとは違う感覚を幼少期から持っている人なのだな、ということが分かるシーン。

 

結人くんは教えるのがうまいから先生になったら、と希望から言われて教師になった、と話す結人。そして、希望が自分の初恋だったと告白する。

こんな世界だけど戻ってきてよかったんだ。

こうしてまた会うことができたろう、おれたち。

 

第2話では、希望と仲の良かった二人の同級生と会ってみたいと結人に頼む。二人は子どものころの夢を叶えているのだろうか。……全く違っていた。保育園の先生にもケーキさんにもなっていなかった。しかも、二人とも自分の夢を忘れていた。高校までは夢とかあったんだけど、と言う二人。

二人とも優しくて、また会おうって言ってくれた、と喜ぶ希望に、インスタを見せる結人。元親友は3人で撮った写真をインスタにアップして、心無いコメントを書き込んでいた。

それは、あいつらが優越感に浸りたいだけ。

おまえに比べたら自分はなんて幸せなんだろうって、自己満足したいんだよ。

今は、ネットってやつができたせいで、人間み〜んな変わっちゃったの。表じゃ人目気にして言いたいことも言わないくせに、裏じゃこういうもん使って人の不幸笑ったりしてんだよ。

なんで?みんないい人だ、と言い張る希望。

そして、事故を起こした坂道を自転車で無謀に下る。戻れるかと思って。

中学にも高校にも大学にも行きたかった。アナウンサーにもなりたかった、と泣く希望。

ママははやく大人になれって言うけど無理だよ、と。

だったらそのままでいろよ。無理におとなんなる必要なんてねぇんだよ。そもそも世の中、本当の大人なんているのかって話だし。

外見なんて気にすんな。おまえの好きなようにやればいい。大人になんのはそれからだ。

 

「大きな不安ともっとおっきな勇気(「モモ」)」25年も眠ってたんだから、おまえには誰よりも人生を楽しむ権利がある。やりたいことをやる権利がある。

大きな勇気を持って、これからいろんなものをいっぱい見て、聞いて、考えるんだ。

成長しろ。

 

「そもそも世の中、本当の大人なんているのかって話だし」

「大人になれよ」とは、社会に出るとよく聞く言葉だ。それはすなわち、黙ってろとか、空気よめとか、いわゆる忖度を求める権威主義、自発的隷従をすることだ。その理不尽さに挫折する人、馴染んで保身のためだけに生きることを選択する人がいるのが悲しいかな社会の実態だ。そういう意味で大人になれなかった人は負け組グループに入ることになる。

そういう世間的な大人を、結人は大人だと思っていないようだ。

 

「外見なんて気にすんな。おまえの好きなようにやればいい」

これは、お子様ランチを食べたり、バルーントランポリンで遊ぶことを多恵に止められた希望に、それらをやってみる勇気と許可を与えることになるセリフだ。同時に「外見」「人目」を気にしてやりたいこともできずにいる視聴者に向けてのセリフでもあると私は受け止めた。

 

「いろんなものをいっぱい見て、聞いて、考えるんだ」

見聞そして思考。思考、思索するためには土台が必要だ。見たり聞いたり読んだりして学ぶこと、すなわち教養だ。

「大人になれ」ではなく「成長しろ」。

 

希望の自転車事故を、それぞれがそれぞれなりに自分のせいだと思っている家族に、みんなは悪くない、自分が悪いんだ、と言って父母と妹の心の傷を癒やす希望。原因というのは重なり合って結果を引き起こすものなのだな、ということが分かるシーン。他罰からも自罰からも卒業する家族。

 

希望は、「私、成長するね」と宣言する。

 

すっかり変わってしまった街の様子のなかで変わらない建物があったことを上に書いた。

この図書館のシーンは、古代から続く「知」の永遠性を体現しているのだろう。変化のなかにあって変わらないものがある。それは知性。そして知は変化するのではなく、成長するものだ。

 

さて、このドラマのなかの「成長」は、いかように描かれるのか。楽しみだ。

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「35歳の少女」 ©2020kinirobotti