ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

「35歳の少女」〜This Is Us〜希望は諦めない〜

私が予想した内容といささか違っていた。

 

「35歳の少女」全10話 日本テレビ2020年

脚本/遊川和彦

柴咲コウ 坂口健太郎 

橋本愛

鈴木保奈美 田中哲司 

富田靖子 竜星涼

 

遊川作品は、深刻な内容やハッピーエンドとは言えない終わり方が多いように思う。ハッピーエンドに終わればいいかと言えばそんなことは全くないのだが。

 

前にも書いたが、登場人物が「昏睡状態になって目覚めない」という設定は、遊川作品には他にもある。「純と愛」「同期のサクラ」。これらについてここで詳しく語るわけにはいかないが、ひとつの疑問は、どうしてそんな状況をつくるのだろうということだ。「同期のサクラ」(日本テレビ2019秋)放送から1年しか経っていないので、余計にそういう思いは強かった。え?また?という失礼な感想も、正直なところ抱いてしまった。

けれども、これは何か意味があるに違いと思い、「35歳の少女」放送開始当初には、過去の2作品で描ききれなかったものを描こうとしているのだろうと、独善的な記事を書いた。

 

私がちょっと予想していたのは、すなわち希望(のぞみ・柴咲コウ)が10歳で自転車事故によって昏睡状態となり目覚めたときには35歳、外見は大人だが中身は子どもという特性が大いに生かされる、というストーリーだ。

以下の一節が私の思考にたいへん近いので、すこし長くなるが引用する。

まず、子どもは大人にとって“当たり前”のことに疑問を投げかけてくる。それは大人の世界では、“常識”と言われ、考えたり行動したりする時の大前提になっていることである。子どもは、ある意味“未熟”であるがゆえに、それが分からない。だから、何を言ってもいい、何を聞いてもいい哲学対話の場になると、子どもはしばしばそうした常識に問いを向けてくる。それに応答するのは、大人にとって大きな挑戦となる。

そこで大人は、自分たちには当たり前のことを、なぜそうなっているのか、なぜそれが正しいとか大事だと思っているのか、あらためて考えなければいけなくなる。そしていざ考えてみると、理由がよく分からなかったり、実際には正しいとか大事とは言えなかったりすることに気づくことも多い。

(梶谷真司「考えるとはどういうことか」P159)

ゆえに私は、岡田惠和脚本の「泣くな、はらちゃん」(日本テレビ2013年/主演・長瀬智也)、木皿泉脚本の「Q10(キュート)」(日本テレビ2010年/主演・佐藤健)との同質性を感じたのだ。これらドラマについても詳しく述べることは省かせていただく。

 

けれども、そういった類いとはちょっと違っていた。なにしろドラマに一貫して流れている価値観が、ミヒャエル・エンデの「モモ」だ。のぞみと、のぞみが大好きなゆうとくん(結人/坂口健太郎)の小学生のときからの愛読書だ。

「モモ」のテーマは「時間」と「人のつながり」。

まさしく、希望は25年間眠り続けていたのであり、すなわち希望の25年は失われた時間。

その25年の間に、世の中も家族も友人たちもすっかり変わってしまっていた。変わっていないのは希望だけ。

第1話で、結人が望美に向かって吐き出したセリフが「アルファでありオメガである」ように思う(前の記事に載せてあります)。

望美はみんなの幸せや平和を願っていたが、そんなものどこにもないし、そんな世の中にはなっていないという現実を、結人は自分の人生へのもどかしさも含めて叫ぶ。

けれども変わっていないものがひとつがあった。街の図書館。太古の昔から積み重なっている人類の叡智がある所だ。そこは知らないことを教えてくれて、人間の心を豊かにしてくれる。これはとても象徴的だと思う。もちろんそこには「モモ」もあるだろう。

どんなに世間が騒がしくなろうと、人間が強欲になろうと、残酷になろうと、自分本位になろうと、図書館には思索と文化と神聖な静寂がある。

 

望美の心に宿っていた思いや願いは変わらない。家族や友人たち、人々もみな、25年の間に変わってしまったように見えるが、心に宿していた「夢」や「希望」「願い」はなくなってしまったのではなく、忘れてしまっただけ。図書館は長い年月そこにあるけど、その存在すら忘れられているのかもしれない。

希望の周囲の人々は希望と触れ合うことで、その忘れてしまった願いを思い出していく。最終話で、それは明確だ。

なぜ忘れてしまうのか。日々のせわしない生き方や、長いものに巻かれないと生きていけない世の中の仕組みや理不尽さによって、人の心が疲弊していくからだ。

10歳ののぞみは、みんなが当然ながらなりたいものになっている、やりたいことをやっている、と信じて疑わない。

35歳の自分もアナウンサーになれると信じている。

 

25年間、みんなはいったい何をやってきたんだろうと、希望が憤怒してもおかしくない。

ドラマ後半、ユーチューバーになって「今だけ金だけ自分だけ」で生きることにした自分の思想を語る配信動画は傑作だ。言ってみればみんなそうやって強欲資本主義を生きているのに、希望がそれを肯定し始めたら止めにかかる。

希望の服装と様子が「女王の教室」の阿久津先生のようだった。これも遊川作品。

人は、平和を愛しなさいと言っても逆らったりするが、暴力をふるいなさいと言うとそれはあり得ないといい人になったりする。演劇で悪を見せるのにはそういう教育的効果もあるそうだが、一部には影響されて悪を体現してしまう人もいるので、難しい。

あるいはそういう話はカルト化しやすく、発信する人は教祖化しやすい。

受け取る側の洗脳度は、その人の良心がいかばかりのものであるのかに関わってくるのだろうとは思う。

 

最終話では、35歳の少女である希望と触れ合った人たちが、それぞれ自分の夢を思い出してそこへ向かっていくことになる。希望も北海道どさんこテレビのアナウンサーとなる。

 

私はミヒャエル・エンデが好きだが、実は「モモ」はあまり好きではなない。むしろ「ネバーエンディング・ストーリー」には素直に夢中になった。両方とも映画になっている。エンデは「ネバーエンディング・ストーリー」の映画をあまり気にっていないという話をどこかで読んだが、私は嫌いではない。何度も繰り返し鑑賞したほどだ。ネバーエンディング・ストーリー①」で描ききれなかった分は②で描かれていたが、映画によくありがちなことで、シリーズものは次第に内容が劣化していく。ゆえに私は、必要な物語がすべて入っていなかったのは承知しているが「ネバーエンディング・ストーリー①」の映画もよくできていると思っている。

 

話がすこしずれたが、結論から言うと、「35歳の少女」の隠されたテーマは、いや隠されてはいないが、「これが私だ(This Is Us)」と「夢を諦めない」なのだ。最終話の最後でそれは分かる。

だとすると、「ネバーエンディング・ストーリー」的要素もあるのかな、と思ってしまった。南のお告げ所で主人公の少年が鏡に映る本当の自分の姿を見るシーンがあるのだが、「35歳の少女」の登場人物たちにとってその鏡は希望だ。そして、少年の勇気ある冒険にもかかわらず虚無によって破壊されてしまったファンタージエン。その宇宙空間には、最後の最後、象牙の塔だけが残っているのを少年は龍ファルコンの背中に乗りながら発見する。そこに降り立つと、女王である幼心の君がいた。彼女はこう言う。「ファンタージエンはあなたの望みによって新しく始まる」と。そして光る砂の粒を少年に渡す。願いなさい、と。

少年はここにたどり着くまでに自分の冒険譚をつくってきた。すなわち「これが僕です」。

なぜ世界は虚無に覆われて破壊されていったのか。それは、人間が希望をなくしたから。

 

希望がアナウンサーごっこをしたときの録音テープが残っており、目覚めた希望はそれを聞いて当時の自分を思い出すというシーンが毎回出てくる。この設定を煩わしく思う人もいるかもしれないが、過去を振り返る道具としては、アナウンサーが夢だという少女とつながって、よく練られた脚本だなと私は思った(最初は私も多少わざとらしさを感じた)。

記憶を抽象的に辿るのは難しいし、覚えていたとしても記憶違いということは多い。日記や手紙などを読んだり、写真を見たりして、え〜そうだったっけ、そうだそうだ、と記憶が鮮明に蘇ることもあれば、自分で書いたものを読んですら思い出すのに苦労したり、ついには思い出せないことだってある。

これが「クリスマス・キャロル」みたいに、霊でも出てきて映像を見せるのでは、あまりにファンタジー過ぎてしまうかもしれない。「ハケン占い師アタル」ではそれに近かったが。これも2019年にテレビ朝日で放送された遊川作品だ。

人が記憶を辿るきっかけも、あまりに使い古しだとつまらないし、ということもあって自然な流れで良かったのでは?

 

最終話では、希望の誕生日が来る。36歳。

これがたった一年の出来事とは……。

一年というのは、短いようで長い。

今2020年の年末を迎えて、もう一年たったのか、速いなぁと思っているかもしれないが(私も思っているが、今年は前代未聞の事態でもあり季節感が少々うすれている)、一年というのは、実のところびっしりと各々の人生が詰まっているようだ。

一年で人は変化できる、成長もできる。

変化も成長も、一瞬の出来事でもある。タロットカードで言えばNo16「塔」だ。稲妻に打たれた塔から人が飛び出している図像。神の鉄槌のような衝撃にガーンと打たれたとき人は、悟りのような感覚を得ることがある。

本当にやりたいことを思い出し、今すべきことに気づき、その感覚を取り戻して実践に移していく。決意は加速を促す。

このドラマのなかで一番唐突だったのは、希望の同級生だった由紀(真凛)。第2話で再会したとき、希望に保育園の先生になりたかった夢を持っていたことを指摘されて、働いていた会計事務所を辞めて一念発起、保育士の資格を取って保育園で働くことになった。唐突だと言ったのは、第2話ではそのような素振りは全くなかったので。

たった一年でそこまでできるか?という疑問は残るが、もしかしたら試験を受けるまでの条件はクリアしていたのかもしれない。っていうかそうでないと現実的には無理だ。

けれどもこの由紀の例は象徴なのだと思う。

私たちは、どこかで由紀のような状況や出来事に遭遇しているのだが、無視したり、無理だと思っていたり、完ぺきに諦めていたりする。するとせっかくの呼びかけやヒントなのに気づかないまま「これが私だ」とは違う道を歩き続けて、不満を持った人生を送ることになる。

 

私は占い師だが、この仕事をしていると、さまざまな理由でやりたいことを諦めた、諦めようとしている、迷っている、という相談者さんと多く出会う。諦める理由の多くは、お金、家族の反対、それで食べていけるか分からない。お金の問題はいちばん大きいかもしれない。夢を叶えるための勉強に使うお金、あるいはその仕事で生きていけるだけの収入は得られるのか。お金さえあれば、と言ってはいけないのだが、それでもそう思う時は多々ある。本気でやる気があればお金は問題ではないという人もいるだろうし、それは真実かもしれないが、この世はお金がないと生きていけない。人間には衣食住が必要なのだ。衣食住にはお金がかかる。それはCOVID19禍で、資産家や大金持ち以外は実体験したことだ。そこは社会の仕組みの問題でもある。

相談者さんのなかには、自分のやりたいこと、やりたかったこと、楽しかったこと、得意なこと、できることを忘れている人もいる。それで苦しんでいる人も多い。無理やり忘れさせられた人もいるだろう。それがいいことだと思っているので、なかなか不満の理由に気づかない。

 

「35歳の少女」では、夢を思い出して実現していくという幾つかの例が、登場人物個々の事情で描かれた。

上に書いた由紀のような例。

希望の姉である愛美(橋本愛)は、絵描きさんになりたかった。広告代理店で営業の仕事をしていたが、いろいろあって、さらに希望の応援を受けて絵画コンクールに作品を出品し、優秀賞を取る。それを機に、ついにグラフィックデザイナーの道を歩きはじめる。

希望の父親である進次は、ハウスメーカーの営業マンで優秀な成績をおさめていたが、ちょっとした事件をきっかけに解雇されてしまう。が、これもまたいろいろあって、最終話では子どもの頃からの夢だった一級建築士を目指して勉強をはじめる。

結人は、希望が目覚めたときには代行業をやっていた。教師という仕事に見切りをつけていたが、希望と付き合うようになってから教師に復帰する。

そして希望はアナウンサーになる。由紀の結婚披露宴に呼ばれて司会をすることになり、そこに来ていた北海道どさんこテレビの人にスカウトされるのだ。北海道なので結人と遠距離になってしまうからと迷っていたが、こんなチャンスはないと愛美に背中を押される。

年齢や状況はそれぞれだが、共通しているのは、幼い頃に持っていた夢、やりたいと思っていて頓挫していること、だ。

 

希望の母、多恵(鈴木保奈美)は?彼女は、希望の看病による疲労がたまっていたのか、くも膜下出血で倒れ、死んでしまう。なんだか多恵だけかわいそうな気もしてきた。彼女は自分の夢の道を歩むことができたのか?他のみんなのように、希望の覚醒をきっかけに夢の実現に着手できたのか?いや、できてないよね。

多恵の夢は、希望が目を覚ますこと、ひたすらそれだけだったのだろう。希望を25年間見守って看病してきたその時間が、ある意味幸福な時間だったのかもしれない。

でも、なんだかそれって、美談という名の、世間的に母親に求められる家族のための自己犠牲という固定観念のような気がしないでもない。一方で、この25年間のどこかで多恵を希望から引き離すことは残酷なことになってしまうのだろう。

多恵は「諦めなかった」のだ。諦めないということを一番力強く教えてくれている登場人物は多恵だ。

周囲の人たちが諦めていた自分の夢に向かいはじめたとき、多恵の使命は果たされた、ということなのかもしれない。

多恵が諦めなかったのは「希望」なのだから。

 

パンドラの箱の底には「希望」が残っていたのです。

それはファンタージエン象牙の塔

25年間で破壊されてしまった希望(のぞみ)とその周辺の人々が、希望(きぼう)の砂を手に入れて、忘れてしまっていた望みを思い出して強く願った。

これが私なんだ、と。

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「35歳の少女」とツトム ©2020kinirobotti

 

 

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