ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

死ぬまぎわのこと~涙を流して手を握っていてほしいとは思わないけど……~死に支度をはじめた私が思ったこと~

最大の急所があった。

 

私がとても苦手としている料理のことをあれこれつぶやきながら、死ぬまでにやっておきたいことを念頭に、死に支度だなぁと思いつつ、おそらく何をふざけたことをほざきやがってと一部のいや大部分の人々が思うかもしれないであろう身勝手な宣言を、先の記事でちょこっと書いてきた。

今「身勝手」と謙虚に書いたが、死に支度なのだから極めて身勝手でいいのである。死ぬときまで遠慮などしてはいられない。好きに死なせてもらう。

私がここで喋っている「死に支度」は、預金や財産の整理がどうのこうのという物理的なことではないのは、すでにご了解済みのことと思う。

「どう死んでいきたいか」という個人的な好みについて、それって不平不満なんじゃないかと誤解されかねない語り口調でつぶやいているのである。

「不平不満」になるのは致し方ないのかもしれない。

つまり、自分にとって心地よい環境を整えてストレスを避けて人生の最終章を暮らそうというのだから、これまでの不平不満を解消する暮らしになる、しなければならないのは明瞭だ。となれば、これまでの不平不満、ストレス要因を語らざるを得ない。

 

さて、最大の急所を発見してしまったのである。

夫と自分とどちらが先に死ぬか。それによってもだいぶ最終章は変わってくる。最終章どころか最後の最後、呼吸と心臓が止まる瞬間が変わる、かもしれない。

先日、私は料理中にフライパンをひっくり返してしまって大声をあげた。安定の悪い小さなフライパンなので日ごろから注意はしていたのだが、やってしまった。だんだん俊敏さが衰えていく私は、これからもこういうことが多くなるだろうと予想できる。熱湯が入っていなくてよかった。

けれども、私の大声に夫は全くの無反応。こういう人なのです。

いや、すっごく良い人なのですが、合理的にできている。私が悲鳴をあげているのにどうしてすぐ来ないのかと尋ねると、悲鳴の具合から大したことじゃないと思ったから、と言う。

けれども「死に支度」を考えている私は、ここからどんどん空想が飛んだ。

そうだこの人、私が死にゆくときもこんな風に他のことをして知らん顔しているに違いない。きっとそうだ。私は死の床で文句を言うことになる。なに知らん顔してるんだ~、と。この人、長男が生まれてくるときにも、家で寝ていた。明け方病人に連れて行ってもらったので、眠いのは分かる。看護婦さんから「まだまだだから帰っていいよ」と言われて帰宅したのも分かる。が、なかなかの難産になってしまって、私の母が来てくれて、帝王切開にするかどうしようかとか医者たちがバタバタしている声が聞こえてくるなかで、ようやっと産んだ。夫は、母がいくら電話しても出なかったそうだ。寝ていて。そもそも、出産に立ち会うことになっていたのに、である。

私が死ぬ間際もこうなるんだろうな、と予言できる。ポケモンGOかなんかしていて。ヤバイ。このままだと腹を立てながら死んでいくことになる。

 

そういえば…私の叔母(母の妹)のことが思い出される。若くして亡くなったのだが、母の話によると、死に際、集まった兄弟姉妹と母親(私の祖母)が叔母の名を呼んで悲しんでいるとき、叔母の夫は椅子に座って新聞を読んでいたそうだ。そしてみんなが「死んじゃったよ」と言って彼を促した、と。母が「ひどいのよ」という感じで話していたのを私は記憶している。私はなんだか叔母が気の毒になった。

長く患っていて、子どもも小さく、夫であり父である叔父は、きっと大変だったのだろうと思う。すごくいい人で、正月など親類が集まる場で、私をはじめ姪っ子や甥っ子を手品や面白い話をして笑わせてくれた。すごく楽しい人だった。ずっとそばにいて楽しませてくれたらなぁ、と思っていたくらい。子どもの私にはとても愉快で楽しい人だったが、もしかしたら大人たちの間では別の印象もあったのかもしれない。

この叔母の夫が新聞を読んでいたのは、悲しい気持ちをどうしたらいいかのか分からなかったからなのかもしれないし、あるいは日本人特有の照れ隠しだったのかもしれない。今で言うところのサイコパス的な何かではなかったのであろうと思いたい。

けれどもさすがにそんな状況、つまり私が死んでゆくとき夫に無私されているのはいやだな、と思った。この調子だとそうなりかねない。死ぬ間際はどれほどの意識が地上にあるのか分からないが、腹を立てながら死んでいくのは避けたい。

おだやかに「コジコジ」を観ながら死んでいきたい、というのが私の希望。息子たちにはすでに伝えてある。死にゆく私を無視する夫ならその夫をこちらから無視するか。

これは妻のほうが先に死ぬ場合だ。腹を立てないで死んでいきたいということを考えると、夫が先に死んでくれるほうがいい。少しでもいいので、私のほうが長生きしたいものだ。

いや、ちょっと待て。夫の介護をする苦労は避けたい。苦労だなんて、とおっしゃる方もいるだろうが、やっぱり大変だと思う。老老介護は。そう考えると夫より先に死ぬほうが幸せだ。でも先に死ぬと腹を立てながら死んでゆくことになる確率が高い。

 

なんだかんだと言っても、これは普通に病院か自宅で死んでいく想定だ。いつどこで死ぬかは分からない。車にはねられて道端で即死ということだってあるし、誰もいない部屋で突然、ということもある。

そういうこともあるので、「死に支度的人生再検討」は「ストレスフリーに日々を過ごす」ために非常に大切になってくる。魂が肉体を離れるときに、「あれやっておけばよかったなぁ」とか「どうせ死んじゃうなら我慢しなきゃよかった」とか思わなくてすむように。

不慮の事故のためには、日々が「死神幸福論」。これはまた別に書きます。

 

「死ぬな~」とか叫んだり、「キミと歩んだ人生が……」などと涙を流しながら手を握っていてほしいなどとは決して思わないが、せめて腹を立てないように死んでいきたいと、「死に支度」の項目に入れておきたいと思った次第です。

その前に、後悔のないように、やりたいことをやっておこう。私の場合今のところ、本を読んだり、映画を観たり……。どこまで消化できるか。

 

これからも「死に支度」「死神幸福論」について書き続けますが、読者の皆さまの思考の一助になりましたら幸いです。