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「民主主義の死に方」~独裁から民主主義を護る方法~アメリカの映画文化~

「民主主義の死に方」

ティーブン・レビツキー/ダニエル・ジブラット

新潮社

 

昔々、知り合って間もない私の友人がこう言った。悪霊について書かれた本を読んで「これ私のことだって思ったんだよね」と。

信じるか信じないかはあなた次第ですの話になってしまうが、この私の友人は、いわゆる霊能力なるものを持っていて、その力を使って、遊び半分か真剣かどうかは分からないが、仲間内であれこれやっていた(それで商売をしていたわけではない)。悪霊というのは、当て物をして本人と周囲の人間たちを信用させ、依存させていく。どこどこへ行くとそこに○○があるから云々、と言ってくるのでその通りにすると本当にそこに○○があって、本人も周囲の人々もますます信じ込んでいくというパターン。本当にあるからみんな信じちゃう。霊からの要求は次第にエスカレートしていって、信じ込んだ人々は振り回されて、最悪の場合には普通の生活ができなくなってしまうこともある。善霊というのは、当たり前だがそういった悪さはしない。自分や周囲の人間が悪霊にとりつかれているかどうかを見分けるには、その辺りを観察するとよい。その本には悪霊の仕業が様々な例とともに紹介されていた。それを読んで私の友人は「この本のなかに書かれているのは自分のことだ」と自分の異常な状況に気づいた、というわけだ。その本を紹介したのは彼女の仲間のひとりだったらしいが、数名がこれちょっとヤバくないか、と気づいてそんな本を探してきたという経緯。ある意味健全な人々だったようだ。

 

「民主主義の死に方」には、アメリカの民主主義が崩れ始めていることについて、独立戦争にはじまるアメリカ建国からトランプ大統領までの政治史を解説しながら大変分かりやすく書かれている。また、他の国々の独裁体制がいかように生まれたか、あるいはどのように押しとどめられたかも同時に述べられている。

「独裁主義的な行動を示す4つのポイント」という表も載っており、それにトランプの行動を重ねて提示もしている。

 

冒頭に私の友人の昔話を書いた。なぜこの記憶がこの書籍とともに甦ったのか?

「民主主義の死に方」を読んだ政治家、大統領、首相、知事などなどが、「これって自分のことじゃないか?」と誰も気づかないのだろうか、と思ったからである。市民の側は「これまるで誰それじゃん」と政治家の名前や顔が思い浮かぶことだろう。

独裁主義傾向のある人間、すでにそうなっている人間は、そもそもこういった書物を読まないのだろうか。もし読んだとしても自分だとは思わないのだろうな、と推測する。そこでハッと気づく人は人々を苦しめずにすむだろうが、たいていは他人事なのだろう。というよりも、自分は正しいのだという気持ちなのだろう。そしてむしろ、独裁者の成功と失敗を参考にして自らの独裁を成功させるための教訓とするのかもしれない。私には想像を絶する読書感想だ。そういえば誰かが言っていた「ナチスの手口に学べ」と。独裁者が君臨していく過程を、そうさせないための注意喚起として描くドラマでも映画でもドキュメンタリーでも小説でも論考でも、そこから悪事の方法を学んでしまう人間もいる。この本で表になっている「独裁主義的な行動を示す4つのポイント」も、穏健な人々にとっては監視項目だが、「これさえやればキミも独裁者になれる4つのポイント」というタイトルに変えて読み込む人間もいるはずだ。

それほどこの著書は、世界中の民主主義を破壊している権威主義者たちの特徴をリアルに描いている。 そういった情報はヒトラームッソリーニで十分と思ってきたかもしれないがすでに第二次世界大戦後、世界中のあちらこちらでむくむくと独裁者たちは登場している。アメリカでさえ、トランプを待たずとも。

 

自由、平等、寛容、民主主義、平和や穏健が善なるサイドで、独裁主義、暴君、不自由、不平等、不寛容(差別、排除)が悪なるサイドだとするなら(そうだと私は思っているのだが)、どうしてダークサイドのほうが強いのか、ということが私はずっと不可思議でならなかった。ウルトラマンでも仮面ライダーでもヒーロー戦隊ドラマでも、正義の味方は最後に勝つシナリオにはなっているが、途中を見ると圧倒的に悪者のほうが強い。

この本を読んで分かったことのひとつは、民主的な人々は争いを好まない、ということだ。そうではない側は、あらゆる手法を使って「敵」を追い詰め失脚させていく。もし、民主主義サイドの政治家、政党が同様にあくどい手法を使ったとしたら、支持者が減る。

穏健派の有権者は過激な焦土作戦を嫌う傾向がある(P262)

つまり、自由、平等、寛容を求め、実践している人々は、そういった暴力的行為を好まないのだ。ゆえに、独裁、権威主義者たちは強い。敵をつぶすためなら何をしてもいい、なんでもあり、だからだ。それを咎められても何も感じないし、むしろ逆手に取る。そうこうしているうちに、民主側は腕力が弱くて優しいので負けていく。

たとえ支持者を無視して本気で独裁側と同じ手法で荒々しく立ち向かったとしても、相手は、自分たちがいつもやっていることにもかかわらず、そんなことやっていいのかと声高に叫んで断罪する。自分がするのはいいけれど他人がするのはだめ、ということなのだろう。自分に甘く他人に厳しいどころの騒ぎではない。

ちょっと前にタレントのフィフィが蓮舫参院議員の誤認情報を流して指摘されるということがあった。ツィッター上で謝罪らしき文言はあったがとても謝罪には読めず、その上、自分の影響力すごさを誇るようなコメント(これには堀潤も怒っていた)や、どれだけ謝ればいいのかといった逆に被害者を装うようなコメントすらあった。この人は、外国籍のタレントやハーフ系のタレントについて批判的な発言をよくしていたので、嫉妬心が強い人なんだなと私は理解してきた。蓮舫についても、国籍問題などでかみついていたので、今回もここぞとばかりだったのだろう。このとき私はふと思った。これ、逆だったら大変だっただろうなぁと。自分の誤情報が流されたら、それはそれは執拗に反論、攻撃して許さないだろう。法的措置も取るかもしれない。更に逆に言えば、蓮舫サイドは、フェイクニュース防止の観点からも、法的措置を取ったほうがいいと私は思っている。それしか民主的に戦う方法がないからだ。

 

「民主主義の死に方」を読みたいと思った理由のひとつが、じゃあどうすれば民主主義を護ることができるのか?方法はあるのか?と思ったからだ。その答え、あるいはヒントくらいならこの本から読み取れるかもしれない、と。

トランプ政権の独裁的な行動には断固とした態度で立ち向かわなくてはいけない。しかし、その過程で民主的なルールや規範を破るのではなく、むしろそれらを護る努力をすべきだ。反対行動は可能な限り、議会、裁判所、そして選挙を中心に進めなければいけない。(P264)

デモや抗議活動も民主主義のなかで市民に与えられた権利だが、ときにそれが行き過ぎて暴力沙汰やもめ事が起きたときに、その出来事を利用されて穏健派が逆に不利益を被ったり、悪者扱いされてしまうこともある。権威主義者たちは、むしろそういった「チャンス」を待ち望んでいるであろう。それもあってか近頃の穏健派は、デモのときに弁護士などを配置するという周到さも散見する。

政党的なことで言えば、野党はひとつの同意でひとつにならなければならない。

もっとも効果的な連携が生まれるのは、多くの問題について異なるーあるいはまったく反対のー意見をもつグループが集まったときだ。(P265)

いつもの仲間以外と協力体制を組むのはそう簡単なことではない。そのような連携を成功させるためには、自分たちが深い関心をもつ問題をいったん脇に置く強い意志が必要になる。(略)自分にとって大切な理念を放棄すべきだと言っているわけではない。共通の道徳的立場を見つけるために、一時的に意見のちがいに眼をつぶらなくてはいけないということだ。(P266)

日本でこれができるだろうか。

そもそも政党同士は敵対してはいけない。「相互的寛容」と「自制心」(寛容と自制の規範)を持つことが大事だ、と著者は言う。それが防波堤となって大衆扇動者や独裁者が君臨することを与野党いっしょになって阻止できる。ヨーロッパでも健全に働いてきた規範だったが、最近はそれも崩れかけているようだ。

民主主義を人々が切に求めるようになるためには、その前に苦難を経験しなければならないのだろうか。これまでの歴史を振り返ると、そのようだ。

 

先日TBS(CS)「ニュースの視点」で放送された「映画が描く現代史」のなかでゲストの町山智浩が語っていた。

アメリカには権力と戦ってきた歴史がある。「ブッシュ」という映画はブッシュ在任中に公開された。最近では「バイス」「記者たち」「フロントランナー」などなどが公開されている。トランプの存在が影響していることは確か。スピルバーグは、トランプ就任直後に「ペンタゴン・ペーパーズ」という映画を急きょ制作して公開した。 

日本ではどうしてできないのか。監督がプロデューサーではないから、雇われ監督だから、という映画業界の問題もある。そして勇気がないから。それができている日本の映画監督はほんの少数。是枝監督はそのひとり。

 

政治、文化、社会、時事の真実を直に描くことも、コメディで恐怖を描くことも、コメディで悲しみを描くことも、コメディで社会文化時事をネタにすることもできない日本。時事ネタなんて簡単なんだ、だからやらないだけだ、と言い放っていた芸人がいたが、それは負け惜しみではないのか。業界、組織、社会システムの問題や勇気の有無だけではなく、もしかしたら日本人の性質的に、能力的にできないのかもしれないな、と私はいろいろ考えた末に今感じている。性質的には民族性、DNAかもしれない。能力的には教育の問題もあるのだろう。つまり思索能力が養われてないという悲劇。井の中の蛙状態。

アメリカはまだ、映画文化が健全に機能している。が、日本はすでに、権威主義者たちの圧力を受けて忖度している。最近町山があちこちで発言しているのは、忖度した結果難病ものばかりをつくる日本。私もそう思っていた。

 

民主主義や穏健や平和、寛容を伝えようとすると、それがとても難しいということに突き当たる。一方で、敵や戦争を示すことは容易だ。また、民主主義はとても面倒なシステムだ。決められない政治をじれったく思ってしまった日本人が、独断で突き進むリーダーを求めて、自らの首を絞めてしまっているのにそのことに気づいていないという愚かな恐怖が今目の前にやってきている感は否めない。言論表現の自由はひたひたと奪われていく。ひょっとすると自発的隷従となっている場合も多々ある。そして、権威の頂点にいる人物が自らの言論の自由を主張するという無知性のパフォーマンスが国会という現場で繰り返されている。

政府が明らかに“一線を越えて”独裁政権になる瞬間を特定することはできない。クーデターも起きず、緊急事態宣言も発令されず、憲法も停止されない。つまり、社会に警鐘を鳴らすものは何もない。そのような状況下では、政府の職権乱用を非難する人々はときに、大げさだと笑われたり、嘘つきのレッテルを貼られたりする。多くの人にとって、民主主義の浸食は眼に見えないものなのだ。(P23)

 

この本はこう締めくくられている。

人類の歴史のなかで、多民族の共存と真の民主主義の両方を成し遂げた社会はほとんど存在しない。しかし先例はあるし、希望もある。(略)

歴史は、民主主義と多様性が共存できることを私たちに教えてくれる。これこそ、私たちが取り組むべき挑戦だ。前世代のヨーロッパ人やアメリカ人は、外部の大きな脅威から民主主義制度を護るために並はずれた犠牲を払ってきた。民主主義を当然のものだととらえながら成長してきた私たちの世代は、いま別のむずかしい課題に向き合っているー私たちは、民主主義がその内側から死ぬことを防がなくてはいけない。(P279~280)