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死神幸福論⑨〜附記②〜「モンテーニュの書斎」から箴言〜

モンテーニュは、「死」と常に向き合っていた人です。

 

ミシェル・ド・モンテーニュ

1533年2月28日 ~1592年9月13日

16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。(ウィキペディアより)

 

晩年は、自分の生まれ育った居城の塔に籠もって、何にも邪魔されない読書と思索の日々を過ごしました。

自身の城に住んでいる時点で身分違いも甚だしいのですが、……ごく自然な反応として言わせていただければ「うらやましい」。

とはいえもちろん、それ(何にも邪魔されない読書と思索の日々を過ごすこと)は誰にでもできます。その内容や深さや広さや、自由になる範囲には人それぞれ違いはありますが、現代に生きる私たちでもできます。けれども、時代背景の違いがあり、500年前は現代とは比較できないほどに不便な世の中(何をもって便利・不便というかは別として)だったとしても、それでもモンテーニュの隠遁生活は、このような生活を望んでいる人からすれば、なかなか理想的な佇まいであると言わざるを得ません。

とはいえ、外出したり、集ったり、人とつるむことが好きな人には、極めて退屈な日々かもしれません。世俗から隔離されたモンテーニュの居城の塔のなかの神聖な書斎は、パリピな人たちには牢獄でしょう。

この話題はNo9「隠者的幸福論」のテキストに譲ります。

 

モンテーニュも、「死」について、これまでこちらで提示させていただいた「死神幸福論」に通じる、いや、まったく同様のことを書き残してくれています。

「エセー」は、岩波文庫で6冊になる大部の著作です。目次に細かく内容が記されているので、興味のあるテーマをピックアップして読むのもいいかもしれません。私自身、買ったきり読んでいないという自信がありました。なにしろ、これを読了する日は来るのかなと、書棚の背表紙を眺めながらときどき思い出していたので。さて、書棚から取り出して確認してみたところラインマーカーが引いてあり、少しは読んだ形跡が残っていました。

 

メメント・モリNo13「死神」カード⑨附記②」で取り上げるのは、「モンテーニュのエセー」そのものではありません。

モンテーニュの書斎 『エセー』を読む」

保苅瑞穂 講談社

から引用させていただきます。

モンテーニュの生涯を追いつつ「エセー」を紹介していくなかで、著者の探求、思索によっての読解が、モンテーニュ城館の塔へと、書斎へと読者を優雅に招いてくれるという読み応えたっぷりの書物エッセイです。

14の章題に分けられたテーマが、生と死に思いを馳せるための基本要素足り得ているように思います。

ひとことで言って、ありがたい本です。「エセー」6冊をこれから読むのは正直しんどいので。

(以下引用部分の「 」に入っている文は、モンテーニューの「エセー」からの引用です)

 

人は普段の平穏な暮らしのなかでは、死が自分の身近に迫って来るか、あるいはだれか親しいものが死にでもしないかぎり死についてあまり深く考えないものである。

(P346)

 

モンテーニュは「エセー」を読むかぎりほとんどつねに死の問題を意識していたといっても言い過ぎではないのだが、(略)結局それは幸福に生きたいという彼にとってもっとも切実な関心に繋がっていて、その点でしか意味がないことだったのが見えてくる。

(P347)

 

「だから私は繰り返しこう自分にいうのである。ほかの日に起こるかもしれないことは今日起こるかもしれないのだと」

P350

 

「死をあらかじめ考えることは自由をあらかじめ考えることである。死ぬことを学んだものは奴隷であることを忘れたものである。死ぬすべを心得ることはすべての隷属と束縛からわれわれを解放するのだ」

(P354)

これは、佐野洋子も書いていました。

自分の余命を宣告されたとき、佐野は「自由になった」と書いていました。

 参照↓

risakoyu.hatenablog.com

risakoyu.hatenablog.com

 

あと半年で、一年で死ぬと分かったその瞬間から、翌日から自由になれるわけではないでしょう。けれども、「もう死ぬのか」という感覚は、この世のしがらみから人間を解き放ってくれるのでしょう。「生きる」ということは窮屈なんです。やらなきゃいけないこと、気にかけなきゃいけないこと、世間体などなど、面倒なことが多いのです。ゆえに、もうあと少しの時間で死ぬのだから、そんな雑多な事々に心を煩わせている時間はない。やりたいことを遠慮しないでやるぞ、誰になんと言われようともやらせてもらうからね、そんな感覚の自由ではないでしょうか。

「死を学ぶ」とは、ひとつには、いつどこでやってくるか分からない自分の「死」への覚悟を学んでおけば、実際に宣告されたり予知したときに、ショックを受けたり、自暴自棄になったりする時間が短くて済み、残りの時間を有意義に過ごすことができる、という意味が含まれていると、私は考えています。

もうひとつは「死神幸福論」そのもので、「死」はいつやってくるか分からないことを踏まえて日々を生きる、ということです。

 

モンテーニュは、友人の死や、自身の落馬事故による臨死体験を通じて、自由を獲得するための死ではなく、実際の「死亡」についても思いを致していたようです。それは、決して冷静なものではなく、「死ぬ」ということへの恐怖でした。

どうすれば心地よく死んでいくことができるのか。

落馬事故による臨死体験は、その恐怖に思いがけずも光明をもたらしてくれました。「死の接近」に当たって、気分はよかった、と言うのです。

苦しみながら、痛みに耐えながら死んでいくのは、誰でもおそらくぜひとも避けたいはずです。死んだらどこに行くのかという疑問よりも、苦痛がどれほどものなのか、のほうが気がかりです。

病気にせよ、事故にせよ、老衰にせよ、穏やかな心持ちで死んでいきたいと、誰もが願うことでしょう。

 

「そこには不快な感じがないばかりか、眠りのなかへ滑り込んでゆく人が感じるあの甘美な味わいさえ混ざっていた。」

(P357)

モンテーニュが落馬して死にかけているときの感想です。

またモンテーニュは、死は一瞬のものなので、苦痛も不快もない。ゆえに恐れることはない」とまで言うに到っています。

 

では、「死にゆくこと」が恐ろしいからといって、「不死」を求めますか?

「ケイロンは彼の父で時間の神であるサトゥルヌスから永遠の生命の条件を聞かされると不死であることを辞退した」

(P364)

 「不老不死」を望む人は現代社会のなかで意外と多いのかもしれません。そんな薬が開発されたら、特に政治家とか大金持ちとかが、我先にと飛びつくでしょう。SFドラマのワンシーンが目に浮かぶようです。あの人たちは、なぜあれほど「生」に執着しているのでしょう。強欲だからでしょうか。

実際の「死にゆくこと」への恐怖心を和らげるための思索は、ここでのテーマではありません。また別の機会に譲ります。

 

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「死神」 ©2019kinirobotti

 

 

 

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