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匿名のリテラシー~透明人間は何をするのか~良い透明人間と悪い透明人間~透明人間になれるのか~

NHKBS世界のドキュメンタリー

「透明人間になった私」2015年フランス

を観ました。

海外のドキュメンタリーを観るときいつも思うのが、失礼を承知で言わせていただくのですが、こういう番組、日本にはつくれないよな、ということ。

それはさておき…、「透明人間になった私」とは、どういう意味で透明に人間になったということなのだろう、と確実な内容予想のないまま観たところ、大変参考になりました。

そして私は、「透明人間」には2種類の意味があることに、あらためて気づきました。

 

スマホ、パソコン、ICカード、監視カメラなどなどによって、私たちの個人情報はサイバー世界の公開情報となり、監視されています。このデジタル社会で、自分の思想、行動、存在の足跡を消そうとフランスの女性ディレクターが奮闘します。

あらゆるSNSをやめ、パソコンには情報を盗み取られないフリーアプリを使ったりしますが、本気で透明人間になりたいなら、スマホもパソコンも使うことをやめなければならないことにいきつきます。監視カメラは街中どこにでもあるので、外出もできなくなります。まるで岩窟王、モンテ・クリスト伯になった気分、と彼女。いや気分どころか、孤島の洞窟にでも住まない限り、私たちは監視の目から逃れることができない、そういう社会にすでに生きているわけです。

顔認証システムを欺く方法を考えている人たちもいる、というのには驚きました。それっていいことなのか?

現金を使って電車に乗り、公衆電話を使って連絡を取る生活ですが、同僚たちは彼女と連絡が取れなくなって困ります。結局、彼女は暗証番号を忘れて、とうとう道を歩いている誰かのスマホを借りて同僚に聞くことになります。うーん、他人のスマホを借りるって、迷惑ですし、そもそもその人のスマホに情報を残すことになりますし、逆にこの通りすがりの男性もよくスマホを貸したな、と思いますよ。と言うのも、他人のスマホを借りて悪事を働くというニュースがありましたから。スマホを見知らぬ人に貸してはいけないのは鉄則では?私も以前、外出先でスマホを貸してくれと頼まれましたが、断りましたよ。公衆電話がないと言うので、警察に行ってくれと返答しました。

 

でもちょっと待ってください、デジタルの追跡から身を隠して透明人間になる方法、というのは犯罪者が喜ぶ方法ではありませんか?

つまり、プライバシーを守るための手段は、おのずと、犯罪者とまではいわなくとも悪事を企んでいる人たちを守るための手段にもなるわけです。

浮気ひとつをとってもそうですよね。身に覚えのある人はけっこういるのではないでしょうか。GPS機能は、警察の犯人逮捕や、親が子どもを見守るためには役立ちますが、浮気しているかもしれない夫や妻を見張る道具としては、浮気したい人にとっては大迷惑以外のなにものでもありません。だからといって、スマホを持ち歩かなければ浮気相手と連絡も取れません。たとえそこはクリアできたとしても、監視カメラのないところを歩くのは、おそらく不可能です。けれどもその、秘密を抱えている人たちにとって厄介な監視カメラは、防犯や警察の捜査に大いに役立っているわけです。監視カメラのおかげで、ロンドンでは犯罪が減ったと言われています。(これからはどうなるか分かりません。計画的犯罪は顔を隠せばいいし、顔認証システムを欺く方法もあるようですし、なんなら、堂々と顔をさらして犯行に及ぶヤカラだっているでしょうから。)

 

匿名性の高さが、ネットでの発言を大胆にさせる、というのもまた事実です。

匿名、と言えば、ラジオ番組への投稿ハガキ。匿名って方法があるんだ、と10代のころに私は知りました。匿名ではないときは、さまざまなニックネーム的な投稿名を書いたりしていました。最近はラジオネームと言うようですね。作家にはペンネーム、芸能人には芸名があります。

ブログやツィッターなどの投稿では、いわゆるハンドルネームを使うことが多いと思います。不思議なもので、名前を変えるだけで別人になったような気分を味わえます。別人になって、ときになりすまして、書き込むことができます。この場合も本名をさらさない理由は、身を守るためと、良くないことをするため、の両方があると思います。

人には自分以外の人間になってみたいという願望があります。俳優という仕事はそれが堂々とできる最高の仕事かもしれません。

とはいえ、誰にでも多面性はあります。お客様に商品をお薦めしている自分と、ソファに寝転がってテレビを見ている自分は違う感覚の自分ではないでしょうか。もしかしたら、5秒前までお客様に笑顔で対応していた店員と、帰宅してソファに寝転がらないまでも店の裏でタバコを吸っている店員は、すでに「別人」かもしれません。さっきのお客うぜぇ、とか言ったりしているかもしれません。

もしかしたらこの店員は、舌打ちしながらツィッターに暴言をつぶやいているかもしれません。この人は、自分が特定されない「透明人間」だと思うからこそ、ネット上での罵詈雑言、侮辱、嫌がらせ的発信を書き込むことができます。

とはいえ、今は追跡可能ですから。だからこそ、このドキュメンタリーのディレクターは、ネットにつながることをやめなければ透明人間になることはできない、というところまでいってしまったわけです。

インターネットというのは、簡単に透明人間になれる手段を手に入れたと思ったところが、実はまるまる監視されるシステムでした、というジレンマ。

 

「透明人間になりたい人」は、プライベートを守りたい人と悪事を働きたい人と2種類いるわけです。

 

渋谷でのハロウィーン仮装が、年々、バカ騒ぎに拍車がかかっています。

この「仮装」という状態は、自分以外の人物になっているという意味で透明人間状態のひとつと言えるでしょう。いつもの自分ではない自分になることで、やってみたかったけれどできなかったことをやってしまうことができてしまいます。普段抑圧されているものが大きければ大きいほど、暴れるのに好都合です。それに乗っかってしまう軽薄な人もいます。痴漢や窃盗は、あらかじめそれをしようと思ってその場に来ている人もいるでしょうが、その場で暴れて、ときに逮捕される人は、日常で鬱屈したものがあるのだと思いますので、そこは解決の余地があるでしょう。社会的な問題かもしれません。

 

一方で、良い透明人間もいます。

例えばいっとき話題になった「タイガーマスク」。施設にランドセルを送っていました。その他にも、匿名で寄付をするという人は案外多いのではないでしょうか。

元来人間というのは、困っている人がいたらあれこれ考えずにさっと助けて名乗らない、思いやりの社会で生きてきたのだと思います。

ペイフォワード(Pay it forward)もそうです。どこから巡ってきたのか分からない愛に助けられ、自分もまたどこの誰かも分からない人へ愛を送ります。

 

iPhoneiPadの機能に「AirDrop(エアドロップ)」というものがあるそうです。「AirDropを使用することで写真や連絡先を無線で送れる」ということです。

情報番組によりますと、エアドロップ痴漢というのが横行しているらしく、近くにいる人のスマホに勝手に不適切な画像を送りつけて、その人が驚いたり、困ったりする様子を見て楽しむのだそうです。

私は思いました。「ハッピー画像」「おもしろ画像」を送ればいいのに、と。送られた人が思わず笑ってしまうとか、幸せになるとか。

どうして便利な機能は、悪用されてしまうのでしょう。

もちろん、どんな画像でもはた迷惑に感じる人もいるでしょうから、いくら良質なものでも勝手に押し付けるのは良くないかもしれませんが、気分が悪くなるものよりはずっといいと思います。

 

ドキュメンタリーのディレクターが言うところの透明人間、つまりあらゆる監視からプライベートを守るということは、21世紀の社会、地球では、普通に生きている限りはできません。まずもってスマホなしで生きていくのはなかなか難しいです。透明人間になった途端、逆に社会から疎外されてしまうでしょう。と言いますか、天変地異のことなどを考えますと、スマホが命綱になることだってあります。お年寄りにも役立つことはたくさんあります。

これから現金を使うことができなくなるかもしれません。スマホやカードを使って支払います。日本ではまだ現金のほうが多く使われていますが、海外ではすでに現金バイバイの国がどんどん増えているようです。偽札横行には役立ちますし、人から人へと渡ってきた紙幣や硬貨はばい菌だらけでしょうから、私もそのほうがいいのかな、とは思っています。が、使い過ぎないか、とか、逆に支払ってもらうほうからすると本当に入ってくるかな、などの心配は残りますよね、と私などは思ってしまいますが、そこも習慣でしょうか。 

ネット上で、自分にぴったり本とか商品とかが突然出てきたり、先日購入したばかりの商品に関連するものが紹介されたりすると、え?見られてる?とドキッとします。ですが、それも最近は慣れてしまいました。逆に書籍の推薦などはありがたかったりすることもあります。この慣れは、ヤバイのでしょうか。

それら情報が当局に管理されて、「1984」の世界のようになるのなら嫌悪します。

 

「透明性」ということで言えば、本当はあらゆることが「透明」になるなら汚職も悪事もなくなるはずなので、ゆえに、政治や組織、会計などには「透明性」を強く求めるわわけです。

ところがそれが権力や立場による「監視」、あるいはネットのなかの悪い透明人間によって「覗き見る」という行為につながる機能であるのなら、幸福な社会から一気に遠ざかっていくわけです。10年ほど前に発覚した、何が楽しいのか芸能人の情報を不必要に盗み見ていた役人たちがいました。他人の生活を覗き見たいという下衆な欲望は誰にでもあるのでしょう。ゆえにゴシップ週刊誌が売れるわけです。

自分自身には見られて困るような不適切なことや、好奇心を刺激するようなことは何もなかったとしても、さもしい根性の目線が注がれていたとしたら、それは大変に気味の悪いことです。

 

 

図書館で本を借りると、昔は本の裏表紙のあたりに貸し出しカードが備わっていて、日付(学校だと氏名も)が記録されていました。この本を借りた人は誰だろう、どんな人だろうと想像したり、もう何年も借りた人がいないんだなといった情報も手に入ったりといった些末な楽しみもありました。その情報を辿って行くサスペンスドラマなどもありました。

もうすでに30年ほど前から図書館もコンピューター管理となって、自分の借りた本がいつどこを巡ってきたのか、まったく分かりません。

あるときちょっとした手違いがあって、自分がいつどの本を借りたのか教えてもらおうと受付の司書に尋ねたところ、記録は残っていません、と言われました。私はてっきりコンピューターだからこそ、自動的に記録は残っているものと思い込んでいました。そうか、個人情報ですものね。その上、図書というのは「思想」と直結するものです。プロファイルには大いに役立ちます。それこそドキュメンタリーのディレクターが消したかった記録です。一方で、アマゾンの購入履歴には購入図書(商品)の記録がバッチリ残っています。それをもとに推薦図書(商品)の提示すらしてきます。便利はプライベートと引き換えになりました。「思想」監視にも多いに役立っていることでしょう。

それでも私は、図書館で借りた本に関してはむしろ記録が残ってくれているほうがありがたいとすら思っています。が、それはあり得ないことのようなので、自分で記録しています。

 

さて、フランスのドキュメンタリー番組のディレクターは透明人間になれたのでしょうか?なれたとして、それでよかったのでしょうか?

 

私はいつもこう思っています。

称賛とか賛同はハンドルネールでも匿名でも透明人間でもいいですが、乱暴な批判や暴言、罵詈雑言やただの悪口は顔も氏名も、つまり身元を明かして発信するというルール、慣習になったほうがいいように思います。

 

 

プラトンは、人間が透明人間になったら100%悪いことをする、と言っています。

そんなことないよ、と私は言いたいのですが……。 

どんな状況でも悪い事をしない人はしない、逆に、悪いことをする奴はどんなときも悪いことをする、と私は思っています。それでも、その場のノリや、窮地に追いつめられたときとか、軽薄さゆえ、または自己防衛のために、人は何をするか分かりません。

 

悪い奴は悪いことをするために透明人間になりたい、善人は悪人や過干渉から身を守るために透明人間にならなければならない、というのが21世紀の「透明人間」の真実なのかもしれません。

 

あなたはどちらの透明人間ですか?