①のつづき
リッチー受刑者は服役中に、さまざまな「フェミニズム文学」に触れたそうです。
そこで学んだことを他の受刑者へと伝えています。
きみたちは、「有毒な男らしさ」によって「暴力的な男」になった。それは「力による支配」と「男尊女卑」そして「金」だ。
「力」は「暴力」につながる。相手をボコボコにして、優位に立つ。
「男尊女卑」が本当の男の生き方だなんて、誰も言わない。
暴力もそうだ。暴力的な彼は男らしくて尊敬する、とは言わないだろう。
「金」については、言うまでもないだろう。
でも、そういう「有毒な男らしさ」を教えられてきた人は、手をあげてくれ。
じゃあ、実際にそうしてきた人は?
男が家族を養い、守り、家を仕切る、家父長制という固定観念を、リッチー受刑者は「有毒な男らしさ」と表現しています。
つまり「有毒な男らしさ」とは、<「男らしさ」とは「強さ」であり「優位に立つこと」であり、そのために「暴力」やなんらかの「力」を利用して獲得しようとする状態である。>ということのようです。
利用する(暴)力には、拳銃や金も含まれるのだと思います。
例えば力を誇示する為に拳銃やナイフを持つ。護身のためかもしれないが、しかし護身イコール相手を威嚇するということ。
「経済力」「お金」で男性に支配されている女性はそこにもここにもいます。「誰のおかけでメシくってんだぁ!」は日本ではお馴染みのセリフです。「男尊女卑」です。女性を守っているのではありません。単に支配し、優越観を得て自己満足している「有毒な男らしさ」を誇示する夫や父親はドラマの世界だけに存在しているのではありません。
男性も「有毒な男らしさ」を求められて汲々としているのでしょう。しまいにはDVにまで発展することもあります。
「車」もその道具のひとつではないかと感じます。運転すると人が変わる人がいます。スピード狂はまだしも、最近とくに多いのは「あおり運転」。ガンダムではありませんが、車という鎧をまとうことで、万能になった気分になり、その強さを示したくなるのでしょう。車のなかでは王様ですから、ちょっと気に食わないことがあれば追跡して、最悪の場合は殺人を犯してしまいます。その気はなかったではすみません。
「力」を「暴力」につなげてしまった人は、「相手をボコボコにし」なければ「優位」に立てません。「優位」に立つまで「相手をボコボコにし」ます。そして刑務所へ。
リッチー受刑者に問われた参加受刑者たちは、それぞれに「有毒な男らしさ」について語りだします。
この「有毒な男らしさ」を受け入れて、どんな見返りがあると思う?
―ボスになれる 栄光かな 自尊心やプライド
じゃあ、どんな代償があると思う?
―終身刑
クリス、それはいい答えだね。
―悪い人間関係
―孤独かな
これらの代償を払う価値があると思う?
―ないね
でも、おれたちは過ちを繰り返す。
リッチー受刑者は自分自身を振り返ります。
なぜ、犯罪を犯してしまったのか。
おれが刑務所に入ることになったのは、おれの精神が不安定だったから。
子どものころは、おれは芸術が好きで、ちょっと変わりものだったが、学校では問題なかった。中学に上がったとき、仲間たちは、黒人の男らしさ、暴力で支配する男らしさを受け入れた。おれも、それが自分のあるべき姿だと思った。芸術好きの自分には、満足できなくなっていた。それでギャングと付き合うようになり、刑務所に入る19歳まで、ずっと薬に頼って、ハイになっていた。
彼の部屋にはマララ・ユフスザイとビヨンセのポスター。
「おれがもっとも尊敬する二人だ」と。
前にいた刑務所では、6か月の独房生活があって、たくさん本を読んだ。
そのときおれたちが、いかに「父権主義」的な考えで自分を壊していたのか知った。
本を読んで、暴力の愚かさが目につくようになった。刺されたり、殴られたり、打たれたり、そしてこんなことしてちゃだめだと思うんだ。でも、怖くて言い出せなかった。
リッチー受刑者、「わたしはマララ」も読んだのかな?いかに女性たちが虐げられているかが、本当に手に取るように分かる書物。男たちは腕力と武器を使って、フェミニズムを阻止してきます。
プログラムでの一幕。
おれたちは「有毒な男らしさ」を受け入れてきた。おれたちの周りの男たちもそうだ。
女性も子どもも、社会の大半が受け入れている。
これを「父権主義的な文化」と呼ぶんだ。
混同しちゃいけないのは、より伝統的な「家父長制」だ。
これは、男性がリーダーシップを取るという概念。勘違いしがちなのは、男性だからという理由だけで、リーダーの資格があるわけじゃないんだ。男はリーダーだ、なんて信じたら、どんなことが起こると思う?
―抑圧する
どういうこと?
―とくに女性が男から抑圧されて自分の感情を表現できなくなってしまうんだ。女性のアメリカ大統領がいないのは、家父長制が理由なんじゃないかな。
―ゲイをたたくのもそうだ。教会でもやっている。
同性愛を嫌悪するか、「ゲイ」という言葉を男らしさの観点からさげすむ言葉として使ってないか?
なぜゲイみたいに優しくするんだ、とか、あいつは戦わないからゲイだ、とか。同性愛と関係なくても、そういう表現をするんだ。
ゲイをたたくのも、家父長制の問題点だ。
そして、女性を支配下に置こうとする。DVもそうだ。
―彼女がそれをのぞんだ。そうしたら急に被害者ぶってきた。
それはただの被害者たたきだ。
レイプ犯は特別なモンスターじゃない。どこにでもいる。おれたちの社会にいるんだ。おれたちがレイプ犯を助長させてるんだ。
被害者女性にどんな服装だったのか、なんでそんな場所にいたのか、なんで酒を飲んだんだって言って、女性の責任にするだろう。
このレイプ事件への見解。日本でもここ最近、ずいぶんと取り上げられています。
なぜか女性が悪いことになったりします。同じ女性まで女性を責めたりします。「家父長制」に毒されてしまっている女性たちもたくさんいるようです。教育の効果と言えるでしょう。さらに、生きてきたなかで身に付けた世渡り術なのかもしれません。
そういった事件報道のときに短絡的に女性を批判する女性は、危険です。単に自分を守るためだけに身にまとっていた「男尊女卑容認」の考え方が、ずっとそうしていることで、すっかり自分自身になってしまったのです。
あるいは、極めて品行方正な女性とか、恋人がいない女性とかが、(おかしな話ですが)嫉妬心からそういった立場を取っているのこともあるかもしれません。そうすることで自分という存在を承認させようとしているのです。
「なぜゲイみたいに優しくするんだ、とか、あいつは戦わないからゲイだ」とありますが、ゲイの人たちは優しいのですね。戦わないのですね。大歓迎です。
暴力を振うと周囲がおとなしくなる。それが男らしさだ、と勘違いしている。
傷つけた全ての人たちに許しをこうことは無理だけれど、これからできることをしていく。
「有毒な男らしさ」が、自分の感情に正直になることから遠ざけてしまうのだ。
とリッチー受刑者は言います。
暴力には言葉の暴力もあります。
各種スポーツでの告発が続いています。
権力を持った人間が、専制君主的に君臨して、脅して、逆らえないようにし、忖度させる。不具合が発覚すると、自分は命令していない、下の者たちが勝手にやったことだ、と言い逃れる。
政治の世界でも、似たようなことが起きています。
リッチー受刑者が言うところの「有毒な男らしさ」なるものが「恥ずかしいもの」なのだ、または「有毒な男らしさ」なんて「必要ないんだよ」という価値観が広がり、共有されていくようになれば、世の中から犯罪や暴力は消えていくのではないか、と私はあらためて思っています。
さらに彼はこうも言っています。
おれはフェミニストだ。男がフェミニズムや家父長制を語って、自分をフェミニストだと名乗ることは重要だ。おれたちのグループには、まだ名乗るやつはいない。
でも間違いなく、フェミニズム文学を読んで、フェミニストの考えを学んでいるんだ。
「フェミニスト」という言葉。これはちょっと曲者です。
私にとってはとても使いづらい言葉でした。
女性について語るとき、あえて「私はフェミニストではありませんが」などと前置きしたりもしていました。
ですので、この番組でリッチー受刑者の口から「フェミニズム」「フェミニズム文学」を極めて自然に肯定している発言を聞いたとき、理解するまでにすこし時間がかかりました。
今朝も、朝の報道番組のなかで、若い女性コメンテーターが、フェミニズムをマイナスの意味で捉えている使い方をしていました。
フェミニストというと、ちょっとエキセントリックなヒステリックな、そんな印象を受けたり、与えたりしてしまうのかもしれません。
「ウーマン・リブ(女性解放)」という言葉もあります。
これも日本では、確か、男性が女性を蔑むように「彼女ウーマンリブだから」「あなたウーマンリブ?」みたいに使っていたように記憶しています。
ちょっとできる女性や、男性の誘いにホイホイ乗らない女性を揶揄する言葉、怖い女的な意味合いも含まれていたのではないでしょうか?
だから「女子力」なるもので、日本の女性はカモフラージュしなければならないところまで追い込まれてきたのかもしれません。
フェミニズムについては、別の良い記事がありますので、
次回はそちらを検討したいと思います。
この番組「町山智浩の今を知るアメリカ」で町山のアシスタントをしている、スティーヴン・セガールの娘で女優の藤谷文子が、番組の最後にこうコメントしました。
固定観念がなくなれば平和になると思う、大げさでなく。
固定観念とはこれですね。
Toxic Masculinity「毒性のある男らしさ」「有毒な男らしさ」。
Patriachy「家父長制」。