ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「生産性」ということ~言葉のイメージ~

「やまゆり園」殺人事件からもう2年ですか。

 

ハフポスト日本版
「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。」国会議員同性カップルは「生産性がない」と主張し、議論を呼んでいます。

自民党の杉田議員。

ここで言われている「生産」とは「子ども」のことですよね。同性カップルは「生産性がない」とは「子どもをつくることができない」ということ。

まずは、この発想が差別、人権侵害であることは言うまでもありません。

杉田議員の主張と「やまゆり園」の犯行は同じだと思わざるを得ません。

それから、

古谷経衡
LGBTでも社会貢献して生産性があるから批判はおかしい』というのは反論ではない。生産性があろうと無かろうと、LGBTであろうと無かろうと人間には生きる権利があり、公的な支援を受ける権利がある。これぢゃないか?

 反論する側も、この古谷経衡のツィートにあるように、注意深くしないといけないと思います。人権は生産性云々の問題ではありません。

望月優大

LGBTは生産性がないから支援すべきでない」という暴言に対して「LGBTでも生産性のある人がいる」という反論が沢山RTされていた。

どう見ても同じ罠にはまっている。

 「生産性のある人がいる」ということは「生産性のない人もいる」ということを暗に表明していることになってしまいます。

 

私は、この差別的話題についてあちらこちらでさかんに叫ばれるようになってから、差別のことよりも、そもそも「生産性」って何だっけ?と思ってしまったのです。

と言いますのも、私は「生産性」というワードをとても「良い言葉」として使っていた経緯があったからです。

でも、よく考えてみますと「生産性」と聞きますと昨今では「労働生産性」というイメージが強いのかもしれません。

 

近頃では、働き方問題で、日本はヨーロッパに較べて「労働生産性」が低いなどと言ったりします。例えば、イタリア人もフランス人も、日本人よりも働いている時間は少ないのに金持ちだ。その通りなのですが。

これには、政治的、社会的、民族的に様々不具合がありそうです。

 

私は、この「生産性」という言葉を「知的生産性」の方で使っていることが多かったと思います。物理的よりも精神的な概念をより強く持っていました。

ですので、「生産性がない」という差別発言を期に、はたと考えてしまったのです。いつごろから私この言葉使ってたかな、と。

さらに言いますと、LGBTの人たちにせよ、ハンディーキャップの人たちにせよ、「生産性」が「あるない」で言えば、私にとっては「ある」人たちです。「知らないこと」を教えてくれる人たち、という意識が私にはあるのです。

 

そして、ちょうど読んでいたある思想家の本のなかにまさに「生産性」という単語が出てきました。あ、私と同じように使ってる、そう思ってちょっと安心しました。

私は記憶を辿り始めました。私自身、いったいいつから「生産性」というワードを便利に使い始めたかを。

すると、印象的な場面に行きあたりました。

大学生のときでした。友人が「そういうのって生産性がないから私は好きじゃない」、言葉は正確ではありませんがそのように、その場をちょっと批判して言ったのです。

労働していたわけでも、何かをつくっていたわけでもありません。

この友人が求めていたのは、心の成長。何か学べること、発見や気づきがそこにあるかないか、という視点だったと記憶しています。

ゆえに私はそのとき、あ、良い表現使うな、と感心したのを覚えています。

とはいえ、あまり頻繁に使う単語ではありませんでしたが、いや、もしかしたら無意識に多用していたかもしれませんが、今回、自民党議員の発言から、ふと立ち返ってみることになったのです。

「生産性」とは「何かを生み出す」ということ。

それはプラトンソクラテス)の「産婆術」と同質のように私には思えています。

ここ数年、言葉、単語の意味や印象が変えられてしまうという現象が起きていますので、この言葉もネガティブなイメージにならないことを祈っています。