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「ベーシックインカム」+「マキシムインカム」~マルクス・ガブリエル~人が壊れないための「ネバーエンディング・ストーリー」~

マルクス・ガブリエル。

ドイツの哲学者。

2018年7月6日毎日新聞夕刊「特集ワイド」に、6月に来日した際のインタビュー記事が載っていました。 

表題は

「広がる21世紀型ファシズム

「政治に倫理は大事なものでなくなった」

「スピード社会は我々を壊す」 

ここでは「スピード社会は我々を壊す」に注目します。

マルクス・ガブリエル著「なぜ世界は存在しないのか」に、現代社会の抑鬱性に触れたくだりがあるそうです。(この書籍、私はすでに購入しているのですが、他の書物にかまけている間に二か月が過ぎ、いまだほんの数ページ読んだ状態のまま。今月中には読み終える予定ですが、次々図書館から本がやってきて、返却期限があるのでそちらが優先されてしまいます。ちょっと読んだ感じでは、著者の思考が非常にすんなり入ってきて読みやすいです。)

これは先進世界共通のことだ。 

社会のシステムが一つの目的に向かい、一定の速度で動いているときはいいのですが、目的が失われたとき、システムそのものが壊れ始める。それが鬱です。

日本の資本主義は世界でも最も速い社会システムの一つで、見事なほど完ぺきに組み立てられ、成長をもたらしてきた。

今も日本人が時間に厳しいのは礼儀正しさではなく、資本主義からきたものです。

 なるほど、そうですか。礼儀正しいのではなく、資本主義システムとそのスピードという環境によって育てられたものなのですね。

さらにこう述べます。

会議はなく、地下鉄に乗ることもなく、メールも電話もする必要がなく、何かに応える心配もなく、ジムにもディナーにいくこともない。

そして内省したとき、自分の思考が自分自身に反発してくる。それが鬱の要因です。

この場合の鬱は、セクハラやパワハラなどの理不尽な攻撃などによって心が弱って鬱状態と診断される場合の鬱とは違うのだと思います。

特定の誰かのことではなく、おそらくここで記者が言っている

社会全体が鬱っぽくなった印象

という全体的病魔のことなのだと思われます。

だからスマートフォンがはやるのです。抗うつ剤のようなものです。地下鉄でもどこでも指を動かすのは、内省から逃げている。精神が自分を食い尽くそうとするのを必死に防いでいる。

精神面での話をすれば、忙しくしていることは、ある意味自分から逃げている、ということでもあります。

自分と対峙するのか怖くて、予定表をびっしり埋めたりします。

会議も地下鉄もメールもジムもディナーもないときふっと、自分はいったい何をしているのだろうと思ったり、ときに疑ったりします。

考えないでいることを人は好む傾向にあります。楽だからです。

皮肉なものだと思います。

仕事や生活や勉学などなどで忘我の状態にある人々、それは精神衛生上良くない状態であるはずなのですが、忙殺状態から解き放たれるとき、例えば帰りの電車内とか休日とか、内省の時間にうっすら滲み出してくる自分の精神が、思考が、「自分を食い尽くす」ように感じる、自分を攻撃してくるように感じる、というのですから。

つまりそれは、忘我状態の自分が価値ある自分である、という認識を持っているということなのでしょう。基軸は世間です。

そこで自分に迫ってくる価値観は、おそらく2つあって、ひとつは、忘我の自分ではない本当の自分が求めていることができないという落胆、もうひとつは、忘我の自分が、忘我的世界観のなかで認められていない、あるいはもっと認められてもいいのに、といったこの世間体をベースした欲望と自己卑下、ではないでしょうか。

もしスマホがなければ人々は即座に鬱になる。

ということなので、みんなが即座に鬱になるよりはいいのかもしれません。それにしてもどこか歪んでいるように思えます。

昔だったら、ウォークマンスマホの代わりだった人もいるかもしれません。自分の世界である別世界に逃げ込むことのできる、いっときでも世間を遮断して心を守れるという素晴らしい発明だったと思います。

すでに十分あるのに高速で生産し続けなければ立ちゆかない。そんな社会システムは間違いであり、それは我々を壊し、先にあるのは虚無だけです。

「虚無」というと私は、「ネバーエンディング・ストーリー」が心にすぐ浮かびます。映画で観た人も多いのではないでしょうか。

そう思っていましたら、「なぜ世界は存在しないのか(講談社選書メチエ)」のなかに次のような一節を見つけました。「チェバーエフと空虚」という小説を紹介をしたあと、マルクス・ガブリエルは次のように書いています。(「はてしない物語」は「ネバーエンディング・ストーリー」のことです)

いっさいは巨大な空虚に取り囲まれている。―これはミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を思い起こさせます。よく知られているように、エンデの「物語」では、子どもらしい空想の世界である「ファンタージエン」が、虚無に呑み込まれる危険につねに脅かされているように、エンデの「物語」のメッセージはこうです―わたしたちは、子どもらしい空想の世界を守り、慈しまなければならない。大人になっても、夢見ることをやめてはならない。さもなければ、わたしたちは虚無の手に落ちてしまうのだ。完全に何の意味もない冷たい現実だ。そこでは、もはや何も意味をなさないのだ……。(P35)

 

マルクス・ガブリエルは、スマホをやめろと言っているわけではありません。

間違いを認め、そこから脱却しよう。

実は、思考するということはとても大切な行為で、思考能力は人の自律を支え、リテラシーを高めてくれるものだ、と私は思っています。

スマホからの情報は多いので、そこで「考える」ということをすることもできるはずです。逃げ込み、流していくだけではなく。

 

脱却した先には何があるのでしょうか。 

記者が「扉の向こうに何がなければならないのか」と問うと、

人間を壊さないモデルだ。

今はどんな政治問題も一国だけのレベルでなく世界の問題だ。気候変動も不平等も。

扉の向こうにあるのは不平等解消のあるべき姿だ。

と答えています。

さらにこう言います。

ベーシックインカム(最低所得保障)」に加えて、

「マキシムインカム(収入上限)」が必要だと。

金をいくら稼いでも個人の楽しみは限られている。例えば月額50万ユーロ(約6000万円)を上限にする。共産主義になれというのではない。資本主義下でできる話です。

国レベルでも世界レベルでも今の不平等は過去最悪。今の民主主義の危機もポピュリズム権威主義も全て、不平等の問題からきている。扉の向こうにあるのは、それを乗り越えた新たな社会モデルだ。

同様のことが「新たなルネサンス時代をどう生きるか(国書刊行会)」にも書いてありました。

富裕層からさらに多くを求める。メディチ家は(略)、公共事業に莫大な金を費やした。(略)十四世紀の葬儀での弔辞では、財産の放棄が賞賛された。

今日、富裕層はふたたび、その蓄えを正当化する責任を負っているが、基礎となる道徳はますます世俗的になっている。完全に所有者の努力だけで得られる財産はない。(略)デジタル化は(略)、勝者ひとり占め効果を生み(略)、結果として相応の稼ぎと富の蓄積との格差を広げている。

富裕層は、所属する社会の許容範囲まで格差を縮める充分な努力をしていない。

(略)

政府のばらまきや不備な規制によって巨万の富を築いている社会の新興財閥たちを名指しして(還元しないつもりなら)非難しよう。最終的に、富裕層が贈与を増やすつもりがないなら、さらなる累進税の改革を要求しよう。(P382~3) 

 

じわじわと時間をかけて人の精神が変わっていく。

マルクス・ガブリエルは言います。

システムだけ変えようとしてもうまくいきません。人々の精神構造が変化していないと、そもそも受け入れられないでしょう。

北欧などにそれに近い考えがあるし、日本は今でこそ格差がひどいけど、かつては収入格差が極めて小さい良き価値観を備えていた。

一億総中流社会時代のことか?

日本がモデルになれるかもしれない。

今の政治や国民意識のままでは、それは難しそうです。

貧乏人がいないと優越感を持てないと思っている為政者たちがほとんどだからです。

所得の低い人や、何かにチャレンジしている人は、ベーシックインカムは本当にありがたいシステムになると思います。生活のためだけの仕事をして、本当にやりたいことを諦めなくて済みますので。

高額所得者や資産家だって、たいていはベーシックインカムには反対しないでしょう。全員が平等にもらえるのですから。そんなはした金な~んの役にも立たないと思っても頂戴するでしょう。

反対する人たちは、どうして働きもしない奴に金を渡すんだ!といった意地悪な正義感の人たちであり、また、みんなが得をするのは許せない的なひねくれた自分本位の人たちだったりしますでしょうか。

マキシムインカムはどうでしょう。こちらは手ごわいかもしれません。政治家から大手企業社長、金融業、スポーツ選手、芸能人……。

 

ちょうど、このような本を読んでいました。

スピリチュアリストを名乗る江原啓之の著書「運命を知る(PARCO出版)」です。

日本人の特性、日本の富裕層の特性をよく表していると感じた一節。 

江原が個人カウンセリングをした資産家と高利貸しで財を成した相談者の例をあげている箇所です。

また、二人に共通していたのは、神社などに多額の寄付をしていながら、現実の人間に対してのやさしさや思いやりを感じられなかったことです。ということは、信仰心があるようでいて、実は自分のための信仰だったのでしょう。神様であっても、人であっても、この人たちには常に駆け引きの対象なのです。

ここでは江原は、

自分の器を知らないと、どんどんと欲が膨らみ、その歪みは必ずどこかに出るのです。

と、そこまでして自分の資産を守りたいのかと欲の深さにあきれた、と書いています。

私が注目したのはここです。

神社などに多額の寄付をしていながら、現実の人間に対してのやさしさや思いやりを感じられなかったことです。ということは、信仰心があるようでいて、実は自分のための信仰だったのでしょう。

「神社への寄付が自分のための信仰」という言葉が、資産家や富裕層と言われている人たちの本質をついているように感じました。

物理的に自分の得になることにならお金を惜しみなく使うが、慈善行為や福祉行為といった寄付、税金を多く納める、ということは「絶対しない」と決意しているかのごとくにさえ見えます。

500年前のルネサンス時代には、メディチ家はまさにパトロンでした。文芸復興に一役買っていました。

そうできるためには、ある程度の「教養」は必要なのだと思います。

昔よく「成り金」と言っていましたが、日本自体が成り金国家なのかもしれません。

 

ひとつ、なんとなく嬉しかったのは、

ベーシックインカム」に加えて「マキシムインカム」を提唱してくれたということは、「ベーシックインカム」がすでに常識になりつつある、ということの現れではないか、と希望的観測で想像できるので。

 

今晩(2018年7月15日)NHK

BS1スペシャ「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」

という番組の放送があるようです。