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「余命18日をどう生きるか」田村恵子著〜自分の死と向き合うということ

 津村記久子著「枕元の本棚」(実業之日本社文庫)のなかで紹介されていたので、図書館で借りて読んだ。「枕元の本棚」を読むまで、この本の存在を知らなかった。

 

「余命18日をどう生きるか」

田村恵子著 朝日新聞出版

 

「君は永遠にそいつらより若い」を映画で観て何気に心惹かれて、それからこの作品の原作すなわち小説を読んでから津村記久子のファンになりその後、図書館でいくつか津村作品を借りた。私が購入したのは「枕元の本棚」「やりなおし世界文学」「くよくよマネジメント」。

「枕元の本棚」「やりなおし世界文学」は、読書エッセイ。

「やりなおし世界文学」のほうは外国文学なので、私自身けっこう知っている作品も多く(私はなぜか海外の小説ばかり読んでいた)、懐かしく思ったり、津村がどんな感想を抱いてどう紹介してくれているのか、興味深く読んだ。

「枕元の本棚」は、絵本から図鑑まで多岐にわたるジャンルの書籍が紹介されているのだが、私にってはほとんど未知の本だった。ゆえに、いくつかチェックして図書館で借りたが、津村の魅力的な文章から得た情報ほどにはたいして興味を持てずに、ほとんど読まずに返却したものもある。

「余命18日をどう生きるか」は、そんななかでしっかり読了した一冊。とても誠実な内容だった。

 看護師である著者の田村恵子のことも知らなかったし、「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK2008年)で田村の仕事について放送されたことも知らなかった(オンデマンドで探したが見つけられなかった)。

 

 書籍タイトルにある「余命18日」というのは、ガン患者がホスピスに入ってから死を迎えるまでの平均日数。田村はホスピスで働く看護師なのだ。

 患者たちとの交流を通して死を見つめてきた田村の思いが、配慮のある語り口で綴られている。田村は「死」についてすべての人がしっかりと考えてほしい、と言う。

 日本では確かに「死」を隠す傾向が強い。死者を実際に見る機会は、令和、平成よりも昭和とそれ以前の時代のほうがずっと多かったと思う。とくにここ2〜30年は、子供に遺体を見せないようにする家族もいる、と小学校の先生から聞いたことがある。

「死」は忌避され、例えば親と、死んだあとの様々についての話をしておこうとすると「縁起でもない」「おれを殺す気か」などと話ができない、というようなこともあるのではないだろうか。最近は終活なることが推進されていたりして、自分が死んだあとのことを書き残しておく人も増えたようだが、私たちの意識は少しは変化しているのだろうか。

 

 人は誰でも死ぬ。いつ死ぬかは分からない。明日突然事故や災害で死ぬかもしれないし、5年後に病気で死ぬかもしれない、というようなことを人は喋ったりするが、でもそれは自分ではない、とおそらく心のどこかで誰もが思っている。

 絵本作家の佐野洋子が「今日でなくてもいい」というエッセイのなかで次のように書いている。

(略)「死ぬのはいつも他人」なのか。しかし、生きている人間に絶対に確実なのは死ぬことだけだ。生まれて来ない人はいるが死なない人はこの世に一人もいない。

(略)

そう言えば、九十七歳の友達の母親が、「洋子さん、私もう十分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」と言ったっけ。

(「今日でなくてもいい 佐野洋子エッセイコレクション」

河出書房新社P165〜169)

 死ぬのはいつも自分以外の誰か。ほんとうになんだったら自分は不死身だと思っている人は意外といるのではないかとすら思ってしまう。年老いて十分な財産もあるのに、依然として強欲だったり吝嗇だったりする人もいる(それは魂の性質の話で「死」と向き合えているかどうかとは違うのかもしれないが)。

 少なくともおそらくかなりの数の人(もしかしたら100%近くの人)が、自分もいつかは死ぬということは知っているけど、それは今日明日でも10年後でもない、と思っているのではないか。逆に言えば、そう思っていないと生きていられないかもしれない。

 ゆえに「死」というものはいくつかの側面から捉えることができるのではないか。

 例えば「死」をタイムリミットとして使って、自分のほんとうにやりたいことをやったり、やりとげたいことをやる。あるいは高齢者だったら、もう残された時間は少ないと理解しつつも、その日(死の日)は今日でも明日でもないと思いながら希望を持って余生を生きる。

 人間は「死」について忘れて生きることもひとつのポジティブだが、「死」を覚悟して生きるのもまたポジティブだ、と私は思う。

「死」のタイムリミットをつくって物事に取り組んでいるときは、夢中になっているので「自分はいつかは死ぬんだ」なんてことは忘れているだろう。それはそれで良いのだと思う。

 

 セネカはこう言っている。

諸君は永久に生きられるかのように生きている。

セネカ「人生の短さについて」岩波文庫P15)

 私たち人間は人生の時間を無駄に使っているのだ、と言う。人生は短いのではなく自分たちで短くしてしまっている、というわけだ。その通り、と言うほかない。

 人生の時間は永遠ではない、ということを意識して自分の人生を生きることができれば最高なのだと思う。が、セネカなどの本を読んだ直後はその気になるが、たいていは数日もすると忘れてしまって、まただらだらと過ごしてしまったりする。そして、あとになって、もっと勉強しておけばよかったとか、あのとき取り組んでおけばよかったなどと後悔する。

 田村もこう書いている。

(略)死に対して後悔しないように準備をしておくことは、今の日本ではなかなかできていませんよね。それはなんでなのかな、とわたしもよく考えます。

みなさん、どこかで「自分は死なない」と思っているんじゃないのかしら、という考えにたどりつきました。

死について「考えていないことはない」と思いこんでいるとでも言うべきなのでしょうか。

(P85)

 セネカが言うように人は、「永久に生きられるかのように生きている」。すなわち、自分が死ぬなんてことは思ってもいないので時間を無駄に使うことができる。人間は必ず死ぬのだが、それでも自分にとってその日は、今日でも明日でも10年後でも30年後でもない。いや、40年後、50年後かもしれないが、それはまだまだまだまだ先のことなのだ、永遠に。

 

「余命18日をどう生きるか」では、セネカのような人生訓は語られていない。

 田村が寄り添ってきたホスピスの患者たさんたちの日常や思考がゆるやかに綴られている。思わず涙してしまうエピソードもあるし、え?そんなこともあるんだと驚いてしまうような逸話もある。

 

 可能ならば「死」の前に数日の余裕があったほうがいい、と私は思っている。元気でぽっくりがいいと人はよく言うが、それだと旅支度ができない。

 ちょうどコロナが広がりはじめたころ私はいわゆる断捨離をしたのだが、余命を考えて捨てるべきものを捨てた。これからの残りの人生で二度と見ないだろう、使わないだろうというものは迷わず捨てた。自分亡き後に残しておきたくないものもある(「60歳からのわがままタロットセラピー」参照)。

「死神くん」(2014年テレビ朝日 主演/大野智)というドラマがあったが、死神がこれから死ぬ人のところへ現れて、あと3日で死ぬことを伝え、その3日の間にやり残したことをやっておくように告げる。

 3日じゃ少し短いかもしれないが、こういうシステムがあれば準備ができていいのにな、と思ったりもする。事故で死ぬならその事故にあわないようになどと画策してしまいそうではあるが、それはさておき、やっぱりあれこれ整理整頓する時間はあったほうがいい。3日後と分かっていれば家や部屋の片づけもできるし、欲を言って1週間あれば、長年やりたいと思っていたことのなかですぐにできることをやることは可能だ。

 ホスピスの平均滞在日数が18日。「死神くん」よりも十分な時間はあるが、身体がしんどいと活発な行動はできないのかもしれない。せめて捨てるべきものは捨てておきたい。家族と話したり、穏やかなドラマや映画を観たりしたい。静かに風の音や鳥のさえずりを聞きたい。友人とか知人とか親類とかには、私はとくに会いたくない(理由はいろいろあるが、それはまた別の機会に)。

 

 ホスピスでの仕事について田村が感じてきたことを読んだとき、私自身の思考と重なる部分があった(私はタロット占い師です)。

 患者さんとの接し方について、今なら別の向き合い方ができたのではないかと振り返ったりすることもある、と田村は書いている。もちろんそのときはそのきで一生懸命取り組んでいたわけだが。

 私も同じことをときどきふと思ったりすることがある。別の言い方をしたほうがよかったかな、もっと良いアドバイスがあったかも、などと。仕事を続けた年数にもよるのだろうが、それでも、こういった類いの反省は永遠の課題なのかもしれない。それはまた、謙虚さにつながってよいのかもしれないが。

 ほかにも田村は、患者さんに気づいてもらうことの大切さについて触れている。こちらから結論をたんに教えるのではなく。私も占いでアドバイスをするとき、相談者さんに問いかけて気づいてもらうようにすることがある。もちろん占いなのではっきりとメッセージを伝えることは多いが、こちらが一方的にお伝えしたことよりも、本人が気づいたり言葉にしたことのほうが記憶に残っているはずだ。

 

 以下のくだりは、はっとさせられた。

赤ちゃんが生まれたときにも「五体満足でしたか?」と聞いてしまいますよね。人生のはじめからわたしたちは「元気」ばかりを見てしまいがちだということは、意識しておいてもいいと思います。

五体満足でない赤ちゃんもたくさんいますし、そのかたがたがすべて不幸かというと、そうでもないように思うのです。

健康な人しか見ないようにする、それ以外は「異常」「失敗」としてしまいかねない、という価値観が支配的なのではないでしょうか?

子どもが元気に生まれてきてよかったねという言葉が当たり前に交わされるような風潮と、家族や自分の死について考えにくいという状況とは、長い目でみるなら社会の価値観というところでどこかつながる部分があるのだろうと思っているのです。

そのような社会においては、病気を抱えた人は排除されがちになります。会社に病気を隠したいなんてことにもなります。

(P118)

 そういえば、芸能人などでも「五体満足で元気なら男でも女でも云々」みたいな発言をしているのを何度も聞いた記憶がある。おそらく定型句のように言っているだけなのだろう。でもよく考えてみたら、これって失礼な文言だ。そしてそう言ったり聞いたりしているうちに、無意識だが差別的要素が私たちに染み込んでいくのかもしれない。

 病気で休みにくいというのが日本の会社の特徴だ。コロナ禍で私たちはそれをはっきりと見せつけられた。また欧米では、コロナから生還した人を拍手で迎えてくれたり、看護師が称えられたりした。日本では、コロナ経験者から看護師の子どもまで遠ざけられた。

 日本では、すこし重い病気にでもかかったら、退職しなければならないかもしれない。そこまで追い込まれる。そして人の見る目が変わる。そう排除されるのだ。周囲でもネガティブに噂されたりする(みんな自分も重い病気になることがあるかもしれないとは全く思っていないのだろうか)。「病気=失敗」という価値観の構図だ。

 ゆえに、死についても語ることはタブーとなる。それが日本社会だ。おそらく西洋的ないわゆる「哲学」というものが根付いていないからではないか、と思う。

 この価値観は変わっていくべきだと思う。差別のない社会のためにも。

 

 死について準備をするために「考えるという作業を奨励しています」と田村は言う。さらにこう付け加えている。

これは論理的には矛盾しているのですけれども、一方では考えることが重要だと思いながらも、他方では考えないで身をゆだねることも重要なのかなと感じるのです。

(P164)

「考えること」「ゆだねること」どちらも重要なのだろう、と思う。

 歩きながら考えるもよし、立ち止まって考えるもよし。

 そしてあとはゆるりと手放す。

 タロット占い師としては、この一文で「タロットカードNo12吊るされた男」がふと目の前に現れた。

 この図像の吊るされている人物は、文字通り拘束されているので身動きが取れない。頭は働くので考えることはできる。いったん立ち止まって考えましょう、という助言にもなる。また、身動きが取れないのは自分の思考のせいでもある。凝り固まった思いがそうさせる。握りしめている手を広げて手放してみる。そして自然の流れに身を任せてみる。すると見えなかったもの、別の道や扉や解決策が見えてきたりする、というメッセージでもある。

「吊るされた男」のカードを忌み嫌う人は少なからずいる。たしかにネガティブに見えるかもしれないが、いやむしろ、ほんとうにやりたかったこと、あるいはすべきことを教えてくれるカードだ、と私は解釈している。なぜなら、今すべきことをすれば拘束は解かれて道は開かれていくので。逆に言うと、すべきことをしていないから硬直状態にあるわけだ。

 今すべきことって何?それを考える、それに思いを致す。

 穏やかな死を迎えるために。

 

追記

 私は「死神幸福論」なるものを提唱しているが、この田村恵子の著書を読んで、なんだか恥ずかしくなった。なんとも軽々しく1週間後に死ぬとしたら…なんて言ってきたな、と。ホスピスで死と向き合っている患者さんたちに失礼だ。

 私が「死神幸福論」で言いたかったのは、例えば、あと余命いくばくもないとしたら、あなたはその大嫌いな会社に行って上司のパワハラを受け続けますか?ということだ。すなわち、理不尽を我慢しないで!あなた自身のやりたいことを我慢しないで!ということだ。

 なので、ものすごく軽々しいことを言っているわけではないのだが、それでもやはり、実際に「死」を明確に目前にすることは、自己啓発とは違う。

 しかし一方で、セネカ佐野洋子らが提示してくれているように、「今を生きる」ために自分を「死にゆく存在」だと認識して行動する(生活する)ことの大切さを、私はやっぱりこれからも自分自身で覚悟しながら伝えていきたいと思っています。

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